五月のGWが過ぎれば世間はどこも中間試験。
苦手科目があるわけのない白石はともかく、得意科目以外は危ないことこの上ないのが謙也と千歳だ。
今日は白石の家にお邪魔して勉強を教わることになった。
「謙也。いらっしゃい」
呼び鈴を押すと白石が出迎えた。
今日は家なのだから、オンナノコの格好してくれても、といつもの普段着の白石をちょっと恨めしく思った。
中に入り、家族に挨拶してから階段を上る。
しかし文句も言っていられない。GWに白石の家で一日中一緒。
これはおいしい。
…千歳がいなければ。
「…千歳は?」
「あいつはまだ」
部屋に通されて四つ足のテーブルの前に座ってから聞くと、白石は事も無げに答えた。
(部屋に二人きり…)
おおかた寝坊したんちゃうん、と笑う白石に内心それはないやろう、と思った。
まず、あり得ない。
すると扉がノックされたので舌打ちでもしてやろうかと振り返ると、扉を開けたのはお姉さんの櫻だった。
「蔵、これからちょっと咲蘭と買い物行ってくるわ」
「あ、はい」
じゃ、謙也くんごゆっくり。と言って去っていく姉を見送るように扉も閉まった。
あれ? ちょっと待て?
「…白石。家族、今おるんお姉さんと…」
「咲蘭だけや。…あ、てことは今俺達だけか」
とか暢気に言わないでください。
ホンマにこいつ女の自覚ない。あるいは男への警戒心不足。
そこまで思って、ふと脳裏を過ぎった。
先日の話だ。
白石は女子に告白されていた。偶然見た。
好きな人おるん?と聞かれて白石は一言。
いない、と。
正直、あれはない、と思う。
千歳だっている、と答えたのに。
俺だってそう答える。
なのに、なんで。
俺か千歳かわからなくても、いる、と答えるには充分やないか。
「謙也?」
黙り込んだ謙也をいぶかしがった白石が顔を覗き込んだ。
「…っえ?」
その瞬間、視界が入れ替わっていて、白石の視界には思い詰めた顔の謙也と天井。
(押し倒された…?)
とぼんやり思った頃には、両手首を恐ろしい力で押さえつけられていて。
少し力を入れて解いて、冗談やろと笑ってやるつもりだったのに、手首はいくら力を入れても動かない。
(…嘘、やろ…)
中学卒業まで、千歳はともかく謙也には力では負けてなかったのに。
男の成長は中学、高校が特に大きいとは言うけど、まさかたった数ヶ月で。
「…謙也…待って…」
「…イヤや。…白石」
「…っ、…や」
近づく顔に、思わず顔を背けて目を閉じる。
(―――――――――――――…)
しかし、いつまで経ってもなにも触れない。
おそるおそる瞳を開けると、憮然とした謙也の顔と、その頭をぐいぐいと蹴る大きな足。
「…千歳」
見上げると千歳がいつの間にか来ていて足で謙也の頭を蹴っていた。
「なにしとうね? 謙也」
「……見た通りや…。すいませんでした」
テキストを出しながら事情を謙也から引っ張り出した千歳は、納得してくれるどころか大仰に呆れた。
「謙也。アホアホって思っとったばい。ほんにアホばい」
「…なんやと!?」
「白石なんてほんにモテようもん? 男にも女にも。
俺達とは規模が違かよ。
ほら、例えるなら氷帝の謙也の従兄弟と跡部」
あれくらい違うんじゃなかね。
そう言われると確かにそんな気はする。
侑士が好きな子がいると断っても噂になる程度だろうが、跡部が言った日には学級崩壊…いや学校崩壊くらい起こりかねない。
「それに、俺達が学校でどう扱われとうか知っとうだろ」
「…?」
「『忍足と千歳はゲイで、惚れてるのは白石』」
「…あー」
「それなんに、白石まで『好きな人がおる』なんて言うた日にはどげんこつなるね?」
「……」
なるほど。それは確かに。
「……すいません。思慮が足りませんでした」
「わかればよか。
これが謙也だったから蹴るくらいで堪えたばい。
他が相手だったら即デストロイ」
ばい、と言う千歳の判断基準は矢張り、謙也のことをなんだかんだで認めていて、惚れた女を本気で傷付けたりしないと理解してくれているからだ。
「……まあソレは兎も角。今の『デストロイ』て誰に教わった」
「明治」
「…そこそこ仲ええよな」
そこに千歳の分の珈琲を煎れて来た白石が戻ってきた。
テーブルにカップを置いた手に、見慣れない(謙也すら)湿布があってぱし、と手首を掴んでしまったのは二人同時だった。
白石が一瞬、なんとも言い難い顔をする。
「これなんね」
「……さっき、…お湯間違えて」
「すぐ冷やした?」
「うん」
「ならええけど…。跡残ったら大変や」
「ほんなこつ」
「…手、離して?」
言われて、悪いと謙也がぱっと離したが千歳は握ったまま、ひょいと白石の顔を覗き込む。
「…ちとせ?」
「ずっと悩んどう顔しとうよ。…なんね?」
「……なんも」
「…嘘。なんかあったい。…オンナノコは不便たいね。
力込められん」
「……」
白石が一瞬、痛そうに目を伏せる。
「俺がオンナノコやなかったら、好きでも力込めるんか」
「怒った時はな。それはほんに好きでもしょんなかよ。
ばってん、オンナノコやって意識はそれより早く働くけん。
…と思っとう」
「…?」
「実際、白石をオンナノコって知ってから白石を本気で怒ったこつがなかし。
実際は怒ったら構わず力込めるかもしれん」
戸惑うように言葉を発さない白石の手を離すと、千歳はその髪を撫でた。
「なんかあったろ? 多分、謙也に押し倒されたこつで」
「…え、俺…?」
ひどいことはしとらん…と言いながら迫力がないのは謙也自身自信がないからだ。
「…俺は、千歳に敵わんのはもう理解しとるんや。
男でも敵わんやろうし。
せやけど、中学まで謙也には力では勝っとった。
…さっき、謙也の押さえる手をふりほどけないことに気付いて…。
あ、なんやろって。なんでたった数ヶ月でこんな差…って。
…やっぱ、俺、オンナノコなんやって……知ってたけど、ショックや」
バラさなければずっと並んでいけると思っていた。
そうじゃない。多分。
バレなくても、いつか知られていた。
そういう、劣る力。そういう、敵わない力の差が出来る。
理解していたのに、目の当たりにしてショックだ。
「…ごめん」
「謙也が謝ることやない。力の差ばっかりは、誰の所為でもないし」
「せやけど、俺があんなことしとらんかったら気付かず済…」
「いや、よかったんじゃなかね?」
千歳がさらっと肘をついて言った。
「千歳!?」
驚いてなにを言うと見る謙也に軽く笑ってみせる。
「言ったばい? 白石は警戒心不足。オンナノコの自覚足りなか、て。
一回は自覚した方がよかよ。白石より細い男が相手でも実際、もう多分勝てなかよ。
そぎゃん自覚ないままこれから生きるんは危なか」
そうやけど、と言葉を探す謙也と千歳から視線を逸らした。
損なわない。損なわれない。と千歳は言った。
男として生きた自分も。
けれど、今の千歳に、要らない、と言われた気がした。
男の白石蔵ノ介はもう要らない。
そう―――――――――――――。
「だけん、ちゃんとオンナノコとして出来んこつは出来ん。
勝てんもんは勝てん、って理解した上で出来る限り『白石蔵ノ介』でおって欲しかもん。
無理するより俺達が不足部分フォローした方が、白石はずっと『白石蔵ノ介』らしくおれっとだろ?」
ちゃんと理解れば落ち込むこともなくなるし。
そう微笑む千歳が、視線に気付いて白石の瞳を見て、なん?と独特の甘い声で言う。
「『白石蔵ノ介』…て、俺?」
「他に誰がおっとね?」
「…男の俺?」
「全部。男の『白石蔵ノ介』も部長の『白石蔵ノ介』も、オンナノコの『白石蔵ノ介』も。全部。どれか欠けたら、それ白石じゃなかよ」
男の『白石蔵ノ介』も。
なんや。要るんや。
男の俺も、ちゃんと。
「…しらいし?」
ズボンを握った白い手に涙が落ちる。
笑んだ顔のまま泣き出した白石の髪を驚いた顔をしたまま千歳が撫でてくれる。
「……痛いか?」
心配して聞いた謙也に、首を左右に振る。
違う。
嬉しいだけだ。
もう、本当にダメだ。
嬉しくて、それだけで泣いて。
箍なんか、外れてる。
『白石、女の子扱いされんの、嫌じゃなかろ?』
それは、気付いてはいけなかったのかもしれない。
ほんの微かな違い。
ほんの微かの差。
それでも、天秤を揺らすには充分。
少し、傾く天秤が落ちるのは―――――――――――――。
あの日、自分を女の子にしてくれた人。
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