彼と俺に降る夜

第七話 《変化と共に冬が来る》













 熱をたまに出した夜は、苦しかった。

 いくら苦しくて、起きあがれなくても、飲み物を持ってきてくれたり、頭を冷やしてくれたり、話しかけて、手を握ってくれる親はいない。

 ここは大坂で、東京じゃない。親は東京だ。


 でも、ふと息苦しさで目を覚ますと、自分の手を握っている小さな手。
 自分の寝台の側に座って、自分の手を握って、眠っている姿。
「…小石川?」
 呼びかけるが、目を覚まさない。こんな体勢で熟睡出来ることに感心しそうになる。
「小石川。伝染るぞ」
 呼びかけて、肩を揺するが起きない。自分より遙かに小さい身体だから、彼の寝台まで運んでやれる。怠さは大分マシになっていた。
 だが、小石川の手がきつくて、離れない。
 しかたなく、これだけ密着しているなら床に寝かせるよりはいいと、自分の寝台に寝かせた。そのころは小石川は小さかったし、自分も今ほどではなかったから、二人でも寝られた。


 朝、起きると、熱は下がっていた。
 小石川は何故、自分が寝台に寝ているのか不思議そうだった。
 熱は下がったというと、我が事のように嬉しそうにする。



 お父さん、は大袈裟でも、兄のような気分だった。

 実家にいる弟とは、違うタイプの弟。

 勉強が出来て、優しくて真面目で、頑張りやな弟。そんな彼の兄の気分。


 彼の身長が伸びて、肩幅が広くなって丈夫になって、自分と並ぶようになったからといって、意識したわけじゃないのに。




 何故、こんなにも特別になってしまったのだろう。






 目を覚ますと、明るい日差しが眩しかった。寝台の上にまで落ちてくる、窓からの日差し。
「おはよう」
 傍で声がした。石田が起きあがって見遣ると、制服を着た、既にコンタクトの小石川。
「もうええんか?」
 身体は、と聞くと、小石川はうん、と微笑んだ。

 伏せっている間、小石川はずっと自分にすまなそうにしていた。
 迷惑をかけた罪悪からなのか、あるいは、自分の気持ちへの申し訳なさなのか。
 石田にはわからない。
 ただ、ぽつぽつ、と彼は話した。

『師範に告白されたとき、ほんまびっくりした。
 ほんまびっくりして、怖かった。気持ち悪かった。
 せやけど、嫌やなかった』

 嫌じゃない?と問い返すと、小石川はその時だけ、はにかんだように笑った。

『嫌ではなかった。なんでやろ。気持ち悪かったんに。
 でも、嫌いやなかった。師範のことは、ずっと、嫌いやなかった』



 寝台から降りて、自分の寝台に座っていた小石川の傍に立つ。
 あからさまに彼が怯むことはなかった。
 そっと、額に手を当てると、普通の、熱いが異常ではない体温。
 顔色もいい。本当に大丈夫らしい。
「よかった」
 そう心から安堵して言う。微笑んだ自分を見上げて、小石川は無表情のまま、「そう」と言った。
 石田は逆に困る。
 前は、露骨に顔や態度に嫌悪が出ていたから、わかった。
 今の無表情は、逆にわからない。いいのか、悪いのか。

「ご飯食べ行こや。遅れる」
 小石川は立ち上がるとそう言った。気にした風でもなく笑う、明るい口調。

 なにかが劇的に変わったわけではない。
 でも、なにかが変わったというのなら、それだった。






 始業してすぐ四組の生徒はクラスを出る。
 体育だ。教師は、小石川に「休んだ方がええんやないか」と心配そうに言ったが、大丈夫ですと笑って返した。
 体調は本当に悪いところはない。
 ただ、妙にあれから、むずむずした変な気持ちがある。
 小石川自身、わからない正体。

「健二郎」

 体育館に向かう途中、呼ばれて条件反射で振り返った。
 そこにいたのは石田だ。ということは石田が呼んだのだ。
 声でわからないほど、ぼけっとしていたらしい。
 しかし、今、名前で呼んだ?

 石田は妙に困った顔をして、行くぞと促した。
 ならなんで声をかけたと聞きたい。一緒に行くぞ、という意味か。
「うん」
 普通に頷くことが出来た。
 しかし、今の妙な気持ちはなんだろう。
 石田の、妙な反応が気になった。
「師範」
「ん?」
「今のなに?」
 直球に聞くと、石田は戸惑った。名前、いかんかったか?と罪悪を浮かべる。
「…へ?」
「…? 名前、呼んだことやないんか?」
 間抜けな声をあげた自分に、石田の方も更に戸惑った。
「…いや、今、師範変な顔したやん」
「?」
「名前呼んだあと。俺見て」
「……、自覚しとらんのか?」
「なにを?」
「……」
 石田はしきりに困って、顎に手を当てると、しばらくして急に小石川の背中を叩いた。
「遅刻するで」
「え? 師範、ちょお誤魔化すなや」
「ええから」
「???」
 わけがわからない。
 遅刻しそうなのは事実だから、体育館に急ぐが、ずっと違和感が胸に引っかかっている。
 どういう意味だ。
 また、嫌悪してしまっていた?
 体育館に足を踏み入れた時だ。石田が急に自分の前に出て、丁度そこに倒れ込んだ女子を受け止めた。
「大丈夫か?」
「…あ、ごめん。おおきに! 石田くん!」
「どないしたん?」
「いや、俺がぶつかってもうて」
 出口付近で騒いでいたらしい男子たちが、石田に謝った。女子にも重ねて謝る。
 石田は気をつけろ、と優しい口調で言った。

「…健二郎?」
 準備体操の時、石田と組むのはいつものことだ。
 今までも避けても、それは断らなかった。
「なんや」
「……」
 石田は開脚をする自分の背中を押しながら、困った沈黙を寄越した。
「口にせなわからん」
 我ながらきつい口調になった。小石川だって、なんでこんな気持ちになっているかわからない。
「…不機嫌、になっとるな、と」
「誰の所為やろな!」
 あくまで小声で言うと、石田は顕著に怯んで、やはり困り果てた沈黙。
「……」
 小石川も、そんな反応をされると、困る。自分でやっておいてなんだが。
「俺、そんな不機嫌?」
 足を開いたまま、上体を起こして振り向き、問う。
 石田は、ああ、と頷いた。
 嘘を吐かない人格が石田だ。己が損をしても。
 だから、嘘じゃなく不機嫌なのだ、自分が。
「……しらん」
 石田から視線を逸らして、そう素っ気なく呟いた。我ながら、本当に不機嫌だと思った。






「健二郎が変?」
 昼食が、たまたま白石と千歳と一緒になった。
 石田といつも食べている小石川がいないからだ。彼は四時間目終了後すぐ、どこかにいなくなった。
「ああ」
 具体的な説明がなくては白石も困るだろうと、詳細を石田は話した。
 関わっていないなら、話さないが、白石は関係者で小石川の親友。
 そして、おそらく相談出来る唯一の存在だ。
 千歳は邪魔する気はないのか、ジュースのストローを噛んだまま、話に入ってこない。
「……無表情」
 白石が一言呟いた。
 石田が話す小石川の変化。
「儂が触れたり、名前呼んだり。前は嫌悪の顔しとったとこで、無表情になる。
 …嫌なのか、どうなのかわからん」
「……無表情なぁ」
 白石もわからないらしく、指を顎にかけて考え込んでいる。
「いつもは嫌悪やったと?」
 千歳がいきなり話題に首を突っ込む。不思議そうな顔で。
「ああ」
 気圧されながら石田が頷く。千歳はしばらく黙ったあと、「照れとう?」と言った。
「え?」
 白石が、なんだそれ、という語調で返した。
「やけん、今更素直になれんけん、無表情?
 前みたく、師範が嫌にならんけん、触れられても、それを自分でも不思議がっとうやなか?」
「…そうなんか?」
 そう聞いてしまった石田が、あまりに真剣で必死で、千歳は軽く怯んだあと、笑って頷く。
「うん。多分な。才気は絶対やしね」
「使ったんお前…」
 石田はしばらく無言だったが、急に立ち上がった。昼のパンがまだ残っている。
「師範?」
「健二郎んとこ行く」
「しっかりやってくったいよ」
「ああ」
 大股でさっさとその場を後にした石田を見送って、白石は千歳を見上げた。
 大丈夫なのか?と。
「…さあ」
「え?」
「才気じゃなかし」
「おい!」
「これは、俺の勘」
「…勘」
「白石にも使うばい。機嫌とかは、才気ではわからん。やけん、当たっ……とると思う」
「その間、なんや」
 白石の追求に、千歳はへらりと笑った。少し困った顔で。
「やって、師範が名前で呼んどう。攻めの姿勢でいるうちに、小石川は捕まっとった方がよか」
「……そら、そうやけど」






 図書委員の財前は、昼休みも図書室だ。
 だが、机の一角で、あからさまにドサッ、ドカッ!と本を置いて乱暴に座った人間の音に顔をしかめてカウンターから顔を上げて、絶句した。
「小石川…先輩?」
 そこにいて、がら悪い風に溜息を吐くのはどうみても小石川だ。
 あからさまに、あきらかに苛々している。こんな小石川見たことない。
「……あ、ああ。悪い光。気ぃつける」
「…イエ」
 小石川は姿勢を直すと、机に置いた本を一つ開いた。

 名前を呼ばれると、妙な気持ちになる。

 困る。言えないけど。
 図書室の扉が開く。
 なんともなしに顔を上げて、小石川は固まる。石田が扉の傍にいる。
 こっちを見て、歩いてくる。
 無性に逃げたい衝動に駆られて、本を持つと棚の奥に競歩の勢いで逃げた。
 頼むから。今腕掴んだりしないで欲しい。本が落ちる。そういう問題じゃないけど。

 一番奥の棚に引っ込んで、持っていた五冊の本を適当に戻した。自分らしくない。

 溜息が出る。瞬間、棚に伸ばしていた手を掴まれた。
 振り返ると、やはり石田がいる。
「…健二郎」
 その低い声で呼ばれると、無性に妙な心地になる。
「なんや」
「…またやな」
「?」
 小石川は本気でわからないらしい。その顔が浮かべる無表情に。
 腕を掴んで、背中に手を回して抱きしめた。きつく。
 すぐ身構えるはずの身体が、緊張のないまま、強ばらない。
 それに、堪らない気持ちになる。
 千歳の言葉は、本当?
 気持ちが傾いていると、自惚れてもいいのだろうか。
 小石川は黙ったままだ。


(苛々する。そんで、こうしとると収まる)


 なんやろう、と思う。
 小石川はなんとなく悔しくなって、石田の腕から抜け出した。
 石田の顔を見ると、寂しそうな顔が見えた。
 狡いと思う。
 やっぱり、妙な気持ちになる。

 空いたままの石田の胸が目の前にある。

 自分から、初めてその胸に飛び込んだ。抱きついた。
 石田の身体がびっくりする。息を呑む音。
 あとから、おそるおそる背中に手を回される。息をゆっくり吐く音が頭上でする。

 以前と違う。嫌じゃない。
 おかしい。

 ああ、初めてじゃない。

 あの日、泣いた時に、彼に自分からしがみついたのが、初めて。



















 ⇔NEXT