最初の願いを君に伝えても、届かないほど汚してしまった。





禁断

















「………っは……ぁ……や……」
 掠れた声が、自分の上で零れる。
 腕を伸ばすと、荒く呼吸を吐く彼の頬を撫でた。
 途端、行為で欲に染まっていたように見えた顔で、彼は無表情に自分を見下ろす。
「次は、…なにをご所望ですか?」
 整っていない呼吸で。震えたままの身体で。掠れた声で。
 でもそこにあるのは、相変わらず人形のような顔。

「…白石」

 名前を呼ぶと、彼は自分を無感動に見下ろした。

「ご主人様…」

 名前を呼んでと、言うと彼は笑う。人形のような顔で。
「それは出来ません」
 感情のない声でそう、言う。






 朝の太陽の光で、目が覚めた。
 千歳がぼやけた視線を向けると、大きな寝台の向こう、広い部屋のテーブルから紅茶の匂いが香ってきた。
 そこに立っていた青年が自分を振り返って、無感動な顔で口の端だけを上げた。
「おはようございます」
「…おはよう」
「朝の支度をなさってください。朝食に遅れます」
 どこまでも真面目なことを言う彼に千歳は笑って、手を彼に伸ばす。
「白石が、こっち来たら」
「時間に遅れます。ご主人様」
 この屋敷の、俺の執事である白石という青年は、あくまで事務的に自分を急かした。
 動かない自分を見て、しかたないと溜息を吐くならまだかわいげがあるのに、白石は無表情のまま傍に近寄り、人形のように表情を動かさず千歳の前に手を出した。
「これでよろしいですか?」
 千歳の顔が歪に笑む。それにすら怯えない。腕を強く引いて寝台に押し倒した。
 痛いほど首を絞めても、彼は苦しみすら表情に浮かべない。
「ご主人様。…支度をなさりませんと、遅れます」
 そんな、事務的なことしか言わない。言えない。
「……ごめん」
 我が儘を言っているのは、自分だ。
 手を離して、白石を解放するとすぐ支度すると寝台から降りた。
「白石、先に挨拶ば言ってきて。すぐ行くけん」
「はい、わかりました」
 表情は自分が起きたときから全く変わっていない。いや、きっと、ここ数年はずっと、変わっていない。無感動で、人形のような感情のない顔。声。
 退室した白石を視線で見送って、千歳はテーブルに用意された暖かい紅茶の入ったカップを取る。
 口を付けると、甘すぎない、柔らかい味が広がった。

 悲しくなって、同時に胸の一部が暖まる。




 この紅茶はいつも、彼が自分に煎れてくれる。
 昔、苦い紅茶もコーヒーも飲めなかった自分に、父に仕える使用人だった彼が試行錯誤して煎れてくれた。自分は一口で気に入って、『毎日、朝はこれ煎れて欲しい』と強請った。彼は微笑んで頷いた。

 あの頃はまだ、彼の声にも、顔にも、暖かみがあった。

 今のようではなかった。





「おはよう」
 客間で待っていたのは、千歳の学生時代の友人たち。
 千歳も家庭教師などという学び方を嫌って、学校に行った。
 それでも名門の学校。彼もまた上流の人間だ。
「おはよ、謙也」
「お前……眠そうな顔やな」
 広いソファに腰掛けて、謙也は真っ先にそう指摘した。
「うん」
「なにしとったん」
 謙也の言葉に千歳は、胸に悪戯心がわき上がる。謙也により、白石に。
 白石が丁度、部屋に入ってきたところだった。
 軽く服の襟を引っ張って、鎖骨のところを見せる。
「ナニしとった」
「え……」
 それと、鎖骨にある鬱血で理解したのだろう。謙也の顔が赤くなる。
 会話が途切れたのを見計らって白石がテーブルに用意した紅茶のカップを二つ置く。
「失礼します」
「あ、はい」
「御用がありましたら、すぐ申しつけください」
 相変わらず人形のような顔で、無感動な言葉。義務的で、事務的な声。
 自分の背後に控えようとする手を掴むと、白い手袋に包まれた手は震えもしなかった。
「なにかご用ですか?」
「……」
「ご主人様。私が言うのはやぶさかですが、それはお客人に失礼です」
 晒したままだった鎖骨を指して言う声にも、羞恥の欠片もない。
 白石の手を離すと、彼は背後に下がってしまった。

 注意はする。昔のように。
 自分の身の回りの世話は、なんでもする。昔のように。

 でも、命令すれば、自分の傍を離れる。
 忠義心どころか、あの頃の慈しむ心なんかない。

 キスマークをつけろと強要すれば、痕を残した。
 自分と寝ろと言えば、人形のような顔で従った。




「……相変わらず、ロボットみたいやな」
 ようやく我に返った謙也が言う。小声で。
「……前は違ったんに」
 謙也は昔、遊びに来たことがある。以前の感情のあった、彼に会っている。
「………謙也」
 背後に彼がいる。わかっていたけど、理解っていた。
 彼がいるとわかっていた。
 でも、聞いてもなにも感じないと理解っていた。
「……どげんしたら、償えっとやろ」
「…え?」
「…どう謝ったら、よかろな…」
 磨かれてガラスのようなテーブルに自分の顔が映った。ひどく、辛そうな、泣き出す寸前の顔。
 取り返しがつかない。付かないから、今の彼なのに。
「ご主人様は、なにもなさらなくて結構です。そこにいらっしゃれば」
 珍しく口を挟んできた彼に、驚いて、すぐ胸が痛くなった。
 謝罪も、なにも要らないと言う。無感動な声。顔は見えないがきっと、人形のまま。
 謙也は、ぽかんとして、すぐ考え込んだ。






 十五歳になって、すぐの夜だった。

『白石、一緒に寝て欲しか。いけん?』

 そう言った自分に、白石は流石に驚いた顔を向けた。
「千里様?」
「いや、……今日、学校で」
「はい」
「怖か話ば聞いて」
 それで思い当たったのか、白石は小さく笑った。おかしそうに。
「ひどか」
「すみません。千里様は、平気かと思っておりましたから」
「そう?」
「ええ。以前から、怯えたことがありませんでしたよ」
 傍に歩いてきた彼の手が、寝台に座った自分の髪を撫でる。
「わかりました。お傍にいます」
 優しい彼が好きだった。
 大事だった。

 醜いほどに、大事だった。

「千里様?」
 その細い手を掴んで、寝台に押し倒した。
 状況を把握出来ず、固まる彼にキスを落とした。唇を乱暴に塞ぐ。
 流石に手が動いて、自分を押し返そうとした。
「命令やろ? 動いたらいかんばい」
「……」
「俺の言葉だけ聞いたらよか。なんも考えんで」
「…………」
 驚愕と、何故か寂寥に顔を染めて、彼は震える手で、声で頷いた。

「わかりました」

 その日を境に、彼は徐々に表情を、声を、凍らせていった。




『なんも考えんで。俺の言葉だけ聞いたらよか』




 取り返しの付かない、ことを言ってしまったのだと、気付いた。
 彼は言葉通りに、した。なにも考えなくなった。否、感じなくなった。
 もういいと、もう破っていいと、何度も繰り返した。
 彼は、人形のような顔で「あなたのおっしゃる言葉は絶対ですから」と言う。
 もう、いいから。
 もう、要らないから。







 謙也が帰った後の夜、寝台に横になっていると、後悔ばかりが浮かぶ。
 どうしたらいい。どうしたら笑ってくれる。どうしたら、償える。
 欲しくて、愛しくて、大事だった。
 大事にする。宝物のように、大事にする。
 壊さないように、大事にする。
 だから、微笑んで欲しい。昔のように。

「白石」

 呼ぶと、傍に歩み寄る靴音がした。
 見上げると、相変わらず無表情な顔。

「………俺がここにいれば、よか?」

 昼間の言葉に、決して他意はない。
 あれは、事務的に俺を慰めただけ。そこに、彼の心はない。

「はい」

 わかっていたのに、聞いてしまう。
 愚かすぎる。

「…いればよか?」
「はい」
「…なにもせんでもよか?」
「はい」

 人形のようにただ頷くだけの彼に、悲しくなった。涙が頬を伝う。
 見られたくない。彼はなにも思わないけれど。
 背けようとした瞬間、彼の手が頬に触れた。涙を拭う指先。
 手がそのまま自分の後ろ頭を抱いて、彼の胸元に抱き寄せられた。

「…あなたはそこにいればいい。それだけでいい。それ以上に、俺は欲しいものを知らない。……俺は、怒ってなんかいませんよ」

 人形みたいな声じゃない。優しい、暖かい彼の、声。
 弾かれたように顔を見上げると、柔らかく微笑む顔があった。
 夢にまで望んだ顔。

「白石?」
「はい?」
 優しい声が答える。髪を何度も撫でる。
「…俺の所為…?」
「違います。…これは、俺の所為」



『ご主人様は、なにもなさらなくて結構です。そこにいらっしゃれば』



 あの時、仮面は一瞬剥がれてしまった。
 見ていた千歳の友人はぽかんとしていた。すぐ、内緒ですと、軽く笑って見せた。




「……あなたを好きになってはいけないから、あなたの命令をいいことに人形であろうとしたけれど、あなたはお構いなしに人を振り回す」
「…ごめん」
「…人形であればあるほど、触れたくなる。愛しくなる。辛くなって、…触れてしまう」
「…ごめん…。もうせんから…笑って」
「…あなたが言うなら、笑います。お傍にいます。…例え死ぬ時であろうとも、あなたが命じるなら」
 例え、どんな苦痛の中であっても、笑ってみせる。
 あなたが望むなら。
 自分に手を伸ばして、抱きしめる千歳が、もう一度キスを唇に落とした。
「欲しかもんがあるなら、言うて。叶える。傍にいてくれるなら、なんでも」
「俺は我が儘ですから、聞かない方がいい。あなたが優しいから」
「よか。かまわん。聞かせて」
 白石は涙に濡れている彼の頬を拭って、手袋を外すとその首筋にしがみついた。

「また、寝所に呼んでいただけますか?」
「…よ、かと?」
「あなたが欲しいのは、同じです。愛しいと、言ったでしょう?」
 自分より幼い主人の背中を撫でると、一度離れてその顔を包んだ。見下ろして、笑う。


「私は欲深いんです。あなたに振り回されていたい。一生ね」


 今までで一番綺麗に微笑んで、艶を含んで強請る。主人はすぐ、真っ赤になって自分を抱きしめた。

 我が儘だから。我が儘になるから、あなたを欲しがるから。
 仮面を付けた。
 でも、外したのはあなた。


 もう、離れろなんて言わないで。














 ⇔その後