第四話【悪夢がその瞳を閉じるまで-3PUSH】
ここには校庭が五つもあり、三つはそれぞれの学年の授業用、残り二つはサッカー部と陸上部用だ。
とことん生徒に優しいというか広い学校である。
その一年用の校庭では走り高跳びの授業が開始されたばかりだった。
組は、一年七組と一年八組。
「…あーあ、岳人の奴上機嫌で飛んでら」
「ええやん。岳人らしゅうて」
各自自分の番を待っている間に、忍足と跡部が間の生徒を挟んで会話している。
「次! 不二!」
「あ、はい」
今のところ、バーはそれなりの高さになっている。
脱落者も出始めた。
不二が駆けて行って飛ぶ。
成功に見えたが曲げたままだった足の踵がバーに引っかかって、バーごとマットに落ちてしまった。
「はい、脱落」
「はーい」
体育の担当教師に言われて、不二はおとなしく脱落者が集まっているコートの方に行く。
「……な、手塚センセ?」
「なんだ…その呼び方は」
「ええやん。で、今の不二の。
もしかせえへんでもはよ脱落してコート行きたいからわざとのミス?」
「に決まっている。不二はもっと飛べるぞ」
そう答えた手塚は眉間に皺を寄せてコートに向かった不二を睨む。
が、テニスコートの上で、フェンス越しに不二はべーと仕返しのようにやり返して見せた。
この授業、脱落者は、隣にある部活用ではない授業用の二面しかないテニスコートで遊んでいいという事になっているのだ。
「次、甲斐!」
「はい」
「…さーて何処まで飛ぶかな」
「菊丸センセ? もう甲斐につっかかんの止めたって言ってませんでした?」
「止めとけ侑士。菊丸はしつこいんだよ」
「んな事は知っとるけど」
目の前で甲斐が飛ぶ。
ほとんどの男子が脱落している中で、彼は見事にクリアして見せた。
「…じゃ、バーを五p上げるぞ」
「…五p…たかが五pされど五pや」
此処で何故出席番号五番の甲斐が飛んだ後にバーが上げられたのかという疑問が、他クラスの生徒からは浮かぶだろうが、実は校庭に集まった順に生徒を並ばせて、組も番号順も無効にしたのだ。
そして最後に来たのが甲斐だった。
「じゃ、次、忍足!」
「ほい」
「気張ってけー侑士!」
「無茶言うなやアレ高いやん!」
「……だからもうあの高さは飛べへんって言うたんに」
案の定、もうかなりの高さまで上がっていたバーに引っかかった忍足は文句を飛ばす向日に力無く言いながらコートへと向かう。
「次、手塚!」
「はい…」
手塚も険しい顔をしている。それはそうだ。いくらテニスで全国区だろうが。
(あの高さのバーはホンマ辛いで?)
「忍足。君もやっと脱落?」
「よく言うで不二。わざと脱落した奴が」
「バレた?」
「バレバレや」
「…あ、あれ」
「…なんや、バレとらんとでも思っと」
「違う忍足。あっち」
「ん?」
振り返って忍足は唖然とした。
どうやら手塚も脱落したらしいのだが、その手塚がマットから退く前にバーが直された為、次の順番だった小春が飛んでやっぱりミスって手塚の上に落下していた。
「…センセ。なんで止めへんの?」
「いや、先生はまだ金色の事呼んでなかったよ。
金色が勝手に先走りして飛んだの」
「……阿呆かいな」
「金色だからね」
苦笑する不二。
「どういう意味?」
「だから、手塚くんにロックオン!でその胸にダイヴしたかった、とか」
「…ああ」
一方、理科室。
「……で、それでその言い訳っておかしいだろ」
「確かにな」
乾の言葉に頷いた白石が、はたと前の観月を観て慌てる。
「……ちょ、ちょお観月!」
乾もそれに気付いて、声を上げる。
「え?」
「え、じゃないよ観月。それ、手に持ってるの水素とよりにもよって混ぜるなって言われてた赤ラベルの薬品じゃないか」
「…あ」
「なにぼーっとしてたん?」
「いえ…ちょっと外に気を」
「外?」
「外って校庭?」
理科室の窓からは丁度、一年用の校庭が見える。
が、乾と白石は窓に背を向けていた為、なにが起こっているかなど気付かなかった。
「確か、この時間は七組と八組の合同体育…」
「って事は跡部くんに手塚くんに不二くんに侑士に向日くんに小春、菊丸と甲斐か」
言いながら窓の方を見て。
二人は挙動を止めた。
「………白石」
「なんや」
「あれは走り高跳びだよな?」
「それ以外の何物でもないわな」
「じゃあそのバーが一番上にあるように見えるのは俺の眼鏡の度が狂ってるからか?」
「いいや。現実」
観月はこれに気付いてぼーっとしていたのか。
と納得した乾の背後で、ドンという爆発音が起きた。
「……あ」
振り返って白石が一言。
気付けば二組の生徒全員が外の校庭を見ていたらしく、うっかり先程の観月よろしく間違えた生徒が水素と赤ラベルの奴を混ぜてしまったらしい。
「ちょ、怪我人は!?」
「い、いませんけど。すいません先生……」
「いいですけど。今度から気を付けて下さい。
何が原因かはもう俺にも判ってます」
そう言って一度冷ややかな視線で校庭を見つめた後、化学教師はしゃがみ込んで。
「待って。破片は俺が片づけますから。
触らないで下さい。水素などの薬品がかかってますから触ると危険です」
「あ、はい」
「…………迅速対処。流石先生…。
で、そのあのバー相手に残ってるのは…」
「……向日くんやな」
せやけど流石に落ちるやろ、と言った白石の視界で事実向日はバーに引っかかった。
「………」
「乾くん?」
じっと自分を見ている乾に白石が気付いて見上げた。
「……気をつけなよ」
「…?」
そうして、全員が脱落した所で一旦七組、八組の生徒を集合させて、残り時間二十分だからと教師がくじを引かせた。
結果、二面コートの内一面で、対戦する事になったのは不二と手塚だった。
「行くよ! 手塚!」
「俺は負けない!」
「…なにか既視感を感じる台詞回しやな…」
「……これでいいのか不二?」
「…ホントは手塚が『お蝶夫人』て言わなきゃダメなんだよね。ボクも手塚を『浩美』って呼ばないといけないし。…似合わないんだ」
「エースを狙えごっこかい!?」
先に言い出した自称お蝶夫人と、ノるとは思わなかったのにノって来た手塚に、もう一面コートでの試合権をくじで勝ち取った一人の忍足が突っ込む。
「…聞け、こら」
しかし二人は聞かずラリーを始めてしまう。
「そんな球じゃわたくしには勝てなくってよ浩美!」
「いいえ! 私、負けない!」
エースを狙えごっこは続いていたが、それをアテレコしているのは小春と他の生徒だ。
「……おい、忍足。お前あれ解説しろ」
「…跡部センセ、俺おたくちゃうねんよ?」
「いや、侑士は立派におたくだろ」
突っ込んだのはフェンスに背を預けて座っている向日だ。
「…そうなの?」
「うん。本屋行くと少女コミックとかアニメージュとか読んでる」
「うわ」
「こら岳人! なに不二に吹き込んどんねん!」
「悪い忍足。俺も聴いた」
「…手塚…酷いわ。俺おたくやないねん…誰か、誰か信じてやぁー!」
「じゃ別フレとかノンノとか女性自身とか本屋で立ち読みすんの止めろ侑士」
「…向日。そんなのまで読んでるのか忍足は?」
「読んでる」
「…そのどこら辺がおたくなんだ?」
「あー! 視線が! ……え?」
「…手塚も女性自身は読むよね」
「ああ」
不二の言葉に手塚が頷いた。母親が買っているから、と。
「いいから忍足さっさとサーブしやがれ」
「…跡部センセも酷いわ………でも意外に需要あんねんな女性自身」
「俺も読んでみよっかな…」
「岳人!」
「でもおたくの道は独りで行け」
「……忍足。いちいち傷ついて負けてもいねえのにコートで膝折るな」
もう周りは爆笑中である。
ちなみにエースを狙えごっこも続いていた。
跡部が忍足を放って、指を高らかに上げパチンと鳴らす。
そしてジャージを脱ごうとし。
「跡部、今日の授業は半袖だからジャージはないぞ?」
と手塚に突っ込まれて止まったがそれも一瞬。
ふっと笑って脱ぐフリをすると、ラケットを掲げて決めポーズ。
「俺だ!」
「きゃー跡部様ー!」
「ナルシー」
「何だと不二」
「いいから続けて。
浩美、行きます!」
「不二、それガンダムのアムロ。ちゅーかお前がお蝶夫人とちゃうんか」
「…跡部くんもなんだかんだで優しいわぁ」
ふ、と小春が言った。
傍の向日が、え?と聞き返す。
「ああやって馬鹿騒ぎするの、わざとやんな。
蔵リンが大変っぽくて、侑士くんが実は落ち込んでるもん」
「……そっか」
「侑士くんは本気で落ち込んでるんかもしらんけど…」
そこは誰にもわかんねえ、と向日は言って不意に、頭上で軋む音を聞いた。
「……、」
見開いた視界に映るのは、コートの上の照明。
「…っ跡部! 侑士! 逃げろ!」
反射で立ち上がった向日の声と、跡部がネットを飛び越え、忍足の腕を引っ張るのが同時だった。
「……」
乾が悲鳴を上げて校庭を見る生徒たちに構わず、白石の背後から回した手でその両目を塞いでいた。
埃の向こう、無事立ち上がった忍足と跡部を確認した観月が戻ってくる。
「…無事です」
「そう……。……」
「…乾、くん?」
一人わからない白石が呼ぶ声が何故か遠い。
痛い、と思った。
放課後、部活を終えて帰路につく柳の携帯に着信があった。
「…?」
取り出して出ると、丸井だった。
『あ、参謀。俺、今日鍵当番なんだけどよ』
「今は職員室か?」
『うん。でも誰もいねえんだけど』
「置いておけ」
『やっぱり』
電話の向こうで笑った声が不意に高く響いた。
「…おい、丸井?」
ブツ。と切れた電話。その前に聞こえた声は、間違いなく悲鳴だ。
廊下を走ってきた足が職員室の扉に手を掛ける。
“また”巻き込まれた可能性があるなら、開かない可能性もあったのだが。
扉は簡単に開いて、引き戸だったので音を立てて反対側にぶつかる。
その音に薄暗い職員室の中で反応するように動いた影があった。
そこに彼がいると確信して中に入り駆け寄る。
時刻は八時半。
並ぶ教師の机の通路の一つ。
その中央の机の傍にしゃがむ姿を見つけて、それが丸井だと判り、安堵して彼を刺激しないようゆっくりと歩み寄った柳はある事を忘れていた。
八時半。
この時刻ならば、まだ校舎にも見回りや宿直の教師がいて、職員室にも明かりが点いているはずだと。
その事を。
「丸井?」
なるべく優しい声音で呼びかける。
「…参謀…。…助かった。腰抜けてよ」
「遅くなって悪かった。どうしたんだ?」
白石か?と聞くのを迷った。決めつけたくなかった。
「なんか、廊下の向こうからひたひたという足音と一緒にさ、妙に遠く聞こえる女の声がするんだよ。そんで、音は近づくのに姿も顔も何処にも見当たらねえ。
びびって扉は閉めて鍵もかけて、音と声はどんどん近づいてきて最後には扉の前でかりかりと引っ掻き始めた。教師なら鍵持ってるしよ」
「なのに、扉を引っ掻くだけで……開けなかった?」
「ああ。
しばらくして、声や引っ掻く音が聞こえなくなって、また足音が遠ざかっていくのが聞こえたんだ。
考えたらおかしいと思ったんだ。
靴を履いているはずだろぃ? なら足音はひたひたじゃなくこつこつっていうんじゃないかって。
なのに扉の前を過ぎていく音はひたひたと…そこで気づいたんだ。
そのひたひたという音がどう考えても複数聞こえるってことに」
「……複数?」
「ああ。仮に、それが誰かだったとして、靴を落としたかして裸足で歩いていたとしても。
それなら音は二つだけのはずだろ?」
「ああ」
「それが同時に四つも五つも聞こえるんだ。それに扉の上の硝子窓にも頭が映らない。
一度扉まで行って窓から廊下を覗いてみたんだ」
「……何か、見えたか?」
「廊下の角を曲がっていく足が見えた」
「…?」
「足は見えた。
廊下に四つん這いのようになって歩いていく素足の足が」
「…………手の込んだ、悪戯……」
「足が四本あったぜ?
暗かったけどあれは本物の足だった。
あれが悪戯?」
「……四……?
おい、丸井、一つ確認していいか?」
「……?」
「扉を閉めて、その扉に鍵を掛けて此処に閉じこもったのか?」
「ああ」
「ならおかしくないか? 俺は丸井に電話で呼ばれてそれで此処まで来たんだぞ?」
「それが、どこかおかしいん?」
「丸井。自分の言った事を思い出せ。
鍵を掛けたって言っただろう。
だが俺が此処に辿り着いて職員室の扉に手を掛けたら、簡単にがらって開いたんだ」
「………、……………」
「………もしかしたら、下手をするとその四本足。
が通った時も鍵はもう開いてたかもしれないな」
「…………マジかよ」
「とりあえず、帰ろう。長居するべきじゃないな…」
寮に帰宅した二人は寮で頬にガーゼを貼った忍足と、腕にテープをした跡部に迎えられた。
寮は既に跡部と忍足に起こった事件で持ちきりだ。
繋げたくはない。
だが、白石に気付かせず繋げないことが出来るのか。
それが限りなく不可能と知った。
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