忘れないよ

キミと歩いた、暗闇に光る世界を










 その手紙の最後の一文は、こう終わっていた。



『…まででいい…。だから、毎日、声が…聞きたい』




「え? 今日は普通。全然、悪くない」
 携帯の向こうの声に白石は笑って手を振った。
 電波の向こうの千歳には見えないと知りつつ、毎日会っていた時のように、つい動かしてしまう癖。
 彼なら、見えるんじゃないか、なんて馬鹿な考えもあって。
「うん? でももう寝た方がええよ。時差あるから…そっち、もう朝の一時とかやないん?
 …お前、部活遅刻すんで。…わかった、それ言われると弱い。
 …なんて、俺を甘やかしとるだけやんか。お前…」
 くすくすと笑う、くすぐったい、暖かさ。
 こんなにも幸せで居られるのは、彼が我が儘を叶えてくれるから。
「…わかった。あと、もう少しだけ」



「声…聞かせて」

















声を聴かせて
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前編−【サイレン】








 自分の、“異常”を知ったのは、五年前。
 小学校四年の時、偶然受けた、些細な検査。

 でも、怖くなかった。
 全然、本当に。

 お前に、会うまでは―――――――――――――。





 がしゃん、と割れたビーカーの音に理科室が静まり返った。
 渦中にいた白石は一瞬、その沈黙がわからなかった。
「白石!」
 謙也の青い顔。その声に、ようやく、割れた破片が自分の手を切っていて、血が溢れていると気付く。
 そして、思い知った。
 ああ、来た。


 合図だ。


 サイレンが、鳴った―――――――――――――。





 五年前、俺が宣告されたのは、所謂未知の病だった。
 まだ、世界で症例の少ない、治療方法すらない。

 仮名を“ZERO”と呼ばれていた、病だ。

 このゼロ、は何を指すか、最初に聴かされた。

 助かった、患者の数。

 助かった患者は、未だ、ゼロ。

 そういう、病。

 助からない、未知のウイルスの病。
 そして、日本人初の感染者が、俺だった。
 偶然、日本にいた外国の医師が、俺の血液を調べていた医師に、なんの細胞か不明なものを見てもらって、気付いたらしい。
 至って、シンプルな病だ。
 病による、症状は一切なし。それも“ZERO”の由来。
 感染から、何年がリミットかは不明。
 ただ、必ずある合図がある。
 ある日、必ず訪れるサインの名は、“無痛症”という唯一の症状。
 痛みを感じない、後天性の症状が出たら、余命が一年を切ったサイレン。
 そして、俺は、あの時、痛みなど、感じなかった。


 ああ、と思った。


 サイレンが鳴る音が、したんだ、と。





「蔵ノ介」
 サイレンが鳴ってから、すぐかかっていた病院に行った帰り、部屋に戻る白石を、母が引き留めた。
「なに?」
「…あの、…学校、行くの?」
「…当たり前やんか」
「…やって」
「…、…俺は、ちゃんと高校まで行く。
 一年しか通えなくても、行く」
「…そう、やね」
 母の声に、申し訳ないと思ったが、それ以上はいえない。
 心の中は、ぐちゃぐちゃだ。
 正直、余命がわからないから、始めたテニス。
 でも、いつだって、いつサイレンが鳴ってもいいと覚悟していた。
 いつ途切れても、いいと。思った。
 なのに、迷う理由は、分かり切っていた。




「白石!」
 廊下で呼び止められて、振り返る。
「謙也、千歳、どないしたん?」
「いや、一緒に職員室行かへん?」
「…また補習?」
「…う、」
「まさか千歳もやないよな?」
「いや、俺は…」
「呼び出しか…」
「すまん」
 すまなそうな千歳を叩いて、わかったと頷いた。

 職員室の前で、不意に聞こえる声に、耳を傾けた。
 この声。
「あれ、あれ、白石の…」

 おとんとおかん?という謙也の声。
 なんで、と、思った。




「いや、しかし…白石くんはとても」
「いえ、家庭のやむを得ない事情で…」
「ですので、勝手ながら、蔵ノ介を今日で、退学させてください」
「いや、それには、理由を」
 困り果てた学年主任の前、頭を下げる父の前に影が差した。
「あ、白石く…」
 主任の声が途切れた。
 白石が、遠慮なく自分の父親を突き飛ばしたからだ。
 優等生の評判しかない白石の行動に、誰もついていけない。
 謙也と、千歳すら。
 その、歪んだ顔の理由も。
「なに、してん…」
「…蔵…」
「なにしてん」
「……すまない、だが、…やはり、お前は学校に居続けるべきではない。
 みんなにも…」
「そ、そう…。みんな、余計悲しいやんか。それなら、お母さんたちと一緒に」
 母親の声がまたも途切れた。
 白石の足が相当遠慮なく、倒れたままの父親の腹を蹴ったからだ。
 職員室が騒然となる。
 あまりに、白石蔵ノ介らしからぬ行動に。
 白石は気にせず、父親の胸ぐらを掴んで、憤りのままに告げる。
「それは、“あんたら”の都合やろ」
「く」
「…あんたらが、可愛い息子の時間、一緒にいたいだけやろ。
 息子が、最後どこおりたいか無視した都合やろ!」
「…蔵ノ介」
「俺んこと可哀相とか思ってんちゃう…。
 ただ、自分らが残り少ない命の息子可愛がりたいだけやんか!
 そんなん迷惑や!」
 叫んだ声を、理解出来る人間が、いるはずがない。
「…白石?」
 千歳が茫然と、呼ぶ。その声すら聞こえていない。
「俺は、高校まで行く。そう言うた。
 周りが悲しもうが知ったことか。
 …余命一年切った? それがなんやねん…。
 余計一年の命なら、好きにさせろや阿呆!!」
 有りっ丈で叫んで胸ぐらを離すと職員室の扉に向かって駆け出す。
 うるさい。
 五月蠅い。
「白石!」
 声に呼ばれて、我に返る。
「…ち…と」
 忘れてた。
 彼が、いたこと。
「…今の、どげん…意味」
 掠れた声に、答える余裕が、あるはずがない。
 千歳を突き飛ばして逃げた白石を、よろけた体勢を直した千歳が追った。





 落ち着いた母親が、言葉少なに白石の病気を語った内容を、謙也は電話で千歳に伝えた。
「白石」
 屋上の隅。所在なく座っている細い背中。
 泣きたいのに、泣けない顔で、彼がいる。
「白石…」
「…なんや」
「……怖く、なかの?」
 それは、痛さすら堪える彼が、痛くて、言ってしまった言葉だった。
 今、怖がっているのは、自分の方かもしれない、と。
「怖くない」
 言い切った白石が、立ち上がって千歳の眼前まで来る。
「…って、言わせたいんか? お前…」
 低く繋いだ声を認識した瞬間、千歳は壁に押しつけられていた。
「………どうせ、お前も一緒やろ。
 最後まで一緒におりたいとか…そんな」
「…白石の、傍におりたい思って、なにが悪かの」
「……なんで、取り乱してへんねん。俺、お前の恋人ちがったん?」
「いや違わなか。…だけん、…俺が取り乱すんは、…白石が泣き終わってからやなか、いかん」
「…っ」
 シャツが強く引っ張られて、息苦しさに眉を顰めた。
「…なんで…泣かなあかんねん」
「…白石?」
「余命一年とかの、たかがそんなことで…。
 もっと酷いやつなんか、どこにでもおる。
 一年あれば充分や。
 高校には、少なくとも一年通える」
「……白石、」
「…その、目やめろや…。なんで、悲しむんが当然な目で見られなあかんの…。
 余命知ったからって笑っとるヤツやっているやろ!」
「やけん、白石はそうじゃなか」
 断言されて、呼吸すら止まった。
 すぐ、胸を覆ったのは、彼にぶつけるにはあまりに理不尽な感情だ。
 だけど、今、堪えられる筈がなかった。

「お前の所為や!!!」

 叫んだ声は、すぐ傍まで近づいてきていた扉の前の謙也にすら聞こえた。
「俺は、いつ死んでもよかった。ほんまや。
 好きなテニス出来る。死ぬ以外、自由なんやから。なんも悪いとこない。
 むしろ幸福やって。いつやって死ぬ覚悟出来てた。
 なんに…お前なんか、」
「…」
「お前…なんで、…九州の人間なんや」
 零れた声に、千歳は一瞬理解が追いつかなかった。
「最初から、四天宝寺の生徒やなかったん…?
 なんで、もっと早く怪我せんかったんや。もっと早く、目ぇ見えんようならなかったん。
 なんで、今年になってから来るんや…!」
「……」
 言いたいことを、理解した。
 けれど、まだ抱きしめなかった。
 まだ、彼の言いたい言葉が出ていない。
「お前の所為や!
 お前さえいなかったら、悲しくなんかなかった!
 いつ死んでもほんまに…!

 …なんで。なんで、………たった一年前に。
 ……なんで、もっと一緒に、あと、…最初からおったら、…四年か、三年は。
 お前の傍おれて…お前に抱いてもらって…名前、呼んでもらって。
 やのになんで一年前なん…。
 なんでそんなヤツ好きになってしもたんや!!」
「……白石」
「あと一年しか傍おれん…。呼んでもらえへん…。
 お前の所為や…。
 お前さえいなかったら、俺は一生泣かずに済んだ!

 お前さえおらなよかったんや…どうしてくれんねん…!

 償えや…。お前も死んで償え!!!」
「……それは、出来なか」
 そっと、髪を撫でた手が、震えながら撫でてくれる。
「……そげんこつは、白石が、泣くたい」
「…………」
 茫然と千歳を見つめたのは一瞬、すぐ涙が溢れて、嗚咽に変わる。
 今度こそ抱きしめた千歳の腕の中で、悲鳴のように泣き出した白石を呼んで、見えないよう俯く顔は、歪んでいる。
 信じられる筈がない、と。
「お前の所為や…なんで……なんで…死にたくない…。
 ずっと、死にたくないなんて思わなかったんに…。
 お前の所為や!
 …千歳……俺」

 死にたない。

 そう叫んだきり、声は通じなくなった。
 ただ、泣き続ける身体を抱きしめて、心で呻ることしか出来なかった。

(畜生、畜生、畜生…なんで、彼なんだ)

 なんで―――――――――――――。





 たった一年の、残されたリミット。
 それを知ったのは、丁度十二月の、終業式前日。
 それは、彼の命が、来年の十二月に潰えることを、指した。




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