◆かくれんぼなんてもうしない◆
一年がまばらに散ってコートで素振りをしている。 時計の針を見ると、もう八時だった。 甲斐と知念は顔を見合わせ、平古場はあからさまにラケットを雑に振った。不機嫌だ。 不知火と新垣は下級生に指示を出しながらも、繰り返し校門を見やる。 田仁志が、ついに耐えきれなくなっておろおろと右往左往し始めた。 木手が、来ない。 朝練を開始して、もう一時間は経っている。しかし、主将である木手が来ないのだ。 遅刻する、という連絡もない。 不安は広がるので、二年と一年には知らせていないが、理由なき不在を知っているレギュラーは各反応は違えど、不安なのだ。 「………だめだ。やっぱつながらん」 甲斐が携帯のオフボタンを押した。これで、甲斐がかけたのは五回目だ。 他の部員もかけてはいるので、合計二十回は木手の携帯はコールをならしていることになる。 「……家行ってみっか?」 「いや、さっき家にかけたけど、とっくにでたって」 知念だ。携帯にかけたと思っていたが、家にかけたらしかった。 そろそろ心配の波もピークだ。これが甲斐だったら心配しないが、木手だから。 そのとき、場違いに高い声がレギュラーの耳を打った。 「あ、男テニ! ちょっといい?」 振り返ると、見慣れたスコート姿の女子がいる。女子テニス部の三年の一人だ。名前は知らない。 「なに?」 若干苛々している甲斐にかわって、知念が相手をすることになった。 普段は明るい甲斐に任せる。知念は手足が長く、女子が相手の場合威圧する形になってしまうので、女子の相手をしない。しかし今は、苛々している甲斐よりは冷静に相手が出来ると、かってでることにした。 「あ、やっぱまだ木手くん来てないんだ。あのさ」 開口一番にでた木手の名前に、全員が耳を立てる。 「木手くん、朝練来れないって」 「え、それ、誰に聞いた?」 甲斐だ。余程驚いたのだろう。脱ぎっぱなしの珍しい帽子を手で持ち上げたままだ。 「早乙女先生と木手くん。なんか、五針は縫わなきゃいけないから、時間かかるって」 「…それ、どういう意味?」 女子の言葉に、全員が言葉もない。平古場が、辛うじてそう聞いた。 「んー、なんか木手くんが、手首切ったとかで」 女子の意味のわかってなさそうな言葉に、今度こそ全員言葉をなくした。 平古場が静かに低気圧をまとっている。 始業HRが終わって十分。 木手が来た、という報告はまだない。 平古場と同じ組の甲斐も、静かにいらだっている。 他の生徒が遠巻きにしている。 木手に限って、リストカットとか、自殺というのは、まずない。 ないが、胸を打つ不安に、どうしようもなくなる。 一限目まであと五分。 「甲斐、平古場」 不知火の声だ。不知火は一組で、木手と同じ組だ。 「木手、来た」 職員室に行っている、と言われた。 向かう途中、生活指導の教師に“こら走るな!”と怒鳴られたが聞こえなかった。 職員室に着いた時、ちょうど木手らしき後ろ姿がでてきたところだった。 失礼しました、と頭を下げて振り返った顔は、確かに木手だった。 「木手!」 「永四郎!」 「…甲斐クン、に平古場クン? ………どうしたの。授業もうすぐ」 「じゃなくて! 怪我!」 「怪我、…ああ」 見ると、左手の手首。ずれないように親指のラインまで巻かれた包帯の白に、怪我もないのに自分たちの手首が痛んだ気がした。 「ちょっと縫ったくらいで、大したことないです。大会も終わってますし」 「そうじゃない! 怪我! なんで!?」 「……」 一瞬、きょとん、とした木手は次の瞬間にいつもの馬鹿にする笑みを浮かべた。 「君たちは俺が自殺未遂でもしたと? 馬鹿ですか?」 「…いや、そうは、おもわんけど」 「じゃ、なんで左手首」 「説明するほどじゃないんですけど、……まあ、ね」 歯切れ悪く言う木手をせかすと、木手は不承不承に。 「隣高の生徒が、うちの部員に絡んでたんですよ。止めたら、ナイフ出されましてね。 交わして持ってた手をつかんだんですけど、そのとき見切りが甘かったのか、手首をかすっていたらしくて、次の瞬間血がどばーっと」 「……………どばー……じゃない」 「……」 死んだような声で注釈をいれたのは甲斐で、平古場はもう言葉がない。 「ちなみに、その高校生は?」 「自分でナイフ出しておきながら、俺の出血に驚いて腰抜かしました」 「…………」 今度は、甲斐も言葉が見つからないらしかった。 故意じゃないならいい、結論は、そんなところだった。 しかし翌日、彼の左手の包帯は腕にまで及んでいた。 昨日は、手首にしか巻かれていなかった。 それが不安を呼んで、知念は訪ねた。まき直したのか? 長すぎじゃないか、と。 「いえ、昨日帰宅中に、向かって来た自転車を避けたら傷の下の皮膚を壁でひっかいてしまって」 怪我が増えました。と木手は矢張り淡々と言う。 知念は、恐ろしくなった。 このまま、日に日に怪我が増えていきやしないか。毎日包帯が増えていきやしないか。彼は一ヶ月後生きているか。そこまで考えて、飛躍しすぎだ。映画の見過ぎだ、と自分の思考を笑ったけど。 その更に翌日、木手の額には血の滲んだガーゼ。 「…」 本当に恐ろしくなった。 甲斐たちも同じで、彼らは始終木手から目を離さなくなった。 部活の時指示を出す姿を必ず誰かが見張り、休憩になれば必ず誰かが傍にいて、休み時間になるたび誰かが必ず一組に顔を出してぎりぎりまで居座る。 なんなんですか、と木手は言うが、怖いのだ。 帰り道も一緒に帰って、自宅の距離が近い甲斐が家まで送った。 木手は心底申し訳ながっていたが、好きにさせてくれた。 「………」 木手が玄関をくぐるのを見送って、甲斐は思う。 どうか、どうか明日は怪我が増えていませんように。 どうか。 「木手!」 朝、早起きして木手の家に押し掛けた甲斐に、木手はものの三分で出てきた。 「おはよう」 その姿を見て、ほっとした。 怪我が、増えていない。 「…甲斐クン?」 「あ、なんでもない。行こうぜ」 「ええ」 並んで歩き出す。 あれは、きっと気味の悪い偶然だったんだ。 もう大丈夫だ。 安堵から上機嫌になって甲斐は登校しながら平古場に電話をかける。 「凛!」 『おう裕次郎! 永四郎は!?』 「大丈夫! 増えてない!」 『…そっか。マジよかった』 「うん、じゃ学校で」 『おう』 電話の向こう、平古場も声は明るい。 早く学校へ行って、知念も喜ばせよう。 ただの悪い偶然。 それだけなんだ。 そう再度安心して、なあと木手を振り返った瞬間だった。 上から水がいきなり降ってきた。 それは木手の右半身を直撃して、彼は顔をしかめた。 上を見上げるとマンションの四階、住人が誰もいないと思って捨てたらしかった。 慌てて住人はベランダから引っ込む。 「木手、大丈夫か……」 言いかけ、青くなった。 水じゃない。 「木手!!」 お湯だ。それも熱湯。 あまりの熱さに顔をゆがめている木手を、その住人が玄関から飛び出してきて一階の共同風呂場に連れていってくれた。 すぐ冷やしたおかげで大事に至らなかったが、木手は結局右手をやけどして、右手も包帯になった。 「なあ、すごい、怖い」 その日の午後練。コートから戻ってきた甲斐は、平古場に漏らした。 「俺も怖えよ」 平古場は登校してきた木手を見て、驚いて甲斐に怒鳴った。 電話の直後だった、と木手は説明した。 右手の包帯を、平古場はひどく疎ましく見ていた。 「なんなのあれ。なんの偶然?」 「ここまで来たら偶然じゃねえよ……」 「だよな…」 向こうでは一年を見ている木手の傍に田仁志と不知火。 今日は彼らが見張りの役だ。 「永四郎、今日家に来い」 唐突にその木手に知念が言った。 「ご迷惑でしょう」 「母さん、今日いない」 「…そうなんですか?」 「だから泊まり来い。平古場も甲斐も」 「もちろん」 「当たり前ー」 「俺も行っていいか?」 田仁志が聞く。知念は無言で肯定した。 「僕も行くよ。トモくんも」 新垣が顔を出した。二年代表、と。 「ああ、用意してこい」 「うん」 笑って新垣は駈けていく。 本当は、木手も自分の身に起こることの異常さに気付いている。 言わないのは、自分以上に怯える甲斐たちを心配させないためだった。 その代わり自分に出来る義務というように、彼は甲斐たちの見張りなどの心配をなにも言わず受け入れた。 知念は母子家庭だ。 詳しいことは聞かないが、知念がそれに問題を感じていないのでいいという了解がある。 みんなで押し掛けて、時計の針が十二時を過ぎたところで、寝ようという話になった。 もっと早く寝るべきでもあった。ただ明日が怖かった。 また明日、木手の身体は傷を増やす。それなら明日なんか来るな、と。 しかし自分のために身体を壊すことをいやがった木手が、寝ろというので広い広間に雑魚寝することになった。 「木手。ここ」 「そこは知念クンの布団でしょ」 「一緒」 「………」 一瞬呆れた顔をした木手は、甲斐たちが眠ったのを見遣って、今日だけですと知念の布団に潜り込んだ。 そのまま腰を抱き寄せた。武道で鍛えていて決して華奢ではなかったが、知念にとっては小さな身体を抱き締める。 「どこにも行きませんよ」 そう言われて、ただそれが安寧に似て怖くて、知念は抱き締める腕を放さないまま眠りに落ちた。 雨が降っている。 雨音で目が覚めた。 暗闇の室内。 遠く、響く田仁志のいびき。 ぼんやりと知念は目を瞬きして、腕の中に木手の身体がしっかり収まっていることに安心して壁を見遣った。 木手は眠っている間に抱き締められたまま器用に寝返りを打ったのか、知念の胸板を向いていた身体が横に寝ている甲斐の方を向いていた。 「……」 時間はまだ三時だった。 寝直そうか、と思った時布団の一つが盛り上がった。 甲斐だ。 「あ、知念くんも目、覚めちゃったの?」 寝ぼけまなこで小声で話しかけてきた。 「ああ、お前は?」 「俺、トイレ」 「行ってこい」 「うんー…」 のんびりした足取りで甲斐は廊下に出て、電気を廊下だけつけた。 足音が遠ざかる。遠くで水音。 今日は雨か。 部活はどうしよう。木手が起きたら聞こう。 やがて甲斐が戻ってきた。 扉を開けて、廊下の電気を消そうと手を伸ばして、彼は固まった。 「…甲斐?」 「……………………」 ひくり、と甲斐の喉がなった。泣きそうな色が閃いた。 それに呼ばれるように、知念は今は誰もいない布団を向いて眠る木手を見る。 廊下のかすかな明かりに照らされたその手が、赤く血に染まっている。 「……っ!」 「き、木手…ッ!」 甲斐は叫んで駆け寄った。 木手の手に、何故か握られているガラス片が手のひらの皮膚を傷つけていた。 かなり遠い位置にあるテーブルの上のグラスが一つ、割れている。 それでも、木手は布団から一歩も出ていない。出ていれば自分が起きている。 なのに。 甲斐が手近な布でそっと破片を拭うと、手をきつく巻いた。 「なに………」 平古場が目を覚まして、そして甲斐の布団に染みついた木手の血に顔色を変えた。 「永四郎…!」 「……、ん?」 ぴくり、と木手が身じろいで、瞼をあけた。 「どうしたの…。まだ朝じゃないでしょ…」 寝ぼけているのか、暢気な口調が憎い。 手を青い顔で甲斐が指さす。 そこで、木手は見て、…一瞬泣きそうに瞳を揺らした。 「……また、ですか」 そう、呟いた声が、ひどく痛かった。 結局全員が起きて、今は朝の四時。 木手の手に包帯を巻いてやっている平古場の横で、甲斐は知念の部屋にあった本を読んでいる。 平古場はこういう治療が上手い。部活の怪我の医療担当は平古場と決まっている。 面倒そうな口調でてきぱきと手を動かすギャップに、誰もが最初は驚くらしい。 甲斐は、黙々と本を読んでいる。平古場は処置を終えると、その表紙を見た。 『言い習わし全集』 意味が分からなかったが、木手の身を今襲っているのは偶然という名の不可思議だ。 そういうのから調べるのか、と納得して平古場は邪魔しない。 血に濡れてしまったシーツを洗いに行っていた田仁志が戻ってきて、知念に教わった場所にあったジュースを人数分持ってきてくれた。 「慧くんありがとう」 「いや、これ平古場の」 「おう」 「知念」 「ああ」 主将、と気遣って包帯のない左手の平に乗せた。 「田仁志クン…」 あからさまな気遣いを申し訳なく思って、木手は苦笑した。 「裕次郎、なんかわかったか?」 「…んー………あ、ちょい待ち……」 甲斐があるページに目を留めた。 「ん?」 平古場が覗き込む。 そこには“怪我などの不運が重なる時の”という文字が見えた。 今の木手の状況だ。 言い習わしを見る。 『北の方角の押入に隠れるな』 「……北の押入…」 ぼんやりと田仁志が呟いた。 押入は普通北にないだろう。 そもそも『隠れるな』がわからない。 「…あれ、かなぁ」 「ぬーがこーいち」 新垣が、ほら、と。 「先週練習で、耐久かくれんぼやったじゃない。監督のスパルタ一環で」 「ああ、一場所に三時間隠れてろってやつ? 見つかったら水抜きで午後錬っていう」 「あの炎天下じゃどこだってサウナなのに三時間はきつかった…」 「主将、隠れたの用具入れだよね」 「……ああ」 「用具入れ、って、所謂学校の押入じゃないかな。確か方角も北だった」 新垣の言葉に、それだと顔を見合わせる。 「…確か、あの用具入れって曰く付きだったよな…何年か前にそこで首つったやつがいたとかで」 不知火の言葉に、ますます信憑性が増す。 「…調べるか、それ」 甲斐が言って、振り返った時だった。 「……木手?」 零れた声は胸中の代弁。 知念が咄嗟に隣にいる筈の木手を見た。そこはただの空白。 「……」 木手が、部屋のどこにもいない。 「…っ!」 全員ががたんと立ち上がった。 家中を探す。 いない。まさか外か? そう思った時、ダイニングで物音がした。 知念は弾かれるように扉を開けて中に入った。 明かりはない。 その、ダイニングの向こうのキッチン。 そこに、火がついている。 「…」 コンロだ。なにも乗せられていないコンロに火が灯っている。 その前に木手がいた。 「永四郎…?」 おそるおそる呼びかける。 だが彼は全く聞こえていないという風に、包帯が巻かれたままの腕を取り出すと、その火におもむろに当てた。 「っ…!!?」 咄嗟に駆け寄って抱き締めて引き離す。 「……永四郎! なにやってる!?」 包帯に灯った火を洗面台の水で消して、腕の中の身体を怒鳴った。 火に直接焼かれた腕は、包帯ごしでもやけどが酷い。 「……っ」 シミ一つなかった皮膚が引きつれたように焼けている。 「………」 腕の中の身体はなにも言わない。 皮膚を直に焼いて、相当な激痛が走った筈なのに悲鳴すらあがらなかった。 「………永四郎!」 もう一度怒鳴る。それでもここに戻らない彼の心がもどかしくなって、振り向かせると無理矢理唇を深く塞いだ。 呼吸が出来ないほど深く貪って舌を絡め取る。 口を離すと唾液が僅か伝って、抵抗一つしなかった木手がぼんやりと、 「……知念…クン…………?」 とやっと知念を呼んだ。 「…永四郎!」 「あ、…俺、なんで……っう…!」 「っ…永四郎…!? 痛むのか?」 当たり前だ。ここまで容赦なく肌が焼けていて、痛くない筈はない。 「……っ………知念、クン」 「おい! 永四郎はココだ! …永四郎?」 「……俺、なんなんでしょう……どう、なるんでしょうか……」 怖い。 そう酷くか細い声で漏らされた震えに、知念は木手を強く抱き締めた。 →NEXT |