誓い去りし

第二話[漆黒の眠り姫]





「同盟…信じられるか?」
 橘に投げるように渡された手紙に、千歳は白石の髪を撫でながら目を通した。
「在る程度は信用していいんやなか?」
 自分たちは黒の立場を少しでもよく、確立するために動く。
 可能性があるなら、失敗を恐れて拒むことも出来ない。
 それに、入ってきた申し出をえり好み出来る程自分たちの味方は多くないのだ。
 少しでも可能性に賭ける。それが自分と橘、そしてここにいる仲間の考え。
 千歳の膝に乗り、髪を撫でる手に心地よさそうに瞼を閉じて、胸元に身を預ける白石が不意に顔を上げた。
「ご主人様?」
「ん? どげんしたと?」
「…。…それ、ご主人様たち、また俺のおらんとこ行くん?」
 無垢すぎる瞳と表情の中に、少し不安が混ざって見上げている顔。
 髪をくしゃりと撫でて、橘が優しく笑いかけた。
「いや、向こうも表だって動けないらしい。
 だからこっちのフィールドでやってくれる。お前のいるところだ」
 その言葉に、とても嬉しそうに微笑んで白石が髪を撫でた橘の手を取って指にそっと舌を這わせる。
 それを軽く、優しく解いてもう一度橘の手が頭を撫でた。
「今日はもう少し話すから。先に休むか?」
「ご主人様と一緒に寝る」
「そうか。もう少し我慢してくれるか?」
「はい」
 従順に返事をする白石を撫でる、その親友の手。
 感じるのは、嫉妬か、それともやるせなさか。
 千歳だってわからない。

 あの時、片方だけが白石を抱いていたら、堕としていたら。
 染めなかった片方のことを、白石は忘れたのだ。
 片方への愛情もなにもかもを、失っていた。
「千歳」か「橘」か、白石は片方を捨てられず、両方を望み、自分たちは応えた。

 これは、同胞へのやるせなさか。
 同じ、彼を堕とした同胞への、同じ彼を愛する同胞への。
 憎くて、愛しい同胞への、やるせなさか。
 分かり合えるのは、お互いしかいないのだ。

 白石に丁寧に、返事を待って説明する橘を「馬鹿だ」とどこかで自分は思うから。
 今の白石は、自分たちがなんと言っても、望んでも、喜んで享受するのに。
 白石に選択肢を与えることが無意味だと、わかっている。
 彼は自分たちが頼んだことならば、なんだって喜んで頷く。
 例え、今すぐ死んでくれという願いでも。
 例え、今すぐ俺達の前から消えてくれという願いでも。

 俺達と離れたくないから、染まった癖に、消えてくれと言われたら喜んで笑うのだ。
 言わない。だから言わない。
 一生、離れろなんて言わない。

 だから、橘は、馬鹿だ。
 何故、そんな自我がある相手のように、彼を扱う。
 彼に、もう自我なんかない。
 こんな、壊れた人形のような、



「ご主人様…?」
 不思議そうに白石が呼んだ。伸び上がってぺろ、と千歳の頬を舐める。
「千歳…」
 橘の声に、泣いていると気付いた。
 だって、辛い。
 どうしたらいい。
 お前だって、言わないじゃないか。
 橘だって、気付いていてなにもいわないじゃないか。
 俺が辛いと、後悔していると知っていて、なにも言わない。
 お前だって、彼はもう死んでいるようなものだとわかっているから否定しないくせに。

 こんな時だけ、優しい呼びかけ。
 機械的なキミの慰めすら、もしかしたらって期待する。
 キミがいつかまた、「千里」と呼んで笑ってくれるような、浅はかな期待を。






 数日後、黒の館の外。森深いそこを歩く人影を見ていた天使が、不意に遠くを見遣った。
 人影に気付かれないよう羽ばたくその翼は漆黒。
 森の外の湖で迷ったような青年がいる。
「なにしてんねんあんた」
 声をかけると、びくりと反応して振り返った。
 金髪の、自分よりは年上だろうか。背も高い。
「…おまえ、は」
「自分から名乗るやろ、普通」
 言ってから、自分の背中に黒い翼が出たままだったと気付いて後悔を軽くした。面倒くさい。
 それともあれか。今日来た、同盟の仲間か?
「……お前、黒の天使……」
「あんたは……葉天使…やないな」
 葉天使は、翠と蒼のハーフの天使の総称だ。彼からは、生粋の空気がする。
「…翠」
「へえ…妨害、やないか。一人でなんて」
 軽く馬鹿にして言った後、黒の天使はすぐ間合いを詰めて翠の天使が警戒する暇なく手を引っ張った。そのまま館の方に歩き出す。
「な、おい離せぇ!」
「ここまで来たなら俺らに用事やろ。そこおられると他の奴らに場所がばれるんや! さっさと来い!」
「………」
 彼が黙ったのは、従うべきと思ったのか。あるいは敵意はあるが反論し、黒を非難して、ここで自分に敵扱いを受けるのを防ぐためか、多分後者だ。そういう、黒への非難の色が顔にある。
 わかった上で館に招いた。
 言ったことが本音だ。あんな場所にうろつかれたままは困る。
 それに翠でも、たった一人。翡鳥〈スチュリティア〉のあの人ならいざ知らず、反撃をうけたって余裕で殺せる。


「…手」
 中の廊下を歩く途中、翠の天使がそう言った。
「離してくれへん?」
「どっか行く気か?」
「…痛いんやけど」
「…ああ。これでええか」
 軽く緩めた黒の天使に、相手はあからさまに嫌そうな顔はしなかった。
「…名前…」
 しつこい。
「俺、…忍足。お前は?」
 譲歩を見せた彼に、肩をすくめて笑って答える。
「財前や」
 財前、と復唱した忍足という天使を振り返って、今日は大事な話があると説明した。
「今日は黒の天使と、葉天使の同盟決める日やねん。
 葉天使とはいえ、蒼以上の地位の葉天使が多い。
 無駄に出来へんのや。わかったら、ここ一帯から出るんやないで」
「…………、そ、んなか…」
「え?」
「に、忍足侑士っておる?」
「……ああ、おったな」
「…」
 同じ名字。肉親が心配で追ってきた、というところか。
 なんにせよ、千歳たちに指示を仰がないと、と足を返した時、忍足が突然開いていた窓から身を乗り出し、庭に飛び降りた。
「え、ちょ!」
 咄嗟に追った財前も理由をすぐ知る。
 そこに立つ、かつての翡鳥〈スチュリティア〉は彼の仲間だったはずだから。
「白石っ!」
 喜色一杯に、泣きそうにすらなって駆け寄った彼が白石の肩を掴み、抱きしめた。
「よかっ…よかった…生きてた…白石…!」
 よかったと何度も繰り返し、抱きしめる彼をぽかんと見て白石は彼の背後の財前に視線を寄越す。
「…光、誰?」
 にこりと微笑んだ白石を、顔を上げて茫然と彼が見た。
「…しらいし?」
「…光の、お友達?」
「………」
 声を失った忍足という天使を引き剥がし、財前は戻ろうとする。
 それを拒んで、彼は白石に食ってかかる勢いで叫ぶ。
「俺や! 幼馴染みの…翠の………忍足謙也………」
「……?」
 ただ、無邪気に首を傾げる姿に、彼は茫然とした。
「そのひと、あんたのこともわかりません」
「…お前らがなにかしたんか!!?」
 涙顔で財前を振り返った謙也に、なんと答えるべきかわからず財前は黙る。なにかしてはいるからだ。
 ただ、それは彼の同意の上。
「白石! なにされたんや! …やっぱりや。黒はあかんねん。認めたら!
 侑士ら間違っとる!」
 真っ向から否定され、財前が微かに嫌悪を露わにした時、謙也という天使の頬が遠慮なく殴られた。その手の主は白石だ。
 普段、喜びしか浮かべない顔に、浮かぶ憤り。
「俺のご主人様たちを侮辱すんな!」
「……ら、いし……?」
「…」
 ただ、呆けたように立つ彼を睨んでいた白石は、遠くから名を呼ばれて豹変したように笑顔になった。
 すぐ翼を広げて、その呼んだ腕の中に飛び込む。
「…………、く…ろの」
 その背中に広がるのは、漆黒の、翼だ。
 仲間である、忍足謙也という彼にすれば、あまりに残酷な光景。
 その前で頬を千歳に撫でられ、幸せそうに笑う白石。
 自分だったら、まあきついか、と財前は思った。
「…お前、蔵の仲間とや?」
「そう…や。…なんやそれ……黒…翼…白石が」
「こん子はもう黒の天使ばい」
「なんでや!」
「…俺達が、堕としたから。知っとうや? 交わりで染める行為は」
 珍しいと思った。あの千歳が、このことに関して饒舌なのは。
 彼は白石が堕ちてから、滅多にこの『堕とした』ことに関して、語らない。
「っ!」
 千歳に殴りかかろうとした謙也を、財前が背後から押さえた。
 千歳を害する動きなら、白石がなんとかするが、彼の顔に敵意や憎悪を浮かべさせたくない。
「…白石、…無理矢理お前らが…」
「無理矢理じゃなか。蔵の意志ばい」
「嘘や!」
 反論する彼に、千歳の口の端が歪にあがった。暗い、歪んだ笑みだと財前にすらわかる顔。
「…蔵はなんでも、俺のお願いば聞くとよ?
 …な?」
「はい」
「蔵は俺や桔平がいくら、手荒く乱暴にしたって文句ばいわん。
 嬉しそうに笑ってくれっけん。…やろ?」
「ご主人様がそう言うなら」
 頬や髪をくすぐる千歳の手に、幸せそうにすり寄って答える声。
 この天使にはどう聞こえているのかと、不意に気になった。
「蔵、…俺と桔平が大事?」
「はい」
「世界の誰より」
「はい」
「そこの、仲間より?」
「ご主人様が大事」
 びくんと顕著に反応した彼の身体を、そっと財前は離した。
 もう、いらない気がした。
「もし、」
 千歳が酷薄に笑って、その顔にキスを落とす。

「俺や桔平が、死んで欲しいって頼んだら?」

 一番大きく身体を揺らした翠の天使は、すがるように白石を見た。
 そこにある、ひどく幸福そうな、恍惚とした表情に、笑顔に。
 彼は悲鳴のような声を一つ零しただけで、その場を走り去った。
 咄嗟に後を追いながら、財前は思う。
「あのひと、実は機嫌悪かったんか?」と。
 やけに、意地悪な、酷なやりかたをしていた。彼らしくない。
 でも、しかたないのか。
 あんな、俺でも「ご主人様が喜ぶなら」と今にもそういう返事をしそうだってわかる、笑顔を見たら。見てしまったら。


 どうしようもない。









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