![]() 彼と俺に降る夜 第八話 《雪が降る前に−前編・愛傷》 痛かったやろう、と彼は頭を撫でて言った。 優しい声だった。 初めて、自覚した。 空が暗い。寒い冬が来た。 寮生である小石川が学校外に出るのは、大抵が友人付き合いだ。 あと部活に所属していた時は、遠征や合宿、買い出しなどの部活絡み。 今は、友人付き合いで外に出るくらい。あとは自分の買い物だが、寮にいてあまり娯楽品も買い込めない。 実家にはあまり行かない。両親は愛している。 ただ、構われるから、行かない。自立のためだ。 「小石川」 「ん?」 友人に呼ばれて、すぐ顔を上げた。路上の店に顔を向けていたから、見上げる形になった。 「このあとどないする?」 小石川は腕の時計を見る。時間は夕方。 「もう帰るわ。日が暮れるん早いしな」 「ああ」 しゃあないな、と言う友人は実家から通っているし、遊び足りない顔だからまだ遊ぶのだろう。程々に、と笑って注意して、小石川は友人たちの輪から離れた。 寒い空気が、肌を刺す。 マフラーに顔を埋めて、小石川は考えた。最近、一人になると、考えてしまう。 石田のこと。 あの日、初めて、いや二度目。自分から石田に抱きついた。 嫌じゃなかった。 あれから、石田はたまに、ほんのたまに、自分を抱きしめた。 嫌じゃなかった。 どうして? あんなに嫌だったのに。 怖かったのに。 「考えても、意味ないかもな…」 何故平気になったかがわからないのだ。理屈がわからない。 なら、考えることに意味はきっとない。 小石川はそう片付けて帰路を急いだ。 四天宝寺まで、裏道とも言える小道を通るのが早い。 この図体だから、そう絡まれないし、喧嘩なら強いと自負がある。 全く危ぶまずにその小道に入った。傍に神社と、閉まった店が並ぶ。 進行方向に、人影を見つけた。小石川は、ソレが普通でないとわかって、足を一瞬止めてから、すぐ走り出した。 明らかに高校生の三人と、それに胸ぐらを掴まれて怯えきった小さな身体は、四天宝寺の男子生徒だ。見覚えがある。 「おい!」 殴られそうになった後輩を庇うように高校生に声をかけた。 やはり、見覚えがあるとおり、彼は部の後輩だった。 「小石川先輩っ」 「嫌がっとるやないですか。なにしてんです」 「…なにて…小遣いせびっただけやん」 悪びれずに、高校生たちは笑った。それが鼻についたが、ここで感情的になっては意味がない。後輩は、まだ高校生たちの腕に捕まっている。 「俺等中学生です。そんな金あるわけないでしょ」 「親にせびったらあるやろ。最近の中坊金持ちやし」 話が通じない。そもそも通じる予感はしていなかった。 大抵、カツアゲするヤツらは、話が通じないくらい、頭がおかしいものだ。 睨んでくる小石川が気に入らなかったのだろう。おまけに、小石川はその場の高校生より長身だった。 「この子の先輩、やんな」 「見たらわかるでしょ」 「なら、おとなしゅうできる?」 「……」 意味は嫌というほどわかった。小石川は溜息を気付かれないように吐息に混ぜた。 白く染まる。 「どーぞ」 「小石川先輩!?」 後輩の悲鳴と同時にぐいと、胸ぐらを掴まれて右頬を思い切り殴られた。 口の中に血の味が広がる。切れた。 「…っ」 「もうちょい我慢」 笑う声が、耳障りだと思った。 場違いに石田を思い出す。彼には、力があった。 でも、他人に振るわない人だった。 「…っ!」 三度目に殴られた時、流石によろけた。青ざめた後輩を見遣って、顎で足下を示す。高校生たちが完全に油断している今しかない。 踵で、三度地面を蹴ると、後輩はわかったのか、小さく頷いた。 「っでえ!」 後輩が高校生の一人の腕に噛みついた。すぐ伸ばされた腕から小回りを生かして逃れる。 剣幕を変えた高校生の一人を、遠慮なく蹴り飛ばすと、小石川は後輩の手を掴んだ。 追うようにこちらに手を伸ばした高校生の顔を持っていた鞄で殴り飛ばす。 そのまま「逃げるで!」と指示して、後輩の手を引っ張ってかけだした。 曲がりなりにも、お互いテニス部員である。小石川は元、だが。 足なら負けなかった。 無事、四天宝寺の敷地内まで逃げ切って、ほっと息を吐く。 「大丈夫か?」 そういえば傷がないか、確認する暇がなかったと、小石川は自分の倍近く小さい後輩の顔を覗き込んだ。目立つ傷はない。 「は、はい。でも先輩が…」 「こんなん大丈夫。とりあえず、手当してもらお。な?」 「はい」 「説明、出来るか?」 「はい…っ」 よし、偉いと頭を撫でてやると、後輩はあからさまにホッとして、涙を流す。 大丈夫だと何度も繰り返して、背中を撫でてやった。 寮内に、医務室は存在する。小石川が後輩の顔に覚えがあったのは、部の後輩だったことと、寮生仲間だったことだ。 医務室で寮のスタッフに治療を受けている小石川の代わり、後輩は学校に残っている教師に事情を説明した。 何人かがあわただしく、校舎に戻っていった。 珍しく騒がしい寮内に、自室から何人も寮生が顔を出す。 白石と千歳の姿もあった。石田もいた。小石川がいないからだ。 「あ、ぶ…白石先輩!」 白石に一目散に駆け寄った後輩に、白石はどないしたん?と優しく問いかけた。 なにかがあったのは一目瞭然だ。 「あ、高校生に絡まれてしもて」 「怪我、ない?」 「はい。俺は。せやけど、助けてくれた小石川先輩が」 その言葉に、その場の空気が一瞬凍った、と錯覚ではなく千歳は思った。 背後を振り返る。石田の顔は、見たことがないほど恐ろしかった。そんな顔も出来るのだと、思ってしまった。理由がわかるから、怖くなかった。 「行ってあげたらよか」 そう千歳が言うと、石田はすぐその場を駆け出した。 医務室の方向。 白石は、心配そうにしたが、追わなかった。 わかっていた。自分じゃ、泣かせてはやれない。 「はい、終わり」 「っ…ありがとう、ございます」 顔に貼られた湿布に、小石川は顔をしかめたあと、スタッフに礼を告げた。 口が切れてるから、喋らない、と注意される。 小石川の顔はまだ腫れてはいないが、右頬は赤いし、左は唇が切れて血が滲んでいる。 目元にも傷があって、何度も殴られたのは見てすぐわかる。 医務室の扉がノックされた。誰か問うスタッフの声に、「石田です」という感情が見えない硬い声。 スタッフは、小石川の同室だと石田を覚えていた。どうぞ、と通す。 「私は報告に行くから、ちゃんとまた来るんやで」 「はい」 扉を開けて入ってきた石田とすれ違いにスタッフは出ていく。 扉が閉まると、無言がのし掛かってきた。 石田になんと言ったらいいかわからない。自分に非は誓ってないけれど。 石田に大事にされていることは、痛いほどわかっていた。知っていた。 雨の中、傷付ける言葉を吐いた自分を、探しに来てくれたのだ。 「…しは」 躊躇いながら、呼びかけた時、石田の手が小石川の顔に伸ばされた。 硬い感触の指が、傷の残った唇を撫でる。痛みに顔をしかめた小石川に、石田は謝った。 石田の顔は、硬いままだった。 なんと言ったらいいかわからなかった。 「…」 言葉が見つからなくて、黙り込む小石川の頭を、いつものように石田の手が撫でる。 顔を上げると、石田は微笑んだ。いつも通り、優しく。 驚いて、すぐ、糸が切れるように安心した。 「…痛かったか?」 「…」 問われて、言葉にならなかった。でも、頷いた。 石田の指が、目元に出来た傷に触れる。 「…綺麗やったんにな」 「…師範?」 「…傷、こんなんお前に似合わん」 ゆっくりとした、優しい声が耳を撫でて、目があった瞳が優しく自分を射る。 「…男やし」 「知っとる」 「なら」 「でも、儂はそない思う」 「……」 大事にされている。わかっていた。 いつもの通り。 なのに、ホッとした。堪らなく。 石田だ。優しい、あんな奴らじゃない。人の言葉を聞く、優しい声だ。 「…お前が、…もしどないかなったら、殺すとこや」 「…洒落、ならん」 師範が言うと、そう言った声は、喉に詰まった。 石田の腕が伸びて、ぎゅっと抱きしめられた。後ろ頭を抱かれて、撫でられる。 痛かったか?と問いかける声が。 優しく抱く腕がある。 こんな時に、やっとなんて、遅い。 不謹慎だ。 でも、受け入れられない、この腕の中が、自分が一番自分になれる、安らげる場所だって、今やっと理解った。 「……師範」 「……ん?」 優しい声が、決して、自分を害さないことを知っていた。 「…おれ」 自分は、なのにずっと怖かった。だから、怖かったんだ。 石田の顔を見つめた。泣きそうになった。石田はすぐ、痛いのかと優しく何度も頭を撫でる。 「…は…おれは」 石田は、詰まる自分の言葉を、そこでずっと待っていてくれる。 そんな風に、優しく待っていてくれる人を、手を。 「……俺は」 信じられなかった。自分は。 「…」 怖かったんだ。本当に気付いたら、石田とまともに話せなくなる。 石田に嫌われるのも、石田の傍にいられなくなるのも、嫌だった。 こわかったのは、石田じゃない。 自分の本心を、知る日だ。 「…俺は、…師範のこと、受け入れられん」 泣いてはいない。でも、涙声でそう言った小石川にも、石田は柔らかい視線を向けた。 微笑む石田の手を、掴んだ。きつく。離したくなかった。 「…て、言うんが怖かった。傍におれんようになる。 怖かった。師範やのうて、俺のそういうとこが」 「…健二郎?」 小石川の頬を涙が伝う。あとからあとから、溢れていく。 「俺は師範が好きやから、恋愛で好きやから…! せやから、やのに師範を受け入れられん、自分が嫌いで怖かった…!」 これが、本当。 気付きたくなくて、ずっと蓋をして、見なかった。 俺の、本心。 本当のこと。 それでも、あなたは傍にいてくれる? ⇔NEXT |