彼と俺に降る夜

第四話 《崩壊》













「学校行くんか?」
 小石川が倒れた翌日、部屋に洗顔から戻った石田は、制服に着替えている小石川を見てそう言った。
 強い語調で。
「ああ」
「まだ、下がっとらんやろ」
「下がったて」
「…」
 無言で、石田は責めるような視線を寄越した。彼が、そんな目を自分に向けるのは、いつも、自分を気遣う時だ。
「ほんまにか?」
「うん」
 再度頷いた小石川に、石田は溜息を吐くと、一歩自分に近づいた。
 びくりと反応して後退った小石川の手を掴んで、無理矢理にその額に手を押し当てる。
「…確かに、そう熱うないが」
「…………」
「……」
 黙り込んでしまった小石川を見ると、怯えたような表情で固まっている。
 反省したように微笑み、石田は手を額から退かして手を離した。
 ホッとする前に、それが小石川は辛くなる。
 こんな、

 がちがちに、触れられるだけで固まって。怯えて。

 嫌やないんか。

 気持ち悪いて、全身で言ってて、嫌やないんか。

 …なんで、俺がええの。



 自分が、一番わからん。




 言いたくて、でも、言えない。
 どうしても大事にしたかった。
 石田が好きだった。
 優しく、したくて堪らなかった。








 委員長から任されたプリントを持って廊下に出た時、一瞬、まずいな、とは思った。
 視界が、軽く揺らぐ。

 堪えて、小石川は職員室に向かった。



「アレ? オサムちゃんだけ?」
 職員室には、渡邊しかいなかった。
 拍子抜けという声をあげた小石川に、渡邊は「みんな木下祭の準備でな」と言う。
 文化祭が近い。ということは、
「オサムちゃん、一人雑用押しつけられたん?」
「おま、そこは察しても黙っとけや」
「…いや、ごめん」
 図星を指す気はなかったのだが、やってしまったらしい。小石川は笑って四組の担任の席に持っていたプリントの束を置く。
「お前、美化委員やったよな?」
「はい。あ、これは、委員長に頼まれたんです。忙しいらしくて」
「…うちの部長・副部長コンビは優しいなぁ」
「もうちゃいますて」
「否定はせえへんねんな?」
「……あー、どうやろ」
 人に、優しい自覚は、あるかもしれない。
 多少は。自分のことだから。
 人に、そう言われ馴れている。
 でも、
「…俺は、優しないですよ」
 石田に、あんな顔ばっかりさせて。
 受け入れられないなら、最初から、受け入れなきゃよかったのに。
 馬鹿で、どうしようもない、アホだ。
「……なぁ、お前」
 不意に、自分の席から立ち上がった渡邊が、傍に立って小石川の頬に触れた。
 流石にぎょっとして下がる小石川に、渡邊は「いや」と否定した。
「目になんかついてんぞ」
「…あ、あれ……睫毛かなんか…?」
 やたら反応してしまった自分を悔やんで、隠すように目をいじると渡邊の手に止められた。
「お前、コンタクトやろ。擦るな」
「…はい」
「ちょおじっとしとれな」
 渡邊の指が、そっと自分の瞼に触れる。彼に他意はないんだと思えば、堪えられた。
「…俺は平気やねんなぁ」
「…?」
「……お前」
 指が瞼から離れる。意味がわからない。睫毛は取れたのだろうか。
 そう思ってすぐ、視界が切り替わっていた。
「………へ」
 両肩に、渡邊の押さえつける手がある。背中が当たっているのは、プリントを置いたばかりの机の上。身体の上に、覆い被さる渡邊の姿がある。
「せ…!?」
 慌てて起きあがろうとした小石川の手を掴んで封じ込み、渡邊の手がシャツのボタンを一つ外す。シャツの下から手が入り込んで、脇腹を撫でた。その感触に背筋に寒さが走る。
「ちょ…やめ…!」
 彼の意図がわからない。ただ、嫌だった。気持ち悪かった。
 耳元でする男の息も、覆い被さる感触が男であることも、自分が敵わない力も。
 暴れ出した小石川の、体格のいい身体を押さえた、渡邊の唇が首筋を這って、鎖骨に触れる。
 チリ、という痛みが走った瞬間、小石川は身体の間に割り込ませた自分の片足で彼の腹を思い切り蹴っていた。
 蹴り飛ばされて壁に当たった渡邊がせき込む声がする。やばいところを蹴ったかもしれないとか、全然頭に入らない。
 ただ、気持ち悪いしかない。
「…っ」
 罵倒する言葉など浮かばなかった。そのまま職員室を飛び出した小石川を見送って、渡邊は「やっぱりな」とせき込んだ声で呟いた。

 あれは、違う。




 石田だから、怖いんじゃない。








「…小石川?」
 小石川が三時間目に早退したと聞いて、石田は昼休み、寮に一度戻った。
 丁度部屋に駆け込むところだった彼の背中が見えて、咄嗟に手を掴む。
「小石川!?」
 その場に勢いよくしゃがみ込んだ小石川の表情を見遣ると、真っ青だった。
「小石川!? 大丈夫か!?」
 口元を押さえて眼を惹き瞑る彼の肩に手を置いて、支えて洗面所に促すと、おぼつかない足取りでついてきた。




 あれから、何時間経っただろう。
 石田が一度様子を見に来て、それから。
 空腹感が全くない。どころか、吐き気がする。熱の所為じゃない。
 寝台に横になっていても、楽にならない。

 今でもリアルに思い出せる。
 首筋や、鎖骨を這う唇の感触。肌を這った手。
 耳にかかる熱い呼吸。
 気持ち悪い。
 嫌悪感だけで、人間、吐けるんや。
 吐いてしまった自分に驚いている。あれは、熱の所為じゃない。

 なんで、わざわざ男と寝たがる。
 女なんかいるだろう。あんたも、石田も。
 男がいいなんて、異常だ。普通じゃない。狂ってるんじゃないのか。

 そこまで思って、すぐ、頭を抱えた。
 違う。そうじゃない。そんなこと言ったら、石田も、千歳も、白石も、侮辱する。
 違う。そうじゃない。渡邊はわからないけど。

 彼らを侮辱したくないのに。
 止まらない。


「わからん。起きてこんからな…」

 室内で、石田の声がした。白石の声もする。千歳もいるかもしれない。

「体調が悪化したん?」
「多分そうや思う……」
 石田の言葉は心配していた。逆に申し訳なく思う。
 そのうち、白石の声は聞こえなくなった。石田が歩いて、自分の寝台に座る音がする。帰ったのだろう。
「…小石川?」
 少し身じろいだのを聡く見たのか、石田が立ち上がって自分の傍に近寄る。
 気配が背後にあると感じるだけで、ダメだった。
 きつく瞼を閉じるが、伸びた手が、そっと自分の額を撫でる。熱を計るように。
「起きとるか?」
 傍で感じる気配と、額に当てられている手の感触、背後でした声の震え。
 全て、ダメだった。
 弾かれたように起きあがって、寝台から、石田から離れる。


 彼の視線が、一瞬、険しくなった。


 後退ると、背中に扉が当たった。
「お前、それ…なんや」
 それ?
 わからない。だが、石田の視線が刺す場所に、あるものに気付いて手が動いていた。
 渡邊がつけた痕だ。それを隠していた。
「小石川。お前…なに…」
 彼らしくなく焦った声。なにに?なんて流石にわかる。
 所有物気取りか。吐き気がする。

「…触るな」

「……」
 小石川の唇から零れた言葉に、石田は一瞬息を呑んだ。



「来るな……………気持ち悪い…………………」





 もうわからない。お前も、嫌だ。
 気持ち悪い。
















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