第六話【辻褄合わせの恋・前編】
「こんなことしてていいのかな」
ある日の昼休み、乾が柳と突き合わせた机に肘をたててぼやいた。
今日は民俗の授業の課題で、同じ本を使う用事のある柳と空き教室に集まった。
窓からは、明るい日差しに照らされた校庭が見える。
「自由課題だ。選んだのは自分だろう」
「そういう意味じゃないよ。わかってるくせに」
ここ数日、白石に目立った変化はない。だから逆に募る焦燥。
乾の先ほどの言葉を柳はそのまま思い出す。
“こんなことしてていいのかな”
「…だが、正直突破口がない」
遅れて返ってきた回答に、乾は眼鏡の奥で瞬いたあと、「そうだよ」と頷く。
「でも、だから、から回る」
机に乗り出し、真正面から自分を見ていた乾だったが、すぐ視線を動かした。庭を向く。
「貞治?」
「あれ、…」
彼の視線の先、校庭の大きな木の傍に立つ姿。
「白石?」
見た限り、危ない様子はない。彼はただ、木の傍で、木を見上げてぼんやりとしている。
遠くから駆け寄ってきた千歳が何事か話しかけるが、白石はそちらを向くことはない。
ただ、木を見ていた。まるで、話しているみたいに。なにと?
(あ)
屋上に先に来た向日だったが、待ち人の忍足はまだ多分来ない。
しかし、給水塔に寄りかかり座るのは、白石だ。
「白石!」
元気に呼んで、傍に駆け寄る。
「お昼だぜ! 飯は?」
髪を撫でる風に気持ちよさそうにして、白石はのんびりと瞼を降ろす。
「…眠いのか?」
瞼を押し上げはしたが、白石は反応しない。ただ、さやさやとした風にまどろんでいる。
「…昼だって! 昼! サボったのか?」
風の音の方が、雄弁だ。だって彼はこっちを向かない。見ない。
「……誰か待ってんの?」
聞いてみたけれど、多分無駄だってわかってしまった。同じ世界に、いないみたい。
白石はなにも言わない。不快でもない、のんびりとした表情で空を見ている。
「…………、」
まるでって、言い方は失礼だけど。
話してるみたいに見える。なにと?
その変化は、なにより顕著だった。
その日を境にしたように、白石は話さなくなった。
人の言葉を話さない。学校には来るし、授業も理解している。
けれど、人の言葉は話さない。
クラスメイトはいぶかっていたが、謙也たちが風邪だと言えば信じた。
漠然とした不安は、誰の胸にもある。
(まさか)
夜の寮。共有リビングのソファに座ってぼんやりしている千歳のテーブルの前に、こん、と缶が置かれた。コーヒーだ。
「…乾」
「白石は部屋だね。帰りたくない、かな」
「…。」
千歳は、反論をしたげに唇を噛んだ。でも、出来ないのは事実だとわかる。
「いいんじゃない? 普通で」
「…どぎゃん意味な?」
「うーん、好きな人がね? 自分の言葉に全く反応しなくなって、声も聞こえなくなって。病気とかなら、まだ。この言い方よくないな。
…でも、人為的?ってわかることをさ、『それでも俺はキミが好きだ。だから受け入れるよ』って言えるのは、漫画のヒーローだって話」
「……?」
意味がわからないらしい。首を傾げた千歳に、「漫画は綺麗だから」と言う。
「漫画やゲームの世界って綺麗だろ? 仲間やヒロインの恋人のヒーローは、最後にはヒロインの味方。裏切ったり、怖がったりしないで、『受け入れるよ!』。
まあ、それは俺達人間の理想だから。で、無い物ねだり。
博愛じみたことは、逆に言えない。怖いし、不安が普通。好きなら。
言えるってことは、本気で好きじゃないから…って思うよ。少なくとも俺は」
「………」
「今の状態が、しんどいんだろ?」
手に持ったコーヒーを開けることなく、千歳は小さく頷いた。
瞬間、見計らったように廊下で「やめんか!」という怒鳴り声。
「……真田か? 今の」
「どうした? なんの騒ぎだ」
近くにいた柳がその場に近づくと、真田に、宍戸に丸井がいる。
丸井と宍戸が真田に殴られた形のようだ。
説明しろ、と訴えた柳の視線に、宍戸が口を開いた。
「俺、そんなおかしなこと言ったかよ!」
「言った! それは道徳精神に反するんだよ!」
「俺はなにも白石が!って言ってねえだろ! あくまで、みたいだって」
「まんまだろ!」
また喧嘩を始めた(喧嘩が発端らしい)丸井と宍戸に、げんこつを再び降ろそうとした真田を止めて、柳は二人を自分の方に向き直らせる。
「とりあえず、説明しろ」
「……宍戸が」
「俺がさ、課題で、民俗の。その本読んでて、白石の今の状態ってこれっぽくねえか?って言ったんだ。なにもそのものって意味じゃねえぜ? ただ、もしかしたら原因じゃねえかって」
「…民俗。宍戸、どんな話だ。具体的に話せ」
「んー…『昔々、コダマヒメって女がいて、そいつは人と話さず、人の言葉を話さず、木や風と話した。ある日、村を飢饉が襲った。村人はコダマヒメの所為だと言い、刀や農具を持ち、家を取り囲んだ。だが、家には誰もいなかった。かまどには火があり、さっきまでいたように。逃げる場所がないよう四方を囲んだのに。その後飢饉は、三年続いた』って話」
まさか、と思っていたことがあった。全員がおそらく同じコトを思っていた。
だが、口に出さなかった。怖かった。
( まるで、木や風と会話してるみたいだ )
「……コダマヒメ、か」
「ちなみに、課題にそれを薦めてくれた先輩が、この近くに縁ある話だって」
辻褄を合わせたら、合う。だが、
「そういや、それの後日談。村人を促したのは、そのコダマヒメの恋人だって」
「どう思う?」
乾が部屋に戻ると、柳が既にいたから、そう聞いた。
彼はソファに座って、本を読んでいたが顔を上げてくれている。
「あれか。俺はアリだとは思う」
「俺は、辻褄合わせだと思う。し、筋が通ってるとも思う。宍戸の話は」
乾の手には、宍戸から借りていた本はない。読みたいから、と借りていたのに。
「お前はどう思う?」
「今、答えただろ」
「見えるんだろ」
くい、と眼鏡のフレームを持って、眼鏡を外してしまった柳に「そういう意味か」と乾は一言。
「でも、俺は見えるだけだよ。白石になにかが重なってるって。なにかが『なんだ』ってのはわからない」
「……」
コダマヒメの話。裏切ったのは、恋人。
「そういえば、貞治、本はどうした?」
部屋の扉を開けると、なま暖かい風が吹き込んだ。
窓が開いている。
「白石?」
さっきまで、寝台で寝ていた姿がない。
「白石?」
千歳が何度、呼んでも返事はない。姿はない。
『だが、家には誰もいなかった。かまどには火があり、さっきまでいたように。逃げる場所がないよう四方を囲んだのに。』
宍戸の話は、まさかだと思っていた。でも、僅かに信じた。
「白石!?」
大声で呼んだ刹那、背筋を走った感覚に千歳は背後を振り返る。
そこに、扉の真横に佇んでいた身体が、千歳の身体に体当たりをする。
千歳の声に気付いて、扉を開けた柳と乾が、喉奥で悲鳴を上げた。
とん、と千歳の背中が押された勢いで壁にぶつかる。その脇腹に両の手を固定し、千歳の胸元に顔を寄せる白石の身体。手に握られたのは、鋭いナイフだ。
「…―――――――――――――」
丁度、その位置にあった乾から借りた分厚い本に、ナイフは刺さっている。
「千歳っ」
乾の声に反応したわけでもないだろうに、白石はナイフを引き抜いて背後に下がると、ナイフを床に投げつけた。まるで、癇癪を起こして玩具を投げた子供のように。
その表情は千歳をきつく睨んでいる。だが、それは憎しみや殺意ではない。
やはり、子供のような顔だ。
「……」
千歳は無言で、壁から離れ、本を床に落とすと、躊躇いなく白石の身体を引き寄せ、抱きしめた。
「…ごめん」
「…………」
背中をゆっくりと辿り、髪を何度も撫でると、白石の身体から力が抜けていく。
「裏切ったりせんよ」
最後に頬を撫でて、顔を上げさせた千歳を見上げ、白石はとても嬉しそうに微笑んだ。
無邪気な、子供のそれで。
そのまま、千歳の胸元に頬を擦り寄せる。
先ほど、彼にナイフを向けたとは、思えない仕草で。
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