六月中旬。この学校は梅雨明けに体育祭が行われる。
観客は卒業生や中等部の生徒、近所の中学校、高校の生徒に父兄。
晴れた空の下、体育祭――――――――――開始である。
『一位、一年七組! 二位…』
ようやった忍足!と200メートル走から帰ってきた謙也を周囲が褒め称える。
一緒に騒ぎながら、白石ははた、と千歳の視線に気付いてぱっと背けた。
あれから、千歳の顔が見れない。
たかが一週間。不自然じゃないかもしれないが、千歳はことさら勘がいい。
ついでに細かい。
「白石―――――――――――――」
「白石、ちょっと姉貴んとこに茶々いれに行くんやけど来ん?」
割って入った小石川がわざとかは知らないが、邪魔された千歳があげた手の行き場をなくす。
「いや、俺はええ」
「そか」
そうか次は持久走か、と思って白石は振り返ると千歳の肩を叩いた。
「頼むで」
「……」
なにか言いたげな千歳の顔に、気付かないふりをした。
普通に、話せば大丈夫だ。
…大丈夫。
「あのさ…あたし、嫌な噂聞いたんやけど、」
女子800メートル走、男子1500メートル走の競技前、その種目に出る女子が同じく出場するため並んでいた小石川の姉、チヒロに話しかけるではなく、その場の女子全員に聞こえるようにぽつりと言った。
「…なにが?」
他の女子が問いかける。
「この競技…、女子のコースが例年通りじゃなくて、今回…西校舎の側の大池の周りをぐるっと一周って…」
青い顔で言ったその言葉に、チヒロが顔を引きつらせて。
「…西校舎の側の大池といえば…」
「…冬以外の季節には必ずアマガエルが大繁殖している池やな」
出場選手でもないのに、チヒロの様子を見に来た弟・小石川健二郎が、チヒロの背後からぼそりと言った。
「…そうそう、それで、西校舎に行く生徒は必ず、大幅に迂回して行くって評判の…ってうわ! いたんか健二郎!?」
「いたって。失礼やな姉ちゃん」
「…あたし、アマガエルより健二郎に驚いたわ」
「…俺は春になると考えなしに道路に這い出てそこらじゅうを死体で埋め尽くす両生類以上なん?」
「…確かに冬眠明けのアマガエルは都会じゃ道路に這い出て必ず車に轢かれてるけど」
身も蓋もない。
他の女子が、まさかねーと笑う。
「そんなわけないやん、噂うわさ」
「や、やんなー」
言い出しっぺの女子も、そんなはずないかと笑ったその矢先。
“これより、女子800メートル走、男子1500メートル走を行います。
出場選手は、男子は二年校舎前。女子は西屋外コート前に集合してください”
アナウンスが響いた。その場が凍る。
笑いも、凍る。
「……なあ」
ぽつりと、一人が言った。
「西校舎側の大池って…一周すると、約650メートルあるやんな?」
チヒロだ。
「…なんでそんなこと知ってん?」
「小春くんが、この間計ったんだって」
「小春のやつ、物好きな」
「それで、西の屋外コートって……大池までの距離が、丁度150メートルくらいじゃなかったかな……………………」
チヒロの青い顔で呟かれた言葉に、女子は全員、黙り込んだ。
遠くで女子の、我に返った悲鳴が聞こえる。
イヤー冗談やないー! 走れるかー! ウチ棄権するー!
「……おー騒ぎやな」
1の7の応援席で遠い目をしながら白石が言った。
白石は前に静飼から聞いていたのでたやすく予想がつく。
「まあ…男子はそれどころやないんやけどな」
「…男子はヘビ多発地域の裏庭を直線通過、やったっけ」
1の7の男子1500メートル走者の千歳が応援用の上着を脱ぎ捨ててぼやくように言う。
「そう。まあ、…昔からヘビは出たらしいけど、噛まれた生徒は職員含むで誰一人おらへんって話やから、安心材料として選ばれたコースやろけど」
「……確か、昔元々生徒が学校で飼っていたヘビが野生化したものやって聞いたで。
人に飼われていたから、人を襲うことはしないって」
謙也がジュースを片手にしながら、聞きかじった情報を提供する。
「まあ、噛まれないんならよかよ…じゃ、俺は行くったい。……、もう一人の走者は?」
基本、走者は一組で二人だ。
「ああ、もう一人は確か」
「明治や」
これまた謙也が言う。
「…明治、なんていたか? うちのクラス」
しばらく出番がない生徒があれ?という顔をした。
「おったおった。ほら俺と千歳の周囲で年中騒いどるヤツの一人」
「その明治は?」
「あいつなら今放送係。交代しとるとこやないん?」
「…それならよか。じゃ、行って来る」
「一位取れよ!」
白石の激励(?)に見送られ、走って校舎の方に向かう千歳の姿が見えなくなってから隣クラスの並びになる二年六組の席から、テニス部の里山が思い出したように。
「そういや、ヘビの出る道を通る時の注意事項を聞いたことがあったわ。
ヘビは一人目で目を覚まし、二人目で襲いかかる準備をして三人目に襲いかかるって聞いたけど…ホンマかな?」
その、謀ったとしか言いようのないタイミングの台詞爆弾に、1の7のメンバーは口をつぐむと、無言で校舎の方に親指を立てた。
流石に男子は悲鳴をあげる生徒はそうそういない。
しかし、足早に急ぐものは当然多く、裏庭を抜ける頃にはほとんどが息切れでぜえぜえと後退していった。
「ち、千歳、早っ…」
「そら毎日やっとうもん」
「…俺は、バスケ部やっ!」
「…練習運動量が違うんじゃなかね?」
「失礼なー!」
叫びながらもそれが呼吸に詰まったのか、げほげほとせき込んでバスケ部の明治は後ろに見えなくなった。校庭のコースに出た千歳を見つけた声がマイクで叫ぶ。
『さあ、一番走者が見えて来ましたー! あれは千歳!
テニス部一年千歳千里!』
「…こん声はユウジたい…」
この種目、放送係やったとか。と笑って呟く千歳の目の前に指令ゾーンが見える。
白石から聞いた話、持久走は持久走コースを抜けた、疲れの出た頃に通るゾーンに生徒会からの指令が置かれたゾーンがあると聞いた。
「…ん? むしろ今ん…」
ゾーンとなったエリア、二重白線の中に足を踏み入れてから千歳は放送装置のあるテントに向かって。
「ユウジー! 今、クラス別種目やけん、組の誰って言わんと伝わらんとよー?
テニス部、じゃ他んクラスのヒト何組が一番かわからんたいー!」
『意外と余裕やな千歳…。っでえ! …失礼。一年七組の千歳です』
周囲から爆笑が起こった。多分小春に叩かれたんだろう。
指令係の生徒がパネルをひょいと起こす。
そこには、
【全校生徒の中から一人誰でも選んで姫だっこで持ち上げてそのままゴールまで走れ】
『おー! 幸運にも指定なし指令や! 普通ここに『校長先生』とか『相撲部の先輩』とかあるんやけど今回は運に恵まれた! しかもあるいみ最強の巨人が走者!
まさに七組のMr.BLACK JACK!』
「…好き勝手言いよるばい」
指定があった方がこれは有り難い。下手に指定がないと女子を選べば過分に期待されるし、男子を選んでも理由を延々聞かれる。そういう意味で嫌な指定である。
さっと、生徒席の七組では水原と謙也の背後に白石がしゃがんで隠れた。
「…来る。絶対来る…!」
「…否定は出来へんなー…」
謙也が遠い目で言った。
「…ま、よかね」
さらっと決めると千歳はひょい、と唐突にコースと生徒席を仕切るロープを飛び越えた。
『お! そちらにいたか! というかもう決めたんか!』
見える視界に彼女はいない。まあ、隠れたんだろう。
すたすたと歩く視界が不意に遮られた。
「…なんね謙也? 自分の組が負けてよかの?」
立ちはだかった謙也を見下ろして言うとふんと笑った顔がちゃう、と自信満々に胸を張った。
「俺を運べ!!」
どん、と己を親指でさして声を張り上げた謙也に、千歳も流石に背後に星を飛ばした。
「…は?」
『おーっと! 一年七組忍足謙也! 立候補やー!』
「…な、なん?」
「俺を運べ」
「…嫌たい」
「つれへんなぁ…。同じ布団で寝た中やのに」
「あれはお前が俺ん家泊まって寝ぼけて入っただけじゃなかね!」
「誤魔化すなや。好きやで千歳」
男前告白に千歳がドン引きする一方、周囲の女子は悲鳴を上げる。
『おー! プロポーズや! 千歳どうする!』
「すまん。…生憎俺は九州男児やけん、大坂のツッコミは出来んばい!」
真顔で持ち直して千歳にそう答えられ、謙也があ、いや、と勢いを途端なくす。
その隙に隣を通り過ぎた千歳が少し先で足を止めた。
『おっと千歳選手! ツッコミ拒否! 忍足謙也フられました!』
「…いや、ツッコミは期待してへん」
ぽつりと謙也が呟いた背後で、傍に立った千歳の大きさに水原がびびって後ずさる。
そこに座り込んだ男装の少女に笑いかけると、ひくっ、と顔が引きつった。
「…っうわぁ!」
あがった悲鳴に謙也が我に返った時には遅く、軽々持ち上げられた白石を手に、千歳はコースに戻っていた。
「おろせ! おろせって!」
「白石くらい軽かよ?」
「オンナノコやあるまいし誰が体重を気にするかー!」
普段の態度をかなぐり捨てた白石の声は生徒席に相当に響いてあちこちで笑いが起きる。
『千歳! やはりハニーを選んだー!』
誰がや!と叫ぶ白石に、胸中で『オンナノコやろ』と思ったがこの場では禁句だ。
「ユウジ! 後で罰走や!」
『今は白石は部長やありませんー!』
「ユウジの癖に生意気な…!」
「…抱えられた上笑われとうに迫力なかよ。もう黙るったい」
「誰の所為や…」
「俺と指令の所為」
「…はずい。はずい。…ものっそう恥ずかしいて死ねる…」
既に周囲をまともに見るのも耐えられずジャージにしがみついて頭をよせ、呻き出した白石を抱え直して千歳はゴールをくぐった。
「いやー……おもろかったですわー。特に謙也くんとそれを返した千歳先輩の刀が」
ゴールした選手の列にまで茶々いれに来た財前がコメントする。
面白いのはそこか、と返しながら事実『面白い』とこはそこだろうと千歳も思い直した。
「…謙也が言い出した時はなんの天変地異か天啓かノストラダムスかと思ったばい」
「意味わかんないスけどとりあえずものっそう驚いたってことは伝わりましたわ」
「…寿命縮むばい。…怖かった」
「俺が言い寄られるんはあれより怖いんや言うたらどうする」
しばらく黙っていた白石の言葉に周囲はそらそうや!白石からすれば!と笑うが千歳は思わず黙って顔を見遣った。
「…冗談。他のヤツの場合」
その顔が本気で嘘だ、と笑うから本当だと思えて笑えたけど。
心臓がきっと今日一番、嫌な感触に跳ねた。
そんなこと、知らなくていい。
誰も知らなくていい。
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