![]() 教室に時折、思い出したように響く咳は、一つや二つじゃなくて。 他人事のように“大変だなぁ”なんて思いながら、その中に彼が居ることに。 心配しても見たけど。 AM8:15 部室 「最近すっげ風邪流行ってるよなぁ…」 朝練後の部室。ぽつりとそんなことを漏らしたのは二年レギュラー桃城で。 「なんか、学校中あちこちでそんな話聴くな」 「だから流行ってんでしょ」 着替えの合間に、同意する副部長と一年レギュラー。 「でも、結構部分的に広がってるよ。今回」 「部分的?」 「風邪って部分的に広がるもんなんスか乾先輩…」 頭一個分、周りの人々よりはみ出して、一足早く制服に着替えてから、のんびりと佇んでいる彼は風邪とは何だか無縁の風情。 「でも固まってるよ結構。組で」 「あ、それ同感〜」 「英二?」 「六組来ない方がいいよー本当。六組の三分の二は風邪引きで、うち五人休みなんだ」 「って、じゃあ不二先輩朝練来なかったのって」 部室にも、テニスコートにも不在の先輩の事を桃城が持ち出せば、菊丸は少し不満げに唇を閉じる。 「…不二、昨日辺りっから咳してたから」 でも、休むなんて連絡は自分は聴いていない。 心配だけど、それは不満。もしかしたら連絡するどころの体調ではないのかも知れないけど。 「熱さえ出てなければ来るだろうけどね。 付け足すと十一組も流行ってるから、来ない方がいいよ」 「一階上までわざわざ行かないよ」 そもそも、フロアの違う十組、十一組の状況なんて同じ三年でも判りづらい。 「お前達、いつまで話してる。 HRに遅れるぞ」 「手塚はなにか聞いてない?」 「何が?」 そういえば、一組は比較的少なかったよな風邪、なんて知識を乾が頭で呟く。 「不二、休みかな学校」 「…ああ、朝練は休むが授業は受けると言っていたが」 「え…何時聞いたんだよ手塚」 「さっき、校庭で見付けた」 事も無げに言う、手塚の表情は普段通り。 なのに何処か納得行かないように、皺が増えているのはきっと今の話題の彼のせい。 「菊丸、今日はあまり不二に話しかけてやるな」 教室に向かう間際、手塚が視線を寄こさずにそう言った。 眉間に、皺。 ざわめいた教室。普段より静か。廊下のプレートに三年六組。 入るなり、真っ先に不二を見付けて菊丸はそこへ駆け寄る。 「不二ッ」 かたんと鳴る、机。 顔を上げて、いつものように笑って、不二は“おはよ”と言うように手を上げた。 「おはよっ。風邪、平気? 朝練休むならさ連絡くらい入れろよ心配するじゃん」 手塚の忠告を無視して話し続けると、不二は相づちのように頷いて笑うけど、返事は無し。心配したのに、少し腹が立って。 「……俺と話すの嫌?」 って言ったら、一瞬驚いた顔をした。 緩く首を横に振って、ようやく口を開く。 「ごめん英二」 掠れた。声とも言えない声。 息が抜けたような、色のない、潰れた声音。空気みたいな。 潔く理由を知って茫然とする菊丸に、にこりと笑う。表情だけ普段通り。 「声、あんまり出ないから。嫌じゃないよ、ごめん」 手塚の忠告、そういう意味だったんだ。 「…ごめん不二」 いいよって言っている意味の、笑顔。 「せんせい来るよ」 促されて座るけど、視線だけで菊丸は何度も不二を振り返った。 罪悪感と、声が出なくなったらなんて不安。 あの声が、聴けなくなるのは嫌だ。 授業の合間にも咳。教室のあちこちで。 不二も時々咳き込んで。 自分が、何ともないのが何だか不思議。 「頑丈だねお前」 わざわざ上階から、昼休みに降りてきた乾が六組を覗いてそう一言。 その声も、妙におかしい。 「…乾、声変」 「マスクしてた方がよかったよ。他はどうともないんだけど。喉やられたみたいだね」 そのうち不二みたくなるかも。 「怖いこというなよ」 「怖い? 菊丸もそのうち掛かったりするかもよ?」 「乾、伝染そうとしてない?」 「してないよ」 人聞き悪いな、なんて言って。 教室の時計を覗き見て、乾は昼休みが終わっちゃうななんて一人呟く。 「なんか用事?」 「手塚に用あったんだよ。じゃあな」 「うん」 昼休み終了まであと十分。 遠くなる背中を見送って、菊丸は何となく自分の喉を押さえてみる。 痛くも何ともない。不二や、乾の痛みはわかんない。 PM1:03 三年一組 「手塚、いる?」 「手塚? ちょっと待って」 廊下に出ていた男子生徒を介して手塚を呼び、乾は少し痛む喉に軽く手を触れた。 そうこうしている間に、何か用かと手塚が教室から顔を出した。 「や、わざわざごめんね」 「別に構わないが……」 後に続く間が示す物をとっとと察して、“俺も風邪引いたみたい”と手を広げて見せた。 大体十一組は自分を抜かせばほとんどがごほごほやっていたのだ。今まで無事だった事の方が不思議なのだが。手塚は案の定。 「全く、自己管理が足らないぞ」 なんて言う。予想通り。 「自己管理だけの問題じゃないと思うけど」 「お前の場合夜が遅いだろう。第一ちゃんと食べているのかも怪しい」 一年時から同じクラスの付き合いだった手塚には、他の生徒に通じる言い訳は不可。 自分の家が、ほとんど親の帰らない一人暮らし状態だということは手塚も不二も承知済みで。 だから食事時間は結構いい加減だけど、栄養はちゃんと考えて取ってるとは、前に話したような気がする。 「酷い言われようだな…。お前は本当元気だね」 というか、一組自体皆あまり辛そうな様子ではない。 「それが普通の状態だろう。 それで、用件は何なんだ?」 「うん。もうすぐ文化祭じゃない。 恒例イベント、幾つやんのかなって。 手塚生徒会長だろ?」 わかんないかな? と聞いてくる乾の真意が読めないのはいつものことだが。 今回は特に判らなくて、手塚は眉間の皺を強くする。 「お前も生徒会の人間だろう」 「最近行けなかったからね」 確かに、色々用事が付きまとっていたらしく、乾は最近生徒会室に寄りついていなかった。その点では筋は通る。 「どうして今、なんだ?」 今すぐ、わざわざ上階から降りてきて聞くことではないと思う。 自分で訊いたわけではなく、不二や菊丸を通してだが、乾が上階から降りるのを面倒がっていつも弁当なのだということは手塚も知っていた。 「うちの組そういうの早く知りたがって。っていうか正直ずっと教室にいると喉酷くなりそうだったからね。出てくる口実欲しかったんだよ」 もう既にかかってしまってはその配慮も意味がなさそうではあったが。 授業開始五分前。 テニス部二人が廊下で話している様は、お互い背が高いだけに目立つ。 「…コンテストとゲストは今年もやるらしい。あと」 「“金貨”もだろ。あれは人気あるしね」 「……」 面倒なだけだ。と手塚の表情が言いたそうで、乾は小さく笑った。息に混ざる。 青学文化祭の恒例イベントであるそれは、一枚の金貨を好きな人に渡すという他愛ない物で、返事がYESなら銀貨を渡す。 去年それで苦労した手塚としては、あまり嬉しくない催し物だろう。 「あれは同姓から貰うと複雑だよな。俺三枚貰ったよしかも全員下級生」 嬉しくないっての。 「…用件は、それだけか?」 「…冷たいねお前。ま、むしろついでだったしね。うん終わり」 「ついで?」 「不二の様子見」 喰えない笑顔でそう言い置いて、乾はさっさと踵を返した。 PM:4:35 部室 「……そんなイベントあるんスか」 「モテる奴は面倒だけど他人事として見るなら楽しいよ」 モテる例がうちの部には二人居るし。 という大石の台詞が指す相手は、越前にもすぐ判る。 「勿論男から女の子にあげてもいいしね」 「でも同姓の場合もあるけど…、」 じゃあ不二先輩貰ってそうだな。 「乾も後輩の男子生徒に三枚貰ってたけどね」 「……へぇ」 「こら、不躾な視線投げかけないの」 小突くついでの、乾の声は昼間より掠れていて。 「乾、大丈夫か?」 「平気だよ。だったら伝染される心配でもしてなよ」 なんて台詞に、遠慮なく離れるのは越前で。 お前失礼だねなんて言葉に“どーも”なんて言っている。 「…、不二。大丈夫か?」 部活出て。 部室の入り口から歩いてくる彼に掛かった乾の声に、返るのは普段の微笑。 「怠くはないから」 平気。と告げる声は、ほとんど息になって音にならない。 「先輩、声」 「そのうち治るよ」 心配しないでと言うけれど、その声が希薄過ぎて、不安を煽る。 「文化祭の話?」 「そうだけど。お前あんまり話さないの」 乾こそ。 「もう一週間もしたら、忙しくなるね」 出し物もあるし。部活も休みになるよ。と交わされる会話。 息だけのような不二の声を、何とか捕らえようと、声だけは静かに。 「楽しみ?」 そう問い掛ける。声が、やっぱり心配で。 本当に大丈夫なのかと言いたいけど、そうしたら余計不二は気を使いそう。 |