『千歳…』 電話の向こうで響く声が、切る時間になって不意に呼んだ。 こっちの時間は、もう朝の三時。 それでもいつも、千歳は切る時間を先延ばしにしていた。 「ん?」 『…大好き』 「…俺も、好いとうよ」 『うん、…千歳』 柔らかく、微笑む声。 けれど、それで通話はふつりと切れた。 何度かけ直しても、繋がらなかった。 そのまま、電話が途切れて、季節はあっとういう間に、一年が経ってしまった。 白石が、助かる可能性に賭けていなくなったと知った後、みんなの反応は様々だった。 「どうしてんやろな…」 不意に、小石川は石田に向かって言っていたし、石田は信じて待つと決めているのか、小さく、微笑むだけだった。 謙也は、最初こそ信じると笑ったが、最近はよく、泣く姿を見る。 財前は、白石がいなくなって始めて泣いた。 彼は、いなくなるその時まで、本当は信じられなかったのだ。 白石が、来年にはもういないなんてことが。 だから、いなくなって始めて、泣いた。 ずっと、泣いていた。 小春とユウジがそのころから、なにやらビデオを撮り始めていたのを知っている。 部活の様子を録画して、白石のところに送るのだと。 小春は逆に辛いかもしれないと迷ったらしいが、ユウジは絶対帰ってくるから、これ見て嬉しくない筈ない!と小春を説き伏せた。 そのビデオを送ることが、『帰ってこい』というメッセージなんや、と言っていた。 金太郎は、泣かなかった。 逆に、過ぎていく歳月に、ダメだったんじゃないかと泣くみんなの前で、信じてる、と泣かずにいた。 それが、千歳には励ましであり、辛くもあった。 一年があっさり過ぎて、あっさり着信履歴から追いやられてしまった白石の名前。 高校二年の春が来て、俺はどこかで、思っていた。 助からなかったんだ。 だから、帰って来ないんだ。 そう。 けれど、やっぱり認められる筈がなかった。 だから、信じていた。 助からなかった、と絶望する一方で、強く、信じ続けた。 笑う教室の中で、謙也がこれか、と辞書を渡してきた。 「ああ、すまんね」 「…いや」 ほな、チャイム鳴るし行く、と言いかけた千歳の耳に、同級生の声が響いた。 「そういや白石どうしたん?」 「……」 謙也が声を失う。 「もう一年やろ。やっぱ助からなかったんやん。 向こうでとっくに、墓んなかちゃうん?」 「…っ!」 殴りかかりかけた謙也を引っ張って、退かすと千歳はその生徒の首を掴み上げた。 長身の千歳に掴み上げられれば、自然身体は宙に浮かぶ。 恐怖に色を変えた生徒を、そのまま廊下に投げ飛ばした。 殴る手が、もったいない。 「……なんや! お前らやって、ほんまはそう思ってんちゃうか!」 「…でも、信じるって決めとう。 白石は、絶対生きて帰ってくる!」 「…っ」 立ち上がって怯んだ生徒の身体が、突然傾いた。 横から伸びた足が、その足を引っかけて転ばせたのだ。 「…?」 謙也がいぶかしむ。 足の主は、扉が邪魔で見えない。 痛いと呻いた生徒が、恨み言をぶつけようと振り返って、声を失った。 震える指で、その足の主を指さす。 「…し…し…っ…し!」 「…し?」 更にいぶかしんで扉に謙也が近づく前に、生徒が叫ぶ。 「白石…っ!!?」 その声が、一瞬、遠く聞こえた。 いや、酷く、近く聞こえたけれど。 信じられないと、信じて、また突き落とされたくないという防衛だったのかもしれない。 すると、次に響いたのは、よく聞き慣れていたけれど、今とても懐かしい、柔らかいテノール。 「…なんや、そのお化け扱い。足ちゃんとあんで?」 「…し、白石!? ほんまの!?」 「ほんまやよ? ちゅーかひどいなー。勝手に殺すな?」 ひょいと屈んだ所為で、ようやくその姿が見える。 白金の髪に、翡翠の瞳も、なにもかも、変わっていない。 「で? 誰が“墓ん中”?」 「いえ! すいませんでした!!!」 「わかったんならよし」 生徒に言い聞かせて、白石は振り返ると、千歳と謙也を見つけて、まるで昨日別れたみたいに微笑んだ。 「……」 「ただいま」 隣から飛び出した身体が、その細い身体を抱きしめて、泣き出した。 夢じゃなか?と繰り返す巨躯を、抱きしめて白石は微笑む。 「…うん。…ただいま、千歳。 夢やない。 …俺、ちゃんと、…帰ってきたよ」 「…っ……!」 「…千歳……、もっと、…声、聴かせてや…」 「…白石…っ」 「愛しとう」という声は謙也と白石にしか聞こえなかった。 ただ、抱きしめて離さない巨躯をそっと撫でて、白石は謙也に向かって笑った。 「まあ、投薬で助かったんはええんやけど、ワクチンが身体の副作用を引いてしもてな。 一年間起きあがれなくてな、その状態で帰れへんし、電話持つんも無理で」 石田と小春、ユウジ、小石川を集めた屋上で、白石はそう説明した。 ユウジと小石川はずっと泣きっぱなしだ。 あの後、石田たちの教室を強襲した白石に、みんな驚いていた。 当たり前だが。 「なら、なんで医師に頼んで連絡頼まなかったんや!!」 「いや、…考えたけど」 謙也の言葉に、白石は気まずそうに。 「…そしたら、お前ら絶対来るし、…かっこわるい」 「白石ー!!」 ヘッドロックをかけに白石の背後に回った謙也から逃げながら、白石は、まあそういうわけやねん、と。 「今の俺の余命はわからんけど、…それが普通やな。 でも、少なくとも、あと確実に六十年はあるで、余命」 「ちゃんと、遠山でも部長やれてんねんなぁ」 「おお、財前!」 四天宝寺中。やってきた財前に、金太郎は呼んだ後、首を傾げた。 「お前、学校は?」 「さぼった」 「いかんなぁー」 「お前に言えた話か」 すっかり身長の伸びた金太郎に追い越されて財前は面白くない。 「なんとなく、おりたなかったん。 …まだ、あの人、…わからんし」 「…そっか」 なにもかもわかったように後輩が笑うので、むかついて殴ってやろうと立ち上がった時、背後で首根っこを掴まれた。 「なにすっ…!」 振り返った財前の頭に、チョップが落とされた。 「あかん、財前。金ちゃんいじめたらあかんよ」 その声、聞き慣れていた、あの。 その姿すら。 金太郎が、今でも大きな目を、目一杯見開いて固まった。 遠くで、渡邊が新聞を落とした。 「金ちゃん、財前、…ただいま」 「…っ…部長!!!」 「白石!!」 二人揃って抱きつかれて、白石は苦笑しながら抱き留める。 「てか、金ちゃん大きくなったなぁ…」 「白石やー! 生きてる白石がおるー!」 「…マジ、…部長や」 「こら泣くな。…てか、今の部長は金ちゃん!」 言っていると、頭をぽんと、撫でられた。 「…遅いわ。…こん阿呆」 「…ただいま、センセ」 「…うん、…お帰り、白石…」 そう頭を撫でた濁声が、すぐ涙ににじんだ。 こんなにも、愛されていたのに。 何故、千歳がいなければいつ死んでもいいなんて、言っていたんだろう。 こんなにも、愛したい人たちが、一杯いたのに。 有り難う。 君たちがいたから、賭けることが出来た。 恐怖に、向かうことが出来た。 帰って来れた。 君たちが待っていてくれると信じていたから。 だから、帰って来たから。 また、ずっと、許す限り、一緒にいさせて欲しい。 もう、サイレンは、二度と鳴らない。 再び、感じるようになった痛みは、そう教える。 意識が戻ると、眼前に千歳の顔があった。 あのまま、千歳の家に泊まった。 「…トイレ」 呟いて、腰を抱く腕の中から抜け出そうとするが、無理だった。 「…なんちゅー馬鹿力で抱きしめてんねん」 「…ばってん、離したら、また白石、俺になんも言わずおらんくなるたい」 「…起きてたん?」 「…当たり前と。白石がちゃんと、ずっと傍おるって、わかるまで、俺は離さん」 「……それって、いつになったらわかるん?」 両頬を包んで、キス出来る距離で問うと、そのまま引き寄せられて深いキス。 「…一生かからんと、わからんたい」 「……こん、馬鹿」 まるでプロポーズやんか、と笑う。 「その通りたい。…ずっと、一緒にいてくれんね?」 「………ほな、…ずっと……、抱きしめててや」 ぎゅ、ときつく抱かれる身体に、痛いほど幸福になれた。 「そんで、ずっと、…好きやって…言って…。 何度でも、…一緒に、…死ぬまでずっと」 「声を、聴かせて」 →後書き |