その日はとても晴れた日で



時が微量一瞬だけ、針を止めた





蜩は現つに咲く
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中編−【慟哭は一秒早く】


 翌日、青い顔でクラブハウスに来た謙也が扉を開けると、室内には白石と財前しかいなかった。
「…」
 萎縮した謙也に、白石は気付くと、何事もなかったように笑った。
「ああ、おはよ」
「……あ、はよ」
「千歳もおはよ」
 そこで、背後から千歳が来たことに気付く。
「おはよ白石。今日はなにすっと?」
「今日はダブルスメイン。ま、追い出し紅白前の試しや。
 千歳もな」
「了解、俺は誰と?」
「候補二人おんねん、考え中」
「一人は、白石?」
 全国で白石と組んだことが千歳にはあったので、そう聞いたのは自然だった。
 白石がわからない。
 普通の様子だ。
 幼馴染みといっていい仲なのだ。喜怒哀楽はよくわかる。
 けれど、普通にしか、見えない。
 怒ってもいないようにしか。
「そう、あとは…」
 白石がホワイトボードにマジックペンで予定を書き込むためにキャップを口で噛んで外した音がやけに響いた。
 そのままきゅ、と書き始める。
「ああ、謙也?」
「うん」
「そらそうたいね。小春とユウジはあの二人でないといかんけど、謙也は誰とでも出来っけんねー」
「そうそう。小春とユウジはな。あれはもう特殊。
 他とも組めるけど、結局どっちかの良さ殺すから」
「じゃ、光は今回シングルス?」
「そう。でも一応、お前か―――――――――――――」

「“忍足”と組まそうかな、とは考えとるけどな」

 一瞬、理解出来なかった。
 彼は、今、誰のことを呼んだんだ?
“忍足”―――――――――――――って誰の名前?
“忍足”なんて、この部に、いないだろう?と俺が想ったのは、記憶がなかったからだ。
 俺を、謙也じゃなく“忍足”と呼ぶ白石は、記憶の最初から、一回もいなかったからだ。
 財前も、着替えをとめて、茫然と白石を見ていた。
「…白石? 今、なん…」
「やから、忍足と財前組まそうて話やろ?
 千歳もええんやけど、お前一回財前余所においた前科あるからな。
 俺が言い出したとはいえ」
 全国準決勝のことだ。
「…部長?」
 問いかけた千歳も、財前も、理解に至らない顔。
 けれど、一番理解出来ないのは、俺だ。
「……どしたん?」
「…白石、なんでん、謙也んこと…」
「忍足がなに?」
「…なんでん、“忍足”って」
「…俺、最初からそう呼んでんやんか。俺が名前で呼ぶん、金ちゃんか小春&ユウジくらいやって知ってんやろ」
「…しら、いし?」
 震えた声で、やっと呼んだら、キミは綺麗に微笑んでこちらを向く。
「なんや? 忍足」
「……し…………」
「あ、俺、もうコート出とかな。ほな、またあとでな」
 クラブハウスを出ようとする白石の背中に、思わず声をかけていた。

「蔵ノ介…!」

 昔の呼び名に、彼は足を止めたけれど、驚くことも、いぶかしむこともしてくれなかった。
「なに?」
「…蔵…」
「…忍足?」
 笑う顔だけ、いつもの、彼のまま。
「……“白石”…」
「用ないなら、行くし」
「……」
「? 変やな…」
 そのままいなくなった白石を、追えるはずがなかった。



 童話の人魚姫は、最後に王子を殺せなかった。
 泡になって、消える魚の姫。
 けれど、俺の人魚姫は、俺を殺すことを選んでしまった。
“謙也”として出会った愛情ごと、“忍足”というナイフで刺して、殺した。


 誰より綺麗な、俺の人魚姫。






 部室で、最後に帰ってくる白石を待った。
 千歳たちには、聞かれても答えなかった。
 答えたく、なかった。
「…あ」
 扉を開けた白石が、謙也に気付いて、それだけだった。
「まだいたん忍足」
 その声に、身が震えた。
「先帰っててええんに」
「……話、あるし」
「俺はないよ。なに?」
「…俺んこと」
「……忍足のこと?」
 その、声。身が震えるのが、止まらない。
 ―――――――――――――これは、どうしようもない怒りだ。
「なんで“忍足”なん。謙也やのうて。
 なんで、最初っからなかったことにすんねん」
「…最初から、…なかったことにしてへんやろ」
「どういう」
「お前とは、最初からこういう関係やろが」
 真正面から見つめる瞳に言い切られて、あっさり、箍は外れた。
 本当は、

「…っ、おし…!」
 本当は、罪悪も、悪いって思いも、お前を傷付けた悲しみもちゃんとあった。
 だけど、お前に。
 お前に“忍足”なんて呼ばれて、過去の軌跡全部否定されて、付き合ったことすら。
 なかったことにされて、堪えられる筈、ない。
「っ…やめろ!」
 拒む手が頬を引っ掻いた。赤い筋が出来るのを、痛みも感じずに思って、そのまま掴んでいた両手を無理矢理脱がしたジャージの布で縛った。
「や…!」
「別にええやろ。お前、俺の恋人やんな」
「…そんな…しらん!」
「好き言うてくれた。愛してるて。…やから、ほんまはされたかったんちゃうんか」
「…っ…や」
「あんなん、恋人ならやって当たり前やろ…なんでそれで存在ごと消されなあかんねん!」
「…―――――――――――――っ!」

 衝動のままに暴いて貫いた。
 悲鳴だけが部室に小さく響く。
 なんでだろう。
 気持ちいいのに、全然、感じない。
 ただ、繋がってるという、実感すら、ない。
 お前の中にいるのに。
「……は…っ…ぁ…」
「白石」
「……呼ぶな……」
「白石」
「…よ……っ…や」
「…しら」
「お前なんか…」

 涙を浮かべた目が睨む姿に既視感を覚えて、それはすぐ酷い恐怖になった。
 凍り付いた謙也に、貫かれたままで白石は泣きながら吐く。

「お前なんか大嫌いや!!」

「……白石」
 泣く身体を抱きしめて、それでも。

 離せるわけなかった。
 なにより、…愛しかったんだ。


 それが、罪過の始まりだなんて、分かり切っていても。






 それから、よく拒む白石を場所を問わず縛って犯した。
 彼が零すのは堪えきれなかった喘ぎと、“大嫌い”という声だけ。
 もう、あの声は聞こえない。

“謙也、好きやで”

 あの声、は、どこにも、ない。





「謙也」
 教室に訪ねてきた千歳に、視線を向けて逸らした。
「話、あると」
「…」
 無言で立ち上がってついていく。
 屋上だった。
「いい加減、聞かせてくれんね?」
「…白石んことか?」
「他にあると?
 引退も近か。なんに、白石がお前をあからさまに拒絶しとうみんなわかっとう。
 …こんな最悪な引退すんは、嫌と」
「…それ、千歳の都合やん」
「……“みんな”の都合とだろ」
 低い声が言っても、うまく伝えられる気がしない。
「俺も、小石川も、小春もユウジも、師範も、白石も、謙也も…残る光や金ちゃんみんな…。みんなの都合だろ…!
 謙也、…ちょっとおかしかよ。
 謙也、そげん言い方、絶対せん…!」
 心底心配している、と伝わって、申し訳なくなった。
 冷静になれば、白石に対する落ちようのない罪悪も覚えるのに。
 彼を前にして“忍足”と呼ばれただけで、それをあっさり上回る“怒り”。
 自分は、なんなんだろう。
「…白石、俺と付き合ってんやん」
「あ、ああ」
「やけど…俺とセックスとかはあかんて、無理て言われた」
「……それで、喧嘩しとーと?」
「……それで、俺が無理矢理犯したからや」
「…………」
 千歳が言葉を失った。
「…馬鹿やろ。…でも俺、…白石はわかってくれるて、思ったんや。
 やって、あんなに、好き言うてくれた…」
「…謙也」
「……許されるて、思うた……」
 本当に、馬鹿な話。
 馬鹿過ぎて、もう、笑うしかない、話。
 悲しい、笑い話。
 屋上の扉がその時開いた。
「やっぱおった」
「…白石」
 白石だ。
「もう部活やろ、はよ来い。二人とも」
 声すら、いつも通り。
 それが、俺には。
「白石…、」
「なに? 千歳」
「…謙也、…どう、思うとると」
 千歳の言葉に、白石は一瞬の後、表情を消した。
「…それ、忍足が聞いて欲しい、言うたん?」
「…いや」
 俺の、と言おうとした千歳の横を通って、白石は謙也の前に立つ。
「ほな、今はっきり言うといたる」
 その綺麗な顔は、あまりに冷たく、色もなくただそこにある。
 そこで、謙也一人を射抜く。
「俺は」




「俺は、世界で一番、お前が嫌いや―――――――――――――」



 どこで間違えたのだろう。
 こんなに愛しているのに、もう、キミの愛は聞こえない。
 もう、聞こえない。
 頬を涙が伝う感触は、もう“怒り”より“悲しみ”が大きくなった証で。
 堪えきれず走り出した謙也を追わず、白石は振り返ると、千歳に言う。
「ほら、はよ、部活行くで」
 千歳は、それを黙って見つめるだけだった。






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