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「…荷物そっち置いて。何か飲む?」 広い居間と廊下だけ、照明をつけて、不二は一旦その部屋から出ていったと思うと直ぐに戻ってきた。 テーブルに置かれた、暖かい紅茶と珈琲。上る湯気と、厚く引かれたカーテンの向こうの真っ暗やみ。 何だか不二がぎこちない様子なのは、先程自分が言った台詞の所為だろう。 判っていても、訂正する気もなければ助け船を出す気もない辺り、自分は他人が思っているより余程いい性格をしている。 何か見る? そう言った彼の唇を、テーブルに片手を付いた体勢で軽く塞ぐ。 がたん、と鳴ったのはテーブルとソファから勢いよく立ち上がった彼の所為。 二つのカップから零れなかったのが不思議だ。小刻みに揺れる磁器。 夕焼けで、あの時よくは見えなかった。不二の頬がはっきりと、紅潮しているのが判る。 「……手塚、君調子乗りすぎ」 「そうか?」 しれっと答えると、“そうかじゃないよ”と睨み付けて、それでも紅潮していては迫力も何もない。 不二もそれは判っているので、すぐにふいっと顔を背けた。 「とにかく、夕食終わるまでは駄目。お風呂だってお湯落としてるのに…」 上着を脱いだだけの白い背が、照れたように向けられているのがおかしくて、気付かれないように静かに笑う。 暖房が緩やかに室内に満ちていく。身体が熱いのはその所為ではないことも。 知っていて逸らされた身体。突き放す威力も冷たさも何処にもない。 「聞けないな」 零した言葉。言葉の響きの近さにか、言葉自体にか。 振り返ろうとした不二の身体を背後から抱きすくめて、伸ばした右の手がその首筋を捕らえる。 「…あ……っ」 逃げられないように囲い込んで、耳元に唇を寄せる。 「それとも―――――、バスルームでされたいのか?」 「バッ……!!? …手塚の馬鹿、親父!!! 信じらんな…ッ!!」 掴んだ首から顎へと伸ばした手を返して、強制的に振り向かせる。 視界の急転と間近で覗く顔に喉元の言葉が引っ込んだ事にも構わず、唇を落とした。 抵抗しようと突っ張った手も、流されまいとする行動も全ては無駄に終わった。 口内に差し込まれた舌が呼吸さえ逃がさないように絡み付いて、付け根をなぞる。 奪われていく意識と身体の自由に、立っている事さえ危うくなって、抵抗を示していた指先がろくに力の入らぬまま手塚の腕にしがみつく。 皺になりそうなほど指を立てながら、実際大した力も込められない事の証明に、指先が細かく震えていた。 首の後ろに回されて、顔を上向かせるように当てられた手の指の動きにすら反応を返して、不二は顎を仰け反らせて止まない口付けを受け入れる。 足に力が入らない。手塚の腕がなければ自分で立っていることもままならない程に抜けた足が、辛うじて床に触れた。 「……………は…ぁ……」 鼻に掛かったような声と唾液が唇を離すと共にその口の端から零れて、しがみつく力ももはやないその身体をフローリングの床へと倒す。 自己の状態すら把握出来ない程、意識の霞んだ不二の喉に何度も唇を這わせて、その度に震える皮膚に舌を寄せると、皺になったシャツの前を開いてその肌に手を這わせた。 小刻みの震えを押さえ込み、下肢に指を伸ばした所で不二も我に帰ったらしい。 力の入らない指を手塚の髪に絡めて、自分の上から追いやろうとする。 「無駄な足掻きをするな」 「……っの……変態! 親父!」 「…誰が親父だ」 「バスルームでとか言う事自体親父だよ!! 老けてるのは顔だけかと思ってたらそうじゃないわけ!!? …ッぁ!」 器用に忍び込んだ指に直に触れられて、びくんと不二の背が仰け反った。 下肢に絡んでくる指に、浅い息とか細い喘ぎしか返せずに、それでも抵抗する手を離さない不二を見下ろしてはいっそ、小動物を苛めているような心境にさせられる。 「…お前も大概、学習能力がないよな」 生理的な涙が伝う頬も、拙い嬌声も意味を成さない抵抗も、忙しなく上下する肌と睨み付ける事すら出来なくなったその表情も。 全て加虐心を刺激するのだと、判ってやっているはずはないのに、邪推したくなる。 引き裂いて閉じ込めたくなる衝動を、愛しいと思うたびに腹に抱え込んで。 どうにかしたくなる。かんじがらめにしても足りない想いを、どうすればいい。 誰にも笑いかけないで。 誰にも話さず、触れずに。 誰とも。 「…………もう二度と」 「……ッ…は……ぇ?」 ぎり、と痕が残るほどに床に押しつけた手首を握り締めて。 刹那的な痛みに顰められた顔に手を寄せる。 今の、何処に一体余裕がある。 組み敷いた身体を責め立てて、そんなことでしか――――――そんなことですら。 満たせない渇き。全部、自分の物にしたいのに。 「………もう二度と、俺以外の奴に触れさせるな……!」 “許さない”―――――――――――――そう告げる手塚に、一度だけ目を見張って、ようやく。 不二の指先が伸ばされた。 いつものように、強請るように首に回される片腕。 「…手塚」 早い鼓動と、柔らかな声を側で感じてもう一度抱き締める。 不二から寄せられた唇を塞いで―――――――――――――――丁度、場違いなチャイムが二人の鼓膜を同時に叩いた。 「…………………………」 「……………………郵便、とか」 「出るなよ」 「この格好じゃでらんないよ。言われなくてもさ」 もう一度、鳴らされるチャイムにはっきり眉間の皺が増えた気がしないでもない。 諦めて帰ってくれないかと、そう思うのにそれに反してチャイムは鳴る。 ほとんど悪戯のノリで連打されれば、流石の手塚も無視して続けようとは思えなかったらしい。 中途半端に脱がされたままの不二から離れて立ち上がり、不機嫌そうに玄関に向かう。 「来るなよ」 と敢えて念を押した手塚に“だから行かないって”と答えながら。 不二は胸中で、何だか視線だけで人殺しそうだなと結構本気で思った。 居間の扉の向こうに消えた手塚が戻るのをただ待つ。 よく考えれば結構色々されたんだか序の口何だか。 急に玄関の方で大きな音がして吃驚する。 「…っえ? …手塚…?」 ちょ、ちょっと何したんだあの人? 「……ちょ……手塚!?」 咄嗟に脱がされた服を整えて、立ち上がろうとした不二の耳に聞き覚えのある声。 「兄貴!?」 自分よりは低い、驚き混じりに玄関から響いたのは。どう考えても。 というか地球上に自分を“兄貴”などと呼ぶ相手は一人しかいない。 「――――――――裕太ぁ!!?」 「…って居るんじゃねーかよ兄貴!! お前なに手塚さんに来させてんだよものぐさして!! 大体俺が来んの知ってて鍵かけんな馬鹿兄貴!!!」 「…っぇ…裕太!? …来るって僕知らな…ッ…!?」 大股で手塚の横を通り過ぎた裕太が、居間の扉を開けようとするのと。 不二の服装を思い出して呼び止めようとした手塚の耳に、潰れたような悲鳴と音が聞こえたのが、丁度。 「不…!」 勢いよく開かれた扉の先にあったのは、テーブル上に置かれたままのカップ二つと、引かれたカーテンと、テーブルの横に間抜けにもぶっ倒れている不二の姿で。 「……兄貴?」 手塚ですら、“何やっているんだ”と問い掛けたそうな沈黙の中、何とか上体を起こした不二がどちらにでもなく助けを求める。 「………腰…抜けた」 (つか立たない…) 「……………は……ぁ?」 呆れかえったというより言葉を無くしたらしい裕太の肩から、落ちた鞄がどさりと音を立てる。 「…何してんだお前」 ひとまず駆け寄った裕太に引っ張られて上体を起こすも、事情は説明できないわ何で帰ってきてるのか判らないわで言いたいことがすぐには見付からない。 並大抵のホラー物では顔色一つ変えない兄を知っているだけに、裕太は何で腰が抜けたか疑問符が浮かぶばかりだ。 それとは逆に、自分でやった自覚のある手塚が表情も変えずに近寄ってくるのを知って、睨み付けたくもなるがそれより先に過ぎった思考に、不二は声を上げる。 「…裕太、バスルーム!」 「は? へ? なにが…」 「お湯、止めてなかった…」 「はぁ? 止めろよ!」 腰抜かしてないで、等と言いながらバスルームに慌てて駆けていく裕太を見送って、何とか立ち上がろうとしながら居間をくるりと見渡す。 「…そういや、……もしかして姉さんは裕太が来るの知ってたわけか?」 僕は訊いてないぞ? 「これじゃないのか?」 「え?」 手塚がこん、と軽く叩いた壁際の小さなテーブル上。 そこにあった小さなメモ用紙を不二の側に持ってくる。 「………あ、そゆこと」 “今日、裕太が帰って来るから” とだけ書かれた姉からのメモだ。見る余裕がなかった。 「……なんか、気が抜けたし」 「何がだ」 「だって…君が来るんだったら当然さっきみたいな事になるって判ってたけどさ。 まさか………っ…………、君スイッチ入るの早すぎ」 「…誰の所為だか」 「君の所為でしょ」 未だ座り込んだままで睨み上げてくる眼差しに、紛れもない朱が混ざるから背筋をぞくりと走る衝動に。 けれど彼の弟が。 「止めてきたぞ…ってまだ座ってるんかい」 とか言って帰ってくるから。 「溢れてなかった?」 「ぎりぎりな」 「ぎりぎり、ね」 「本当にギリギリ、な」 敢えて区切って言う裕太が、呆れたように息を吐いて不二に“ほら”と手を伸ばす。 立たせてやろうとする。面倒くさそうに、けれどその中に、僅かに滲むのは“仕方ないな”と言いたげな柔らかさ。 裕太の手が、不二に触れるより早く。 「あ、ありがと……――――――――――――――!?」 些か強く、両の二の腕を掴んだ手塚が身体を運ぶような勢いで持ち上げた。 寧ろ、転んだ子供を抱き上げるような扱いに、言葉を無くしたのは不二もその弟も一緒で。 「不二、荷物。お前の部屋に運ぶんだろう」 「…え…う、うん」 一度は降ろされて、安堵したのも束の間。 自分の荷物を背負った手塚が、まだ自分に支えられたままの不二の身体を再度抱き上げた。 「ッ―――――――――――手塚!! 降ろしてよ!」 「腰抜かした奴が何を言う」 「もう歩ける! 自分で立てます!!」 真っ赤になって叫ぶ不二にも聞く耳持たず、不二と荷物を抱えたままでさっさと居間を出ていく手塚に、裕太は最早コメントできずに立ち尽くす。 夢じゃなかろうか、じゃなくて。あそこまで感情表現の激しい兄貴は初めて見るんじゃなかろうか、でもなくて(思ったけど)。 (――――――――――――――――…………手塚、さんが?) 「っちょっと手塚!! 危ない! 階段危ないからマジで!!!!!!」 「だったら暴れるな。じっとしていろ」 「ひっ……酷いじゃないかよりによって裕太の前でしなくったって――――――!!!!」 「聞こえるぞ」 「殺してやる―――――――――――!」 「無理だな(きっぱり)」 終いには手塚の肩口に顔を埋めて泣き真似(案外本気で涙目になっているかもしれない) をする不二の髪を器用に撫でて、二階の彼の部屋に連れて行く。 不二を寝台の上に降ろしてから荷物を床に置いて、照明を灯す。 以前来た時と、ほとんど変わっていない室内の様子。 「…本当、君調子乗りすぎ」 「まだ言っているのか」 「だって、裕太の前でだよ!? あっ…あんな風に抱き上げなくたって…」 「横抱きの方が良かったのか?」 「結構です!!!!!」 寝台の端まで思わず後退ってしまってから、不二は赤くなった顔を隠すように膝を抱く。 その髪を優しく撫でた手が、首筋に回って一度だけキスをした。 | ||||||||||