![]() 彼と俺に降る夜 第三話 《震える手と気付かぬ言葉》 早退した小石川に付き添って、帰宅した石田の部屋に顔を出すと、石田が迎えた。 「健二郎は」 「今は寝とる。医者が言うには、風邪やて。解熱注射もしてもろたしな」 「そうか…」 ホ、と安堵する白石の傍、扉の向こうの廊下で千歳が「見舞いは今は邪魔やね?」と気遣うように聞いた。 「そうやな」 石田は部屋の中、右端の寝台に眠る小石川を見遣って、再度千歳と白石に向き直る。 「まだ、倒れてから一度も目ぇ覚ましてへんし。それに、小石川の性格やと、伝染すんを気にする」 「そやな…」 それはわかっていたのだろう。白石はあらかじめ買っておいたらしいパックのジュースを石田に手渡した。 オレンジだ。 「それ、健二郎が好きなん。熱が出たときよく飲んだて」 「そうか。渡しとく」 「うん、師範も、伝染らんようにな。健二郎が気に病む」 「ああ」 白石と千歳が軽く手を振って、扉を閉める。 石田は部屋を振り返り、小石川の眠る寝台に近づいた。 ベッドサイドに白石が持ってきたジュースを置く。 眠る彼の額に当てた濡れたタオルを取って、床に置いたタライの中に浸す。 氷はまだあるから、冷えている。 よく絞ってから、額に置いた。 苦しそうだった彼の呼吸が、少し、緩む。 アイスノンや、冷えぴたなど、今は便利なモノがあるが、どうしても自分は古いやり方になってしまう。「お祖父さんに似ちゃって」と東京の母は言う。 小石川は、「そういうとこが俺は好き」と笑った。 その時の、彼の、屈託のない、他意のない笑顔を思い出した。 自分が多くを望まなければ、あの笑顔が今でも。 一生じゃなくとも、長くはいられた。傍に。 同じ高校だと言っていたし、大学くらいまでは傍に。 親を説き伏せた。高校もこちらがいいと。 彼のことを、自覚する前だったから、関係ないはずだった。 ただ、無意識に、意識したのかもしれない。 小石川の唇から、苦しげな呼吸が零れた。 苦しいのかと、シーツからはみ出た手を握る。 すぐ離すつもりだったが、誰かわかっていないからなのか、小石川の手が、石田の手をきつく握ってきた。 「小石川…?」 起きたのかもしれないと、呼ぶ。返事はない。眠ったままだ。 「…」 期待して、すぐ奈落に落ちる。 彼の考えは、決して間違っていない。 男なら、女を愛して、愛されて夫婦になる。好きこのんで、非生産的な相手を選ぶはずはない。小石川の感性は、いたって正常なのだ。悪いのは、自分だ。 自分のどこが、「師範」なのかと、思う。 手を握ったまま、軽く屈んで、苦しそうな呼吸を繰り返す彼の唇にそっとそれを重ねた。 一生、キスなんか出来ないだろうから。 彼は、許さないだろうから。 だから、眠っている時になんて、非道いと知っている。 でも、行き場がない。気持ちが。 「…し、は」 小石川の口から漏れた言葉に、ハッとして手を離す。 自分が触れたばかりの口から、自分の呼び名が零れる。起きたのかと今度こそ覚悟した。 だが、彼はやはり眠っている。 「…ごめ…ん………」 石田は言葉を失った。もとより、寝ている人間に、あえて話しかけたりしないけれど。 「…ごめん…………師範…………」 意識のない、熱に浮かされた小石川が繰り返すのは、ただ謝罪だった。 自分への。 苦しそうな、泣きそうな顔で。 苦しめている。 なのに、「もういい」と解放してやれない。 自分が無許可で奪った口から零れる謝罪に、例えようのない後悔と罪悪を得た。 謝りたいのは、自分だ。 石田の頬を涙が伝う。 目覚めない、彼は気付かない。 ただただ、優しくて、受け入れてくれる存在。 そんな、綺麗な存在に、頼られることが嬉しかった。 己のテニスの腕では、レギュラーを外れざるを得なかった。 『ま、しゃあないですわ』 全国でも、出せても一回だと、顧問に言われた時に、自分は聞き分けのいい返事をした。 顧問の方が、辛いという顔をした。そういう顔を、子供に見せるべきやないでしょ。あんた、駄目な大人っすわ、と軽口を叩いた。 自分の実力なら、自分がよく知っている。盲目にはなれない。 なれたなら、千歳に勝負でも挑んだだろうか。 でも、自分は負けると知っている。余計、惨めだと知っている。 それ以上に思い知っている。 自分じゃダメだ。 俺がいたんじゃ、勝てる試合を落としてしまう。 千歳がいないと、四天宝寺の勝ちが負けにひっくり返るかもしれない。 自分じゃ、全国制覇の力に、足りない。 思い知ってしまっていた。あんな風に、俺は戦えない。 あんな、テニスは出来ない。あんな風に身体を動かせない。 つくづく自分は凡人だ。 もう二度と、部長である白石に、後悔させたくなかった。 彼が、去年、悔やんでいたこと。 優勝させたれなかったと、部長やのにと。 そんな、思いを二度とさせないと誓った。 副部長に任命されたことは、純粋に嬉しかった。 だから、誓っていた。白石に、仲間に、後輩に、先生に、先輩に。 四天宝寺が勝つためなら、なんでもする。 勝つためなら、自分が落ちたっていい。 それが、自分の結論。 そして、勝つために良くも、自分のサポート能力は必要とされていた。 尽くせる力が、自分にはあった。 自分は、まだ、幸福な方。 だから、こんなのはいい。 『 ありがとう 』 兵庫岡蔵との、試合。自分の最後の試合のあと。 石田は肩を叩いて言った。 柔らかく労って、そして、信頼をこめた声で。 自分にそう言った。 認めてもらえた気がした。 俺が、ここにいてよかった、と。 嬉しかった。 彼が、大事でしかたなかった。 あの日の、泣きたくて堪らない程の感謝を、救われた思いを、返せるのなら。 堪えられると思ったんだ。 ⇔NEXT |