番外編:フミキリさま








第三話−【後ろの正面…】




 その晩、ごそりと自分の寝台に潜り込んだ赤也が、ぴくりと動きを止めたのを同室の日吉が見た。
「どーしたんだよ」
 日吉らしい嫌味のような声で訊かれるが、日吉に多分悪意はないと同室になって三週間で赤也は大体理解した。彼の声は、元々がそういう声だ。
 寝ぼけててもこういう声だ。
「……いや、なんでもね」
「そうか」
 日吉もさして気にせず、自分の寝台に潜って静かになる。
(……気のせい……)
 だ。気のせいだ。そう己に言い聞かせる赤也の希望とは逆に、実際はそれは強まるわけで。




「うわ、なんだお前それ」
 朝、寮の食堂で出くわした裕太が開口一番そう言った。
 その視線の先は、目の前に立つ赤也の、腫れた右頬。
「一晩だぜ? 昨日寝る前にちょっとなんか痛い?って思ったんだと。
 で、起きたら既にこれ。悪化の度合いがすごいな」
「うるへえひよひ」
「誰がひよひだ」
 歯が痛くてまともな発音も出来ない赤也を日吉が軽く突っぱねる。
「真田さんたち、歯医者が怖いとか言ってないで行って来いって言ったんだろ」
「んんん」
 赤也的には、「ううん」と言ったらしい。
 一緒に首を左右に振った。
「おれがすでにもう一晩はじょうだんじゃないからじぶんから行くっていったんら」
「うんわかった。もう喋るな。無理すんな」
 大抵の寮生は食堂で食べるのは夕飯のみで、朝食・昼食はコンビニで買ったりしたものだ。だがまだこの辺りの地理に疎い新入生は寮で三食食べるらしく、食堂にいるのは新入生ばかりだ。
「つか、食事無理だろ。途中でウィダーインなんとかとか買って食べろ」
「そうふ(す)る…」
「しょうがないな…」
 食券を買いに行きかけた日吉が戻ってきたので、裕太がいぶかしむ。
「切原、ついてってやる。予約は?」
「へ?」
「しょうがないから待合室までついてってやるって言ったんだ。邪魔なのかいいのかどっちだ」
「………」
 赤也の目がうるっと潤む。
「ひよひ! 心のほもよ!」
「ホモじゃねえよ」
「いや、多分「友」って言ったんじゃないか?」




「あれ、切原、日吉?」
 第二男子寮と共通の庭で千歳と出会う。不思議そうに二人を見下ろした千歳は、赤也の頬を見てすぐ得心したように笑った。同情したように。
「見ての通りの場所に行くんです。今、切原、喋ってもろくな会話になりませんよ」
 千歳さんは、と訊くと口をい、と開いて見せられた。
「前歯がちょっとくわれてしもて…。別に痛くなかけん、白石に『前歯の虫歯放置して差し歯になりたいんか』て説教されて…」
「ああ。じゃ行き先一緒か。丁度いい。
 俺らまだ歯医者の場所知らないんですよ。一応三軒くらい近所の地図もらったんですけど。あんまり迷うとこいつ流石に哀れでしょ」
「ああ、俺の行きつけでよかなら案内すったい」
「おねはいひまふ…」
「…重傷ったい切原…」



「って言っても、前歯そんだけの虫歯なら削ったって痛くないでしょう?」
 日吉たちにとってはまだ見慣れない御浜市の街。下駄を鳴らす千歳について歩きながら訊いた日吉に、まあと千歳。
 歩幅が圧倒的に違うのに、置いて行かれないのは千歳が一応気遣っているからだろう。
 流石に下剋上、とは思わない。千歳ほどでかくなるつもりは、流石の日吉もない。
「そうやねえ…。ちくっと削ってセメント詰めて終わりったいね」
「うはやまひい」
「…今ん、翻訳頼めっと?」
「多分、『うらやましい』」
「…ああ」
 歯医者ってこの先ですか?と日吉が指さした道。少し向こうに踏み切りが見える。
「ああ。あん踏み切りの…あれ」
 千歳が不意に立ち止まって、日吉たちに「ちょっと待ってて」と言い置いて走り出す。
「なんだ…?」
 千歳がしばらく向こうでなにか道を歩く人と話して、戻ってきた。
「いけん、迂回」
「え?」
「踏み切りの前で事故があったらしか。しばらく通行止めばい。
 一本向こうの道からいかんと」
「……」
 日吉が無言で傍の赤也を見る。
「…………」
 赤也は一瞬で青ざめ、瞳を寮で日吉が同行を申し出た時とは違う意味で潤ませ、「ひぐっ」と喉を鳴らした。多分、今のは泣き声だ。
 額を押さえた日吉が、すぐ顔を上げて赤也の手を引っ張る。
「泣く暇があったら行くぞ。
 安心しろ。歯医者が休業ってことはない」
「ひよひ〜……」
「仲良しばいねぇ…」
「うぃ…っ……?」
 赤也が不意に目を瞬かせて、細めた。
「切原?」
 千歳の声に、赤也が指さした方向、方向を変えた自分たちの入った道の前を歩く、私服の少年。
「……あれは、うちの生徒…か?」
 日吉が目を同じように細めて見て、そう言った。
「わかっと?」
「靴がうちの学校の指定靴です」
「あ、ほんなこつ」
 北麗にも指定靴はある。入学の際に買わされるが、実際使うのは(というか着用を義務づけられるのは)入学式、始業式、終業式、卒業式のみだが。
「靴がなかったんだろう…」
 少し追うでもなく歩くと、カンカンカンと踏み切りの警鐘が聞こえた。
「…あれ、ここ」
「もしかして、新入歓迎会で訊いた、『フミキリさま』の踏み切り…?」
「千歳さんも初めて来たんですか?」
「うん」
 こっちの道はほんに使うことがなか、と千歳。
 それにしても、人通りこそないが見通しはいい。道も広い。
 人身事故の多発しそうな踏み切りには見えないが、と思いながら日吉は踏み切りの降りてきた遮断機の前で立ち止まる。赤也も千歳も習った。
「……ぁ…!」
 赤也が最初に声を上げた。千歳と日吉も顔色を変える。
 前を歩いていたあの学生が、見えなくなったと思っていたらいつの間にかその踏み切りの中にいるのだ。
「危な…!」
「おい!」
 咄嗟に赤也が遮断機を飛び越え、駆け寄る。
 だがその瞬間耳を掠めた車輪の音に、千歳は長い手を伸ばし数歩駆けて赤也の身体を引っ張った。
 赤也を抱えたままその場に二人でしりもちを付く。
 傍を電車が走る轟音と風。
「…、ち、ちと……」
 千歳の腕の中、引っ張られた所為でそちらに背中を向けたままの赤也がかすれた声で呼んだ。
「いけん切原…。もう遅か…。…俺が止めんかったら、お前も…ばらばらんなっとう」
「っひ…!」
 その言葉でその生徒がどうなったかを悟り、悲鳴を上げた赤也の耳からやっと電車の音が聞こえなくなる。
 多分少し先で停車した筈だ。
 電車が通り過ぎて見晴らしのよくなった踏み切りの中。何車線かあるそこの中心、五体を留めず血にまみれた死体から、千歳が目を背けた。
「…」
 赤也が震えた手を思わずついた地面から離して、手の平についた血に悲鳴を上げた。
「切原! それはお前の血だ!」
 駆け寄ってきた日吉の声で我に返って、赤也は出血する自分の手の平をもう一度よく見て、安堵したように手を押さえた。多分、死んだ生徒の血だと錯覚したのだろう。
 だがすぐ、日吉はぎくりと身を震わせた。
「日吉?」
 いぶかしそうにした千歳が、日吉の視線を追う。
 踏み切りの中のコンクリートの地面。
 その上に落ちた赤也の血が、動いている。目の錯覚じゃない。
 赤也も気付いて凍り付いた中、その血が文字になった。
 文字の形に流れた。

切原赤也

「…。え、なにこれ」
「……おい、え、こ…おい、まさか、あれか?」
「あれってなんだよ日吉!」
「…『フミキリさま』に祈った………」
 日吉の言葉に、赤也が声を失う。
 千歳がハッと息を呑んだ。
 見ると、千歳も倒れた時すりむいたのか、肘から血が出ている。
 その血が落ちて、文字になっている。
 形どるのは、千歳のフルネーム。
「……じょ、冗談! 俺ら怪我なんかしてねーし!」
「え、あ…で…でも、千歳さんは右目…」
「ばってん、祈ってなか」
 答える千歳の声も震えている。
「とにかく、踏み切り出ましょう!
 別に問題ない! 祈ったからどうにかなるわけじゃ…!」
 赤也の手を引っ張って立ち上がらせ、歩き出した日吉の背に、赤也がぽつりと呟いた。
「……俺、あいつ見たことある」
「……え?」
 踏み切りの遮断機を丁度乗り越えたところで振り返った日吉に、赤也が茫然と言った。
「俺、あいつ同じ寮だ。見た。歓迎会の日に! フミキリさまに祈って膝の故障が治ったって言ってたテニス部員!」
「……おい、そんなの偶然……」
 日吉は途中で反論を止めた。千歳が微動だにせず、踏み切りの中の死体を凝視している。
「……膝?」
 その千歳が背中を向けたまま言った。
「え?」
「治った故障って、」

「膝?」

 何故、そんなことを訊く。
「……あの死体………、ない」
「え…?」
「他ん身体は…胴体ん近くに腕とかあっとに………、なか。
 足だけ、膝ん下からどこにもなか……」
「……ちょ……」
 マジですか?と掠れた声が出た。

『手足を交換したみたいに治る』

「…って、その交換した手足ってまさか、ここで死んだ奴らの手足!?
 で、次は自分がその手足を捧げる…死ぬって意味か!?」
「…わからなか。でも」
 千歳の黙り込んだ言葉の先だけは、このときばっかりは赤也にもわかって、なにも言えなかった。






「あ、千歳おかえり…って日吉に切原も」
 赤也と日吉は同室だ。そして一年。
 自分たちの部屋に二人きりが嫌だ、と千歳の部屋についてきた。
 部屋に邪魔していた謙也が、ソファに腰掛けたまま顔を向けた。
「白石は?」
「あいつは、そこでなんか掃除」
 白石はこちらに背中を向けて、勉強机の上をなにやら片付けていた。
「ん? 千歳帰ったん?」
 振り返らないまま言った白石に、千歳がうんと答えた。
 その瞬間だ。白石の手が机の上の花瓶に触れて、花瓶が床に落ちた。
 がしゃんと言う音。カーペットに水が染みていく。
「白石! 大丈夫か!?」
 咄嗟に立ち上がった謙也にも構わず、白石は背中を向けたまま姿勢を直して千歳を呼んだ。花瓶には目もくれない。
「いや、


 …お前ら……ナニ連れてきた……?



 声自体はさして低くないのに、酷く重苦しく聞こえた。
「…え?」
「お前ら、…ここに、ナニ連れてきた……?」
 背中を向けたまま、白石が抑揚なく問いかけた。問いつめに似ている。
 顔が見えないのが、逆に怖い。
「…なに、って」
「俺と、謙也と、千歳と、切原と、日吉以外の……ダレ連れてきた…?
「………」
 白石は、霊感がある。
 それは、日吉も赤也も歓迎会で知った。
 ここまで来て、彼の言う『ナニ』『ダレ』がなんなんだ、なんて白々しく言えるわけがない。
「…ふ」
 赤也が震える声で口から出す。


「フミキリ…さま?」


 赤也の言葉に、謙也が意味がわからず千歳を見上げた。
 知っているが、繋げたくない、という顔。
 白石はそこで初めて振り返ると、親の敵でも見る目で千歳と赤也を一瞥し、「そう」とぽつりと言った。
 それきり何も言わず、寝室に足を向ける。
「ちょ、白石さん…っ!」
 正直、今の頼みは霊感のある白石だ。
 見捨てられたと焦った赤也が部屋に駆け込んで、白石の右手を掴む。
「お、お願いします! 俺死にたくないっす!」
「俺は霊媒師やない! ……」
 抵抗するでもないが、視線を向けないようにしていた白石が急にぐるんと首をこちらに向けた。
 自分の手を掴む赤也の手を凝視して、手を取る。
「これ、どこで切った?」
「…え、あ、踏み切り…」
「…ちょっと待ってろ」
 白石が手を放すと寝室に引っ込んで、すぐなにかを持って出てきた。
「白石さん?」
 日吉が眉をひそめる。白石の手には、明らかに焼酎とわかる一升瓶と、包帯。
「千歳。お前も肘見せろ」
「え?」
 ソファに座って赤也に前に座るよう促した白石が、千歳の服に隠れた右肘を指す。
「そこに『契約』した傷があるやろ。出せ」
「……あ、ああ…。」
「契約……」
 白石は『契約は契約や』と簡潔に言って、赤也の傷を一升瓶の中の焼酎を少し布にしみこませて拭った。
「いっ!!」
 悲鳴を上げて身体を跳ねさせた赤也に、感情もない声で『我慢』と言う。
「ちょ…尋常じゃなく染みるんですけど…っ!」
「そら染みるやろ」
「焼酎やしな…」
 謙也のフォローを、そういう意味やないと否定する。
「酒は善い神様の水やから、悪霊の契約の傷に染みて当たり前」
 御神酒って言うやろ、と白石。
「…」
 千歳の傷も同じように拭うと、痛みに呻く千歳の腕にも染みした包帯を緩く巻いた。
「これって」
「契約は魂と霊を繋ぐ跡やから、侵入されんようその場しのぎやけど結界。簡易。あくまで」
 白石は立ち上がると、これ半分別の瓶にいれて持ってけ、と赤也に言った。
「え?」
「そやな。寝る前、一口だけ飲んでみ」
 千歳にも言った言葉だ。何故、という視線に彼は事も無げに、
「飲んで大丈夫なうちは大丈夫。多分、契約してから数日か、一週間か、あるいはもうちょい時間がある。
 契約は代償と褒美や。
 褒美を実感する時間がないと代償はもらえん。この場合、怪我が治ったって実感する時間。
 せやから、毎晩一口飲んでみて、もし吐いたら、翌日死ぬ。それだけの話」
 あまりにしれっと言って、白石は踵を返す。
「…だけ、ですか?」
「当たり前や。俺を勘違いしてへんか。
 俺はただの霊感があるだけの高校生。
 霊能力者とちゃうんやで」
「…なんか、他に」
 白石のあまりに情のない冷たい声にも、日吉がなにかを求めるように重ねたが、彼はあまりに冷淡に肩をすくめた。
「俺の傍に来たって俺が気分悪くなるだけでなんもないからあんま近寄るな。以上。
 謙也、しばらく謙也の部屋泊めて」
「白石…?」
 それは、まるで見知らぬ他人のような横顔だった。


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