第二話【強がりばかりを吐き出してしまうのは帰りたいから】
深夜に目が覚めたのは、千歳が奏でる音色の所為だった。
「……とせ」
声は、寝起きの所為と散々鳴いた所為で掠れて絡んだ。
届かないように、千歳は部屋の隅の小さな電子ピアノを弾く。
寮の部屋にはいくつか、そういうピアノが置きっぱなしの部屋がある。
使っていいか、と入寮した時、彼は聞いていた。
「……ちとせ」
もう一度呼ぶと、気付いていたらしい。笑った顔がこっち来い、と顎で招いた。
ぺたり、と素足で歩いて、痛む腰を我慢して歩いて傍に行く。
「…ピアノなんか弾けたんか」
「この一曲だけたい。中学の頃、光に教わったけんね。
あいつん家、ピアノあったい。もちろん大きいんじゃなかけど」
「知っとる。これみたいな小さい電子ピアノやんな」
「やっぱ知っとうた?」
「財前がお前を招いて俺を招かないわけないやろ」
「そらそうばい。…いくらなんでも、そげん程度はわかっとか」
微かに、囁くように言われた声。
少し、胸がずきりとした。
「…ごめん。…お前に言われて、大分自分が自分のことに鈍感なんは…わかったかもしれん。けど、」
「その都度、それが思い出せないんは、わかったっていわんよ」
「……そやねんな。…そうなんや…。終わった後、やってしもたって反省しても、繰り返すならわかってへん、て話や…」
「……白石」
呼ばれて招かれるままもっと傍に寄ると、抱きしめられる。
すぐ離れた千歳が、白石を抱きかかえて椅子に座った自分の膝に乗せる。
シャツ一枚なので、なにも着ていない太股に触れる手が流石に恥ずかしい。
「……ちとせ?」
頬を赤くして見上げると、彼はずっと悩んだような顔であらぬ方向を見下ろしている。
不意に白石の頭を引き寄せて、胸に当てる。
「…心臓の音、聞こえっとや?」
「…うん。…早い?」
「今、お前が飛び降りた…って聞いた時を思い出した」
「………」
「みんな、こげん風にしんどかったとよ?」
「……ごめん」
謝る声に、誠意は感じられる。彼は誠実もなく謝罪を口にしない。
なのに、なら何故、わからないんだ。
「一応、謝った以上は許す。二度はないぞ」
「うん…」
翌日の学校で謝罪した白石に真田は一言そう言って席に戻った。
別のクラスの跡部にはもう謝った。
「足は痛くない?」
傍を通りかかったクラスメイトがそう聞く。
「乾くん」
「身体が相当丈夫、か受け身が上手い、かのデータが更新出来ていいんだけど。
俺も相当聞いた時はひやっとしたよ」
「…ごめん。痛くはない」
「そう」
頷いたクラスメイトを追ってその斜め横の席に座る。
「白石が謝るつもりになったのは、千歳のおかげ?」
「え?」
「謝るつもり、はよくないな。謝ることに気付いた、かな。
千歳?」
乾はすごいと思う。言い方の誤りに気付いて、すぐ直す。
「おかげ、…?
でも、怖かった」
「…一応セフレって聞いたけど。
にしては、千歳はちゃんと白石を好きだよね。
キレるって、心力も体力も要るよ」
小声で言った乾に、人から聞くとわかる、と返す。
「わかるんだ?」
「あの時はそうやったんや。とか?
でも、会った時、俺は千歳の態度が全てやねん。
全部聞いたことは吹っ飛ぶ。
やから、…千歳はずっと怖いと思う」
「…怖い、か…」
切ないね、千歳も。
乾は言いながら、出した教科書を机に置いて立ち上がった。
「自分音痴は造語だけど、白石見るとあってると思うよ。
酷くしたいのも、わかる」
「…乾くん?」
「ああ、あと、明日、テニス部は練習試合。
俺達一年は球拾いだけどね」
言ってひらひらと乾はいなくなった。
渡された楽譜を受け取って、千歳は横目で二組の看板を見遣る。
「残念だね、白石と同じクラスじゃなくて」
「うるさか」
「俺は他人事だからね。他人は勝手に憶測するし、勝手は言うよ。
だってなにも責任持たなくていいんだから」
乾はそう言って、眼鏡をかちゃり、と押し上げる。
「…」
「白石がわからなくて、困る?」
「…、と、いうか」
「白石が自分をわからないから、困る、だね。ごめん」
乾はわざと間違った言い方を先に言うのかとも思ったが、表情が違うと思い直す。
彼なりに、新しい学友との付き合いを学んでいるらしい。
「…切なか」
「せつない、ね」
「…?」
眼鏡を少しずらして、乾は二組の方を見た。
「…まあ、俺はいいんだけど。やっぱり、怖いよね。
うん、切ない」
「…乾?」
「…これは、理解が届かないことだからね」
言わないだけ。と彼は笑う。
テニス部の練習試合が行われたその日は、一年は実質やることがない。
一年は仮入部は終わっているとはいえ、まだ力試しとも言える試合がそう数がない。
球拾いをしていた一年の数を数えていて、白石が数人足りないと気付く。
テニスコートを抜けて、校舎脇を過ぎたところで言い合う声を聞いた。
「おい!」
白石の声に叱られて、三人の部員がびくっとこちらを見た。
「戻った方がええよ」
「…白石かよ」
「うっせえな」
「…球拾い」
あくまで静かに言う白石にキレたように一番近くにいた部員が唐突に片腕を掴んだ。
空いた手でふりほどこうとする暇もなく、背後で空いた手が掴まれた。
他にもサボっていたのかいたか。
そう暢気に思った。
「よく見りゃ、ほんと綺麗な顔してんな」
「そらどうも」
「…原型なくボコボコにしてやろうか!」
至極冷静な白石にキレた声が拳を振りかぶっても、冷静だった。
負ける気はしなくて。
「あっれ〜なにしてんのかなぁ? 一年がこんなとこで」
響いた声に、びくっと震えたのは白石ではない。他の三人だ。
そこにいたのは、いかにも柄の悪い、煙草を銜えた数人の上級生。
着崩した制服が、返って馬鹿の手合いのように見える。千歳や財前は真っ当に似合っていたな、と思った。
「…い、いえ…俺達は」
「一発、躾た方がいいよなぁ」
「っ!」
振り上げられた拳に今まで白石に難癖をつけていた部員が身を竦ませて目を閉じる。
鈍い音はその部員からではない。おそるおそる目を開けた彼の視界には、両腕でそれをガードした白石の姿。
喫煙と、あと酒臭い。
そう判断して、白石は背後の三人に小声で言う。
「はよ、戻って先輩ら呼んで来ぃ」
「え、…なんで」
「俺は手は出さん。そしたらどう見たかてこいつらが悪い。
テニス部に被害はない。
ええから呼んで来い!」
「…!」
すぐ身を翻した三人を見送る暇なく、鳩尾を強く蹴られた。
「…あれ、白石どこ行ったの」
乾がふと試合スコアの記帳をやめて顔を上げた。
「…おらん、と?」
聞こえていた千歳が手を止めて、やけに蒼白に聞くから笑った。
「なんもないよ。多分。
あいつだから、普通に迷子呼び行っただけじゃない?」
ただ、と乾が言いかけて向こうから走ってくる姿に立ち上がる。
「…嫌な感じはしてて。関係ないといいんだけど」
眼鏡を軽く外す仕草で乾は呟いた。
吹っ飛ばされた身体が自販機にぶつかってずるりと地面に落ちた。
「……っは…。あ……」
せき込んで呻く白石の頭を踏みつけて、男が唾を吐くようになにかを言う。
腹を軽く蹴られて、何度も痛んだ場所はもうそれが軽いかどうかも判別がつかない。
「…随分綺麗な顔しやがって」
忌々しげに呟いた男の手が、力無く倒れていた白石の髪をわし掴んで持ち上げた。
複数の足音がその場に響いたのは、丁度その時だ。
先頭を切っていたのは先輩と跡部だが、千歳にも見えた。
髪を掴まれて宙に持ち上げられた、意識さえないような彼の身体。
長い上のジャージはほとんど汚れて、袖は切れて手首から先しか見えない筈の包帯が見えた。
ハーフパンツを履いた足は両足、靴がなくなっていて右足は辛うじて引っかかった靴下が上から垂れる赤い血に汚れていて、素足の左足の指から地面に血が落ちていた。
うっすらと開いた瞳が、ようやくこちらを認識して、声が掠れて動く。
「……と……せ……?」
「……、…っ」
千歳や跡部、誰かが叫ぶより早く男は舌打ちすると白石の身体を乱暴に横に投げた。
誰も間に合わずフェンスに叩き付けられた身体が、もう声もなくまるで要らないと投げ捨てたノートのように地面に落ちる。紙切れのように。
「………」
彼が、自分を構わないことはいけないことで。
だから、痛めつける方が楽だった。
けれど、こんなのはない。
こんな風に、彼が傷付けられなければいけない謂われがどこに。
「千歳!!」
響いた絶叫は誰か、わからない。
それでも、憎悪と憤りのままに振り上げた拳は、遮られた。
手を掴まれたわけではない。
左足を、掴む腕がある。
すぐ退かそうとして、気付く。
茫然と見下ろした視界。千歳の左足に辛うじてしがみついた白石の身体が血の流れた顔で自分を見上げた。
「…アカン」
「…。…し」
「…やめろ。…千歳」
「…………そげんこつっ!」
「…よせ。……頼むわ」
「……………………」
それ以上言い募る言葉は自分にはなくて、力無く上がったままだった拳をそっと傍に近寄った身体が降ろした。
乾だ。
見ると、その上級生たちは既に顧問たちに押さえられていた。
「……白石」
乾の声に我に返る。
足下の彼に、既に意識はなかった。
「…白石!」
すぐ病院に運ばれた白石に、深刻な怪我はなかった。
捻挫と打撲。骨や脳に異常はなし。
そのまま寮に連れ帰られた白石を、運んだまま千歳は部屋から出てこない。
寮の食堂でたまたま席が向かいになった跡部が、露をレンゲですくいながらぽつりと言った。
「生きた心地がしなかったぜ。あの千歳見た時はよ。
…白石もか」
「同感だけど。あんなのは誰で見たってそうだよ。
普通、怖い」
ふつう、と跡部が繰り返した。乾は、普通、と返す。
「普通、身が竦んでなにも言えないか、千歳みたいにキレるか。
どっちかだよ。
白石の自分音痴も困ったね。それでも、千歳が怖いのかな」
「…?」
「跡部はさ、…自分に向かう心配はわかるよね。
こうしたら心配される、思いやられる、好きって思われてる。
だから、ちゃんと人に任せることは任せる。
白石は任せることを任せられるのは集団を意識して、自分が出来ないってそこは理解するからなだけ」
「……ああ。普通そうじゃねえの」
「白石は、わかんないわけだ。五階から飛び降りた時もそう。
周りが心配するはずがない。それが彼の思考。
だから、白石は千歳に怒られるまで跡部や真田の怒鳴る意味って理解してなかったと思うよ」
「……難儀だな。なんでもこなす器用なヤツって思ってたが」
「俺も思ってたよ。
にしても」
「?」
「似合わないね。ラーメン食べる跡部景吾」
「うるせえよ。それは何味だ」
「とんこつ。一口食べる?」
「一口だけな」
言ってふと眼鏡をやけにいじる乾をいぶかしがると、見えるんだ、とこともなく。
「……見えるだけだから、わかんないんだ」
「……?」
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