第三話【切なさより深く、痛みより焦がれて】
寝台で眠る白石の、頭と両腕、シーツに包まれた両足には包帯がある。
歩くには支障がないと聞いた。
けれど、
「………、…っ」
千歳はその右手を取ると、祈るように額にこすりつけた。
「……かった…」
声にならない。
怖かった。
痛めつけたいのは、彼に理解らせたいから。
だから、本当に彼が痛むのが見たいわけじゃない。
あんな、モノを見たくなかった。
一生。
「……、…?」
不意にぱちぱちと瞬きした瞳は翡翠で、視界に映る蛍光灯に眩しそうにした後、自分の手を握る顔を見遣った。
「…ちとせ?」
「…白石…」
「……なに…泣きそうな顔」
「…すったい。あげんもん…見て」
今も気を抜くと涙が溢れそうだ。そう俯いた千歳に、白石はぎし、と寝台を軋ませて起きあがる。
途中痛むのか、顔をしかめた。
「寝とらんといかん!」
「…お前が泣くツラせんなら、寝てる」
「……、だけんっ」
「……お前が、…俺が痛むと辛いんは…今わかった」
「…今、と? やっと?」
掠れた声がやっとそう言う。責めるように。
「…ごめん。今。
…お前が、俺を見て痛んでんの見て…俺が辛かった。
…それで、わかった」
「…次、なんかあってもそん時には忘れとうよ…お前」
「…それでも、今はわかるんや。今は、…お前が痛いって思わせや」
千歳の胸元にぽすりと寄りかかった身体を、ゆっくり抱きしめた。
傷を痛めないよう、きつくないように。
「……いつも、…こんな風に優しいならええんにな」
「…いつも、…そうじゃなかの」
「…いつも怖いよ。お前は。俺にとっては。
抱かれる時も、叱られる時も…。
怖い…。
その巨きい身体が自分を支配するんが…怖いわ」
「……俺は…」
「…ヒトから、俺を…って聞いても、お前が目の前に立つと、それが全部や。
怖いねん。
…お前が優しいんは、嬉しい…。
…それなら、怪我した方がええんかな」
吐息のような声にきつく、骨が軋む程抱きしめた。
腕の中で白石が痛みに呻いても、手加減しなかった。
なにを言ってるんだ。この男は。
俺が優しくない?
俺が、いつもなにを思ってお前に接していると思ってるんだ。
俺の気持ちも知らないで、優しいのがいいだって、ふざけるな。
なにを言ってるんだ。
怪我したらいい?
俺を、何度も苦しめたいって言うのか。
あんな思いを、何度もさせたいのか。
あんな目に遭いたいのか。何度も。
馬鹿を言うな。
次はお前が止めたって俺は相手を殺してしまう。
お前を傷付ける相手を、許す細胞は俺にはないんだ。
お前は、
「…白石は…俺を人殺しにしたかの…?」
抱いたまま、そう囁いた。
馬鹿言うな、とそう返るのを待った。
腕の中の声が、痛みに少し掠れて言う。
「…したいで? …なってくれるんやろ」
耳を、一瞬疑った。
すぐ、続く笑い声に現実を疑った。
腕を微かに離すと、見上げて微笑む顔。
「…しらいし?」
冗談だろう、そう言う千歳の頬に手を伸ばした白石が笑んだ顔で千歳の瞳を覗き込む。
その翡翠がすっと細められた。
――――――――暗い?
暗い、闇がある。
どこに? 俺の周りにだ。
どこだ?
ここは、どこ。
白石は?
千歳の視線が不意に足下に下がる。
そこに倒れた、黄色と緑のジャージはかつて見慣れた四天宝寺のジャージ。
服から覗くのはあの白金の髪。
心臓がどくりと鳴る。
そっと、震える手で仰向かせた顔が、息絶えた青さで千歳を見上げた。
「…―――――――――――――……―――――――――――――!!!!」
声として判別出来ない悲鳴が喉から上がった。
気付けばその場にしゃがみ込んだ、涙に濡れた千歳の顔を、白石が立って見下ろす。
それが、紛れもなく微笑んでいる。
「千歳!?」
声を聞きつけた乾と柳、橘が飛び込んで来て部屋の様相に声を失う。
恐怖に打ちのめされて泣く千歳と、それを見下ろして、怪我などないように立って笑う白石。
乾が、一度眼鏡を外して目を歪めるように細めた。
「千歳は?」
橘が落ち着かせてる、と柳。
あの後、すぐ正気に返ったように千歳を案じた白石に問えなかったし、彼自身わかっていない様子だった。
「…なにがあったんやろ」
五階に来た忍足に、跡部が煎れた珈琲を置く。
ありがと、と受け取った忍足を見下ろして立ってから、乾はカップを持ち上げた手で眼鏡に触れた。
「…言うか、迷ったんだけど」
「へ?」
「…白石、…あれ憑かれてるよ」
「…つか…幽霊に?」
「何で、乾、てめえにそんな断言が出来る?
霊感持ちは白石だろうが」
「待て跡部。
貞治も霊感に無縁ではない」
柳がそう言って乾の隣に立った。
「俺は局地的だから、白石のように幽霊に好かれない、絡まれない、知識もない。
でも、見えるんだよ。本当、見える“だけ”。それ以上は出来ないしされない。
見えても触れないし、触られない。干渉は一切されない一般人と一緒。
一般人程度の干渉を受けないとは言い切らないけど白石みたいな干渉は受けない。
憑依なんか論外。
見えるだけ」
「……白石に、見えたのか?」
少し信じたのか、それを信じるしかないと思ったのか跡部が言う。
「見えた。はっきりじゃないけど、白石以外が彼に重なってたのははっきりね。
よく見る、憑依されたヒトの典型姿そのまま。
千歳、“白石の目を見たら”って言ったんだ? 蓮二」
「ああ」
「瞳が起こす霊的幻覚だね。見たくない悪夢、悪い想像を増すものかな。
俺の霊感がそれに近いからわかるんだけど」
「…近いって?」
「俺は“目で見た”ものしか関知出来ないから」
「貞治が眼鏡をするのは視力が弱い他に、見る霊的干渉を避けるためだ。
眼鏡は霊的干渉を阻む。
眼鏡をすると普段の九割は見えなくなるらしい」
それでその分厚い眼鏡か、と忍足が空笑いをした。
「気を落とすな、とは言わないよ。
でもね、白石が憑かれてて、多分本人に自覚ないのは本当。
自覚した場合、拒絶して重なった角度がもっと遠いか乗っ取られてもっと近いかのどっちかだから。
白石はまだ中間。自覚なしってとこ。
だから、拒絶の方向に自覚させようってことかな」
乾がそう言っておかわりの珈琲を入れようとした時、室内の電気が一気に落ちた。
「……え?」
がたんと立ち上がった跡部達の横を通って、乾が廊下を見る。
「まずいな…。霊的干渉の度合いが酷いよ。あいつ」
その眼鏡は彼の手に握られていて、乾の瞳は素で世界を見ている。
「……どうなっている?」
「至る電気回線が干渉で一時的にダウンさせられてる。
普通に暗いだけだろうけど、みんなには。
俺には無数の手の跡が蛍光灯にずっと見えるから」
とっ、と乾が走り出したのを柳が追う。
眼鏡は、と視力の弱い幼馴染みを案じたが、そうすると咄嗟に判断出来ないよ、と矢張り他人に細かい彼らしい返事。
お前も白石のことを言えないぞ、と余程言ってやろうかと思った。
暗い廊下。
自販機が並ぶ寮の団らん室のソファの前。
天井を見上げて立つ白石を、背後から抱きすくめたまま震えた千歳の顔は彼の肩口に埋まっている。
乾達に気付いた白石が、ぼうっと向けていた視線をこちらによこした。
くす、と唇が微笑む。
それが何かと重なって、乾は眼鏡を握ったままで視線を合わせて、呼ぶ。
「白石」
干渉する力は皆無だ。自分は。
本当に見るだけの力。
でも、
瞬間火花が散った傍の蛍光灯に、頬になにかを感じて、咄嗟に押さえて小さく声が漏れた。
「…貞治!」
「……、」
とんでもない。そこまで出来るのか。
「…白石」
頬の火傷は大したものじゃないと柳に言って、向き直る。
「…千歳が泣くよ」
それでも、そう告げた瞬間、ぱちりと瞬きした白石は初めて自分にしがみつく千歳に気付いた。
「…ちとせ?」
そう呼ぶ、声は白石だ。
性質の悪い歯車が回り出す。
さあ、逃げられるのは誰だ?と声がした。
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