彼と俺に降る夜

第九話 《雪が降る前に−後編・僕が居なくても平気ですか》









 石田はいらない、と言った。
 それは小石川と後輩の一件から、二日目の昼。
 完全に冬になった世界は、寒く、いつ雪が降ってもおかしくない。
 寮の中の自販機が売り切れが多く、校舎の方の自販機まで買いに来た時だ。
 千歳に付き合って、石田も付いてきた。
 千歳は「探そうか?」と聞いた。
 未だ、特定できていない、小石川を殴った高校生たち。
「いらん」
 石田はあっさり答えて、落ちてきた缶を取り出し口から取る。
「あれ、師範、りんご飲むと?」
 石田の手の缶はりんごだ。石田は柔らかく笑った。
「健二郎がな。あいつ、フルーツ系のジュース好きやし」
「ああ」
「…」
 また、沈黙が落ちた。千歳の言いたいことはよくわかる。
 曲がりなりにも「恋人」だ。一切の進展がなく、望みもまたなくとも。

『…俺は、…師範のこと、受け入れられん』

 だからこそ、だった。
「知りとうないんや」
「師範」
「…健二郎、顔ひどかったやろ。…綺麗やて誤魔化したけどな。
 ほんまに綺麗やとは思う。ただ」
 そんな意味じゃなかった。本当に、思っていたのは、言いたかったことは。
「はっきり言うてよかよ? 師範」
 真剣な千歳の声に、石田は振り返って、そこにある自分より高い位置の真面目な顔に目を瞑った。千歳はとっくにわかっていたのだ。
「…」
 小石川の目元には、傷があった。
「…健二郎が、お前のようになったら、…きっと儂は相手を殺しとる」
 重苦しく、躊躇いながら石田は口にした。ひどく、苦しげな顔で。
 千歳は気にするなと言いたげに微笑む。その場には二人しかいない。
 言えなかった。千歳を貶す真似は出来なかった。右目の見えない、千歳を。
 でも怖かった。もし、目元ではなく目を殴られていたら、と。
 あの傷を見てそう思った。でも言えなかった。
「…せやから、知りとうない。
 儂が相手を殴って、殺して、健二郎が傷付かん人間なら知りたい。
 せやけど」


『俺は師範が好きやから、恋愛で好きやから』


 彼は傷付く。自分以上に、何倍にも。
 自覚してしまった、今は余計に。

 彼はあれから、自分を見るたび、泣きそうな顔をした。
 無表情はなく、辛そうでもなく、ただ泣きそうな。
 自分を好きだという気持ちと、それから、自分を受け入れられないという現実を混在させた瞳。

「…そうやない、から知りたくなか、か。
 師範らしか」
「…千歳はんは違うんか」
「…わからん。探し出して殺したかし、…ばってん傷付けとうなかし。
 わからんばい」
 あいつ、喧嘩強かもん、と千歳は笑った。

 小石川も強い。
 ただ、彼は、他人に優しい。白石も、優しい。







「多少マシになったな」
 石田と千歳がいない間、小石川と石田の部屋を訪れた白石に開口一番言われた。
 小石川は苦笑する。自分の腫れた、湿布の貼られた頬を指して、だ。
 傷があるうちは、いちいちコンタクトをするのが面倒で、ずっと眼鏡をしている。
 別に痛むわけではないが。
「あともう少ししたらもっとマシになるわ」
 小石川はそう答えた。男やしな、とふざけて。
「そうか?」
 白石は賛同せず、寝台に座る小石川の隣に腰掛けた。
 白い指が、小石川の右頬を軽く、湿布越しに撫でた。
「…男とか、関係なく、嫌や」
「…」
 白石、と呼ぶ声は、掠れてしまう。白石の顔は真剣だ。
「健二郎、ええ顔しとったんに」
「なんやそれ」
「かっこええ顔。美形やんな」
「お前に褒められんの複雑」
 男から見ても女から見ても、全員が綺麗と称賛する見目をしている白石に言われるのは、複雑だ。だから、彼が他人の容姿になにも感じないということではないが。
「俺なぁ、男っぽい人好きやねん。自分があやふやっぽいから」
「え? 白石、充分男前やん」
 白石は笑って、今はな?と言う。昔は、かわいいとよく言われたから、と。
「昔、かわいかった健二郎がどんどんでかなって、俺の身長越して男前になった時はショックやったわ。負けた、て」
「負けてへんやろ」
「顔はな」
 思わず吹き出して否定した小石川に、白石は多少ムスっとして言葉を被せる。
「テニスでも」
「成績はたまに負けるで」
「……やめよやこれ。ノロケみたいやん」
 俺等付き合っとらんのに、と小石川は半笑いだ。白石も、そやなと頷いた。
「で、本題は?」

 小石川は唐突に聞いた。白石は、驚かずに小石川に向き直る。
 立ち上がって、小石川の胸ぐらを唐突に掴んだ。

「出てくて…なんでやねん」

 さっきの談笑とは、うってかわって冷たく、厳しい白石の声。
 小石川は眉すら潜めず、静かに見上げた。

「寮、出てくて…なんでや」









「退寮…!?」
 寮に戻ってすぐ、石田は教師の一人に捕まった。小石川と同室だから、と。
 千歳もその場にいて、すぐ反応したのは千歳だった。
「ああ、昨日の一件で、小石川の親御さんがな。
 そう遠くないとこに実家があるし、目の届かないとこにおるん怖なったからて。
 小石川は今週限りで退寮やろうって。実家から通わせるて」
「…せやけん、どっちでも」
 危ないときは、危ないと千歳は言う。教師は、そんな意味とちゃうんやろうと重ねて言った。
 教師がいなくなって、その場に無言が落ちた。寮の入り口。靴箱の並んだ、外気の入る寒い場所だ。
「…師範」
 千歳が石田を振り返った。驚愕を浮かべているはずの石田は、ただ、寂しくて、悲しくてしかたないという顔だった。
 まるで、わかっていたように。
「師範?」

 予感がしていた。

 二日前、彼の言葉を聞いてから。


 師範は、それでも傍におってくれる?


 そう聞いた小石川を抱きしめた。頷いた。必死に、傍にいると何度も繰り返した。
 …そうしたのは、予感がしたから。堪らなく怖い予感がしたから。
 彼が、傍から消えていなくなる、とてつもなく、怖い、寂しい予感がしたからだ。



「…そげなこつ、ありえなか。師範、そぎゃんこつはなかよ!」
 そんなことはないと、千歳は石田の手を引っ張った。
 小石川の所に、行け、と。






「……親が言うしな」
 胸ぐらを掴まれたまま、小石川はそう答えた。腕を外そうともしない。
 思えば、初めてだ。昔から、親友だった。だからこそ、お互いに暴力を振るったことがない。
 子供の時から、とっくみあいをする子供では互いになかった。
「それだけか」
 白石の声は、冷たくて、憤っている。
「…親が絶対で、なにが悪い?」
 小石川は傷の残る口の端を上げた。笑った。
「子供やで? まだまだ。
 …親の扶養なしに生きてかれん」
「そんな話しとらん」
「なあ、白石、わかっとんの?」
 小石川の手が、白石の自分の胸ぐらを掴む腕に触れた。
「師範は、そのうちおらんようになる。実家東京や。
 …先におらんようなるんは、俺やない」
 手を離すのは、自分じゃない。そう言うと、白石は喉の奥から堪えきれないように声を漏らした。
「怖いから、先におらんようなる気か」
「…どっちでもかまへん。結果論なんか。
 …なんで、疑問系なんや。
 大体他人事か。千歳かて、そのうちお前捨てて九州帰るやろ」
 そう口にした瞬間、白石の空気が変わった。胸ぐらを掴む手に力がこもる。空いた左手が振り上げられたが、すぐ止まって、下に降りた。
「…なんで?
 決めつけたらええやん。
 逃げるんかて、決めつけて、詰って殴ったらええやん。
 その通りなんやから!」
「お前、眼鏡やろ」
 白石は胸ぐらからも手を離すと、小石川と少し距離をとった。背中を向ける。
 声は、さっき以上に押し殺された、感情のない響きをしていた。
「眼鏡の上から殴ったら、洒落にならん。そんなんもわからんのか」
「……」
 小石川は一瞬息を呑んだ。すぐ、自分の肩を右手で握りしめる。
「……ごめん」
 途中から、本気で白石に八つ当たっていた。それに気付いて、悔やんで謝る親友に、白石は背中を向けたままだ。だが、さっきよりは柔らかい声で、「かまへん」と許した。
「…でも、ええんか? 銀と離れて。…いつか離れるから、今もいらへんとか、…そんなんちゃうやろ」
「…―――――――――――――」
 白石の言葉に、なにか言いかけた小石川は、すぐ口を閉ざす。
 扉の方を向く。開かない扉の方を白石も見て、近寄って開けた。
 そこに、立ったまま、入ることも出来ない石田がいた。小石川の胸が痛むほど、寂しそうな顔で。
「…本人に言いや」
 白石は一言そうお互いに言って、部屋から出ていく。石田を部屋に押し込んで、扉を閉めた。足音が遠くなる。
 小石川は寝台に座ったまま、扉の近くに立っている石田を見上げた。
 空気が重い。責めてくれるなら、楽なのに、何故そんなに寂しそうに自分を見る。
「…馬鹿にならんもんやて、さっき聞いて思った」
 石田は唐突に、しかし自然に話し出した。小石川に近寄って、その眼前に立つ。
「…?」
「予感がしとった。お前に、好き言われたときから、…お前がおらんようになる気がしとった」
「…そんな時から、決めてへん」
「せやけどたった二日前や」
 即返ってくる石田の声に、小石川は口を閉ざす。
「…一つだけ、聞かせてくれ」
 石田がその場にしゃがんだ。小石川を見上げる形になる。
 小石川の右腕を掴んで、真っ直ぐ見上げて、悲しそうに問う。

「お前は、儂がおらんくても平気か?」

 小石川はその言葉に、弾かれたように立とうとした。石田の腕に邪魔される。
「答えてくれ」
「…」
 問いつめる石田の声に、小石川は何度も首を左右に振った。
 答えたくないと。
「…健二郎」
 優しいのに、痛いほど自分を問いつめる声を、聞きたくない。
 けれど、耳も目もふさげなかった。
「…」
 平気なわけない。平気じゃない。
 どうして、そんなとこから聞かれなくちゃならない。疑われなくちゃならない。

(…そうやった)

 気付いて、ひどく胸が痛んだ。
 石田を安心させてやれる言葉も、態度も、情報も。
 なにひとつ、自分は与えられていなかった。
 不安にさせる行動や、言葉ばかりを吐いていた。
 信じられるわけがない。石田が自分を信じられるはずがない。

 好きだって、あの言葉も、届いてないに決まってる。

「……」

 いつか、どっちかが離れる。それは、避けられないと思っている。
 なら、いっそ、身体も、なにも暴かれないうちに。

「…平気」

 そう、なるべく押し殺した声で答えた瞬間、視界が歪む。眼鏡を奪われたと気付いた時に、肩を強く掴まれて、石田の腕の中に抱き込まれる。声を出す暇なく、唇が塞がれた。石田の唇で。
「…っ…ん…!」
 石田の胸を叩いて、押し返そうとしても石田は手を離さない。やめてくれない。
 苦しくて、思わず閉じた目尻に涙がにじむ。
「…ん……」
 十秒近く、経ってから石田は唇を解放した。
 涙に滲んだ瞳で小石川は彼を見遣る。近い。それ以上に、石田の顔が痛かった。
 傷付いている。怒りに覆われているが、傷付けたとわかる顔だった。
「…儂が、おらんのは、平気か」
 石田は繰り返した。否定して欲しいと、小石川にもわかる声だった。
 あまりに悲痛だった。
 平気じゃない。
 でも、そう言ったら、彼は信じる?

「…あれはどう受け取ったらええ。
 好き言うて、抱きしめることが出来て、…傍にいてくれるかって言われた。
 …嬉しかった」

 自分を抱いたままの、石田の言葉に、小石川の喉から声が漏れた。泣き声に似ている。実際、そうだ。すぐ瞳から涙が流れて落ちた。
 石田の手が伸びて、まだ湿布に覆われた頬を撫でる。涙を拭う。
 いつだって、その手は自分に優しい。
「……平気、やない。
 …離れたない。…師範が、好きで……好きで……失ったら、生きてかれんほど」
 嘆きに震えた声でやっとそう綴った小石川の唇が、もう一度キスで塞がれた。
 荒々しく踏み荒らすようで、優しいキスに、小石川は目を閉じる。
 手を、石田の首に回した。
「…傍、おりたい。俺、なんもでけへんけど、師範のこと、受け入れられんけど。
 …それでも、傍におらせて。…いなくならんで」
 キスの合間にそう涙声がすがってきた。きつく抱きしめて、離れないと返す。
「離す気なんかない。もう、そんな気は失せた。
 …傍にいろ」
 石田の大きな手が、小石川の手に指を絡めて握る。
 自分からもその手を握って、もう一度キスを交わした。



















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