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「あ…、じゃルドルフって明日休みなんだ」 「そうだよ。明日には帰るけどな」 「なんだ。残念」 入れ直した紅茶を口に含んで、さらりと言われて、何時も通りの反論しか出来ない裕太を不二は笑って見ている。 居間で、テーブルを挟んで向かい合う。沈んだソファと、バスルームから聞こえるシャワーの音。 今は手塚が入っている。手塚が泊まると訊いたとき、裕太は少なからず驚いていた。 「明日も学校あるんだろ? 青学は」 「うん。だけど、文化祭の準備になっちゃうしね。 一組でやる喫茶店でさ、衣装が必要らしいから。なら貸せる物あるかもって誘ったんだよ」 実際は、それに他の感情も混ざってくるのだが。 一応、それで納得はしたようだった。 「兄貴さぁ」 「ん? なに?」 裕太から微かに流れてくるシャンプーの緩やかな香り。 風呂上がりの、薄い布地に包まれた身体。 帰ってきたことが純粋に嬉しくて、油断していた。 「…手塚さんと、仲良いのか?」 落とされた疑問に、胸中で思い切り戸惑う。 表情に出さなかったのが不思議だ。 「そりゃあ仲良いよ? チームメイトだし。なんで?」 「…いや、なんでって…」 暗に先程の光景を指しているのは判る。はっきりと言わないだけ、まだ確信でもないのだ。 「泊まりに来るんだったら英二とかだって来るじゃない」 「まぁ、そうだけどな……。じゃあ、なんで腰抜かして…」 「不二、入らないのか」 突きかけた確信はこうしてうやむやになる。 突然上から降ってきた言葉に、露骨なまでのリアクションを返す裕太が面白くて吹き出した不二に、弟は色々な意味で驚きだ。 曰く、なんでお前は驚かないんだよ。とか。 それが普通のリアクションなのだが。話題が話題なだけに余計、拍車が掛かる。 「じゃ、僕入ってくるね。…あ、夕食どうする?」 「……俺が作る」 「そう? じゃよろしく裕太」 ひらひらと手を振って向けられた背中に、叩き付けられない疑問。 ため息を吐いて、裕太はキッチンに向かった。 ぽたり、といつの間にか降り出した雨が窓硝子を叩く。 波紋は見えない。カーテンの向こう。シャワーの音と混ざる。冷たい水とお湯。 卵をフライパンの上に落として、何度かひっくり返しながらソファに座り込んだままの手塚をちらりと視界に止める。 (…第一) 文化祭の準備にしたってなんにしたって。 ジュ、と焼けた音に一度火を止めて、裕太は顔を上げた。 横顔を向けて座っている手塚がその視線に気付いて、絡む。 間の悪い沈黙に、余韻で焼ける卵が僅かに音を立てる。 「…………ちょっといいですか」 「…ああ」 真っ直ぐ、位置から見上げられる形になって、裕太は一瞬言葉が喉に呑み込まれたのを感じる。 よくよく考えれば、こうして手塚と話したことはない。 テニス部にも入らず、半年足らずで止めていった人間だ。 視線を合わせたこと、言葉を交わしたことこそ、あるけれど。 ―――――――――――――あの頃は、ただただ兄の存在が眼について。 だから。 「……さっき、俺が来るまでなにやってたんですか?」 今更、兄の周囲の環境が気になるだなんて、我が儘な思考だ。 あの頃自分の感情の振り幅が大きすぎて、家族の絆さえ見失いそうになって。 兄には、恨み言一つ、吐かれた覚えもない。 「別になにも。気になることでも?」 真顔でしれっと答えられる。誤解だったなら馬鹿な邪推。 「…いえ――――――――――――――ただ、兄貴滅多にあんな事ないから」 「…あんな? …ああ。立てなくなったことか」 「ええ。…ホラーとかにも異様に強いし、だから何かあったのかなと」 「そうか」 やはり素っ気なく吐かれる言葉に、何の証拠もないし、追求を諦めて休めていた手を動かそうと上段の棚の鍋を取り出す。 同時に極自然に言われた言葉に、思わず鍋を自分の顔に落としそうになって慌てたけども。 「結局、心配なんだろう」 なんて。 「青学にいた頃は随分と敵意も露わだったが…。 心配されていた等と知れば不二は喜ぶだろうな」 続けて言われて、実際喜ぶ顔なんて目に浮かびそうな物だけど。 突き放してしまった分、少しでも好意的な反応を返すだけで嬉しそうに笑う。 ひどく、今まで心配させていたのだと、判るけど。 (…だからといってすぐに素直になれるほど可愛げのある弟でもなければ、すぐに納得できるほど大人でもない、と。 結局、兄貴思いというかブラコンなんだよ裕太君は) 等と、以前に乾が言っていたのが記憶に返る。 あれ程一身に不二に思われて、贅沢じゃないのかと思ったところまで見抜かれて。 そこでその話は幕を閉じたけれど。 実際に、気になってはいるらしい。 それは、不二にとっては喜ばしいこと。 けれども。 「…………、覚えてたんですか」 「ああ」 「……………」 照れたのだか、恥ずかしいのだか。落としかけた鍋を置いて言葉を探している彼の弟。 先程の邪推は、確信の側のようで離れた脇を過ぎて。 「……気になるのか?」 「え…?」 「俺と不二の」 「…、」 こくりと、喉が鳴ったのがこの距離でも聞こえた気がする。 『じゃあ、なんで腰抜かして…』 あの言葉に本来付けられたはずの、抜けた主語は多分自分の名。 あの時ばかりは、彼は自分と不二を=で結んでいたはずだ。思考の糸として。 「…………、部活仲間…じゃないんですか……」 「部活仲間、であって欲しいのはお前だろう」 「……、じゃ」 言いかけて、言いかけて止めた言葉。止められた言葉は、裕太なりの警報。 “訊きたくない”――――――――――――と、その瞳が言っているようで。 けれど邪推したのは知りたいからに他ならない。 「手を離すつもりはない。…、お前には言っておこうと思っていた」 嫉妬心以上のこと。 彼の心を占めるもう一つ。自分の占められない場所を、遙か昔から埋めていた人格。 秘密のまま、通り過ぎる気が端から自分にはない。不二だって、きっとそうだろう。 何かが焼けるような音が響いている。空気の間で。動かす手も止めて、黙りこくる弟。 今兄が戻ってきたらどんな反応をするのだろうかと。 (手放すつもりなど毛頭ない。例え彼自身がそれを望んでも。他に誰かを愛したとしても) あの色素の薄い髪も、自分よりも細い身体も強く睨み付けるような瞳も、自分の名を呼ぶ声、他の誰にも見せないような一心の笑顔。姿と裏腹な心も強気な態度も、その不透明な弱さも。全て。 誰にも渡さない。 「―――――――――――――――俺のものだ」 低く、呟いた声は雨に掻き消されながら。それでも裕太の元に届いたらしい。 表情の硬直。動きの停止。 タイミングが悪い、と思ったのは彼と自分のどちらだろう。 床が一度だけ軋むような感覚があって、今の扉から不二が顔を覗かせた。 奇妙な沈黙を感じ取って、疑問符を浮かべて。 「……………、なに…」 この沈黙は。 暗に重苦しいよと言って裕太の方を見た不二が、“あっ”と声を上げる。 「裕太、焦げてる!」 「え…っわ!?」 不二の声で我に返った裕太だったが時既に遅し。らしかった。 手塚の方へも届いてくる焦げた匂いがそれを物語る。 「なにやってるんだよ裕太…。これじゃシチュー、カレーもどきになるよ?」 「判ってるわんなこたぁ!」 「怒鳴るくらいなら端から焦がさない。これ、僕がやるよ。 裕太他のやって」 「…………判ったよ」 何だか色々反論したそうにしながら、裕太は結局何も言えずにそれに従う。 救いというなら不二が手塚との会話の一切を訊いていなかったことだろうか。 焦がした理由の追及はない。代わりに自分から理由も言えない。 なんか苛々してるなぁ、等と思われていても。 「…あ、そういえばさ。裕太、今週の土日暇?」 「あ? …まぁ部活は休みだって言われてたけど」 「なら丁度いいや」 片手で鍋の中をぐるりと掻き回して、もう片方の手で火を止めながら不二が弟を振り返る。 「土日文化祭なんだ。暇なら来ない?」 というか寧ろ来て♥と言いたげな笑顔を向けて乙女手などふざけてされれば、肯定否定より先に“ふざけんなー!”と怒鳴られる。 判ってやっている節がよくあって、それはいつもの光景といえる。 「色々イベントあるしさ。おいでよ。折角なんだし」 「だったら普通に言えよお前は!」 「普通に言って断られたら空しいからさ」 「俺が空しいわ!」 「でも嬉しいな。ってことは来てくれるんでしょ?」 「は!? あ……っ……――――――――――――――――…………………」 一拍遅れて、自分が“行く”と匂わせるような発言をしたことに気付いて裕太が露骨なまでにへこむ。 色々と罵倒したい自分を押さえ込んで、絞り出すような声で。 「………行きゃいいんだろ行きゃ…………(敗退)」 と言えるまでおよそ二分。 「よかった。僕のクラス劇やるから見に来れたら来てよ」 「はいはい」 「テニス部の方でもさ、なんかやるらしいんだよね」 「…なんだよ、“らしい”っての」 「僕等引退しちゃったからね。それでも去年は普通に三年も混じってたんだけど、なんか今回“先輩達はノータッチで! 本番楽しんでください”とか言われちゃって」 内容よく知らないんだよ。 「なんか企んでんじゃねーの? あのつんつん頭とかさ」 「…名前覚えようよ裕太。仮にも同級生だったのに」 「嫌だね」 べ、とか舌を出して言い、裕太は先に出来上がった料理を更に並べていく。 暇になっていた上、会話の蚊帳の外にもなっていたのは流石に気になっていたらしい。 手塚が。 「何か手伝うか?」 と声を掛けるが、不二に“お客さんだからいいよ”と一蹴されて終わる。 「お客さんに手伝わせちゃ悪いだろ」 「判ってねーよな…兄貴」 「へ?」 小声でぽつりと呟くだけ呟いて、聞こえていないのを良いことに裕太は“何でもない”の言葉でなかった事にする。 あーいうのは待たされてる間が逆に苦痛だっていうのがあるんだよ。 大抵の奴は他人の家で一人だけ何もしてない時間があると気になるんだよ。等とは頭の中で想っても決して口にしない。 寮生活に慣れなかった頃、何度かそんな思いを味わったことがあるので何となくは判る。それだけとは言わないが。 手塚が“大抵の奴”の部類に入るかも知らないが。 「…そういや、あれ…。何だっけ」 「アレ?」 「文化祭のさ」 「……ああ、もしかして金貨?」 「ああそれだ。毎年あるわけ?」 「とりあえず文化祭の必須イベントだからね。うちの」 まぁ私立だから出来ることだよ。 「裕太はやらずに行っちゃったから。…でも下手するとバレンタインより人気あるんだよ」 「……大変だな。今年卒業だってんで苦労すんだろ」 「まぁ、でも手塚よりはマシだしね」 あれが全部使えるお金だったら凄いと思わない? ってくらいあったもの去年。 「元生徒会長の威力は健在――――――――――――――――そだ。 忘れてた。言おうと思ってたんだ」 「は? 俺に?」 「両方」 何とかカレーもどきだけは避けられたらしいシチューを盛りつけた皿を先に運ぼうとすると、やはり手持ち無沙汰だったらしい手塚が途中で受け取って運んでいた。 残りの皿と飲み物も運んで、それから手塚が“何が?”と促す。 「ほら、ミスコンあるじゃない?」 「ミスコン? …んなもんあったっけか?」 「今年っからだよ。 それも女子だけじゃなくて男子もあって。ミスとミスターをクラスで一人ずつ選ぶんだ」 なんでも、ミスだけじゃ女子が暇だってんで。 「は――――――――――――――で、お前はミスターに選ばれたとかって?」 「ううん」 「え? 違うのか?」 「英二がいるからね。六組」 「ああ…」 納得、とスプーンを軽く振った裕太の表情からは“手塚は聞かずとも判る”と言いたげな色がある。 不二も敢えて言わない。 「それで不二? 言おうと思っていたこととは?」 「ああうん。乾の事なんだけどさ」 「乾さん?」 裕太は明らかに“何でミスターの話題から乾さんに飛ぶんだ”と考えているのが判る。 手塚は、思い当たったらしい。まさか、と呟く。 「下宮君…、元副会長の人ね。 彼差し置いて十一組のミスターになったんだって。英二が凄い騒いでたよ」 「…取られたのか眼鏡」 「だろうねぇ」 お互い、彼の素顔を知っているからこそ起こったことも予測できる。 あまり驚いた様子もない手塚の斜め前で、素顔を知らない裕太が失礼なまでに顔を歪めた。 「…裕太、その顔、乾に失礼だよ」 「………言うなよ。 …だって、確かにあの人背高いけど」 「眼鏡があるからそう思うんでしょ? 別にあっても格好はいいじゃん。 …――――――――――――――――そうだ」 「え? どした兄貴…」 「ちょっと」 と言い置くなり、不二は食べかけのシチューもそのままにして居間を出ていく。 何を思いついたんだろう、と残された方は思うが、すぐに先程の気まずさを思い出して銜えたままのスプーンをもごもごと動かす。 と手塚に“行儀が悪い”と言われて更に気まずくなったりして。 やがて階段を下る足音が聞こえて、不二が戻ってきた。 片手に紙のファイル。 先程のように裕太の隣に腰を下ろすと、適当に頁をめくって引き抜いた写真をテーブルに置いた。 「ほら、これ」 「………なんだ? ……兄貴が一年時の?」 「そう、これが手塚で」 「兄貴は言わんでも判る。こっち菊丸さんか……………、?」 フェンスを背に、大仰なピースサインをしている菊丸とその横の不二と、笑ってもいない手塚と。 一年生特有の体操服を着て。 もう一人、見覚えのない姿がある。 菊丸の横。如何にも面倒そうに明後日の方向を向いた、黒髪の小柄な少年。 少なくとも、写真に写っている人間の中では一番小柄に見える。 「……………………………………………………………………………………………………」 「あは。気付いた?」 何だか、先程の手塚との会話と同じ勢いで固まった裕太を見て、何だか不二は楽しそうだ。 手塚は気にも止めない様子で紅茶を飲み干している。 「………っ………乾、さん?」 「そう、可愛いでしょ?」 「…――――――――――――――――バケモンかあの人は!?」 お前よか低いじゃねーかよ! 等と叫ぶ裕太の台詞は非常に説得力がある。 今、昔を知らずにそんなものを見れば驚くだろう。 だが、入学当時からその姿を知っていて、リアルタイムでその課程を見ている方としてはその時その時に驚いてしまったので今更どうこうもない。 「ま、結構伸びたとは思うけど」 「“結構”じゃねーよ」 「ところで裕太、僕を比較に入れるということは昔彼より高かったのに、今現在君よりも低い僕に喧嘩を売ってたりする?」 「…ッ…売ってねえし!」 「ならいいんだ」 あーでもこの頃は乾愛想無かったよねー、今愛想があると言えるのか? 昔よりマシじゃん。とかなんとかと続く会話を余所に、写真を凝視している裕太の傍らで、雨が止むことなく降り注いでいた。 | ||||||||||