翌日から、夏休みの部活が開始した。
これからは他の部はともかく、テニス部は部活漬けである。
休みはほぼ皆無。お盆休みもテニス部にはない。全国的に盂蘭盆会であっても、全国大会常連強豪校、関西の雄たるこの学校の男子テニス部に盆休みがあるわけもない。
なんせ中学テニス界の関西最強校、四天宝寺のテニス部員はほぼ全員この高校に来てテニス部に入るのだ。年々の実力なんて聞くまでもない。
そして入部して即、レギュラーに選ばれた一年、白石と千歳は以下略だ。
忙殺スケジュールには中学から馴れているので、誰も文句は言わない。
それに、救済措置のように全国大会終了後の一週間はまるまる休みである。
そんなテニス部の部室に遅れて入ってきた謙也は、中央に出来た人だかりになにごとだと目をやった。
そこには部で一番の大男。
「…千歳? お前、その頬どないした?」
腫れ上がって湿布の貼られた右頬を指して言うと、周囲もそれが集まっている理由だ、とどうしたと聞く。彼らもまだ知らないらしい。
「大丈夫やけん、気にばせんで…」
「そうやないやろ! なんや他校のやつのいちゃもんか!?」
「千歳! 我慢するな。お前みたいなヤツですら敵わないゴジラみたいなヤツが相手やったに違いないわ!」
弥勒の声に小春たちもうんうんと頷くが、千歳が勢いよくぶっと吹き出した。
堪えようとしているのか口を押さえているが、肩があからさまに震えているのは笑っているからで、口からは『ゴジラ…っ』という笑い声。
「…え? なに?」
「…千歳。痛ない?」
着替え終わって、輪に入っていなかった白石が聞いてきた。
「いや、大丈夫…っ…ゴジラ…」
「…あるいみゴジラやんなぁ」
「どこがっ…」
弥勒に賛同するような白石と逆に、千歳は全然違うと否定方向。
「え? 知ってんの白石?」
「…つか、…ごめんな。うっかり利き手で殴ってしもて」
白石の言葉によか、と言う千歳。それを見て、一瞬フリーズした全部員の中から、早く我を取り戻した小石川が。
「え? 痴話喧嘩?」
「いやちゃうねん。昨日、夜に買い物に出てな?
駅方面から帰る時になんか後ろ、誰かつけてきとらん?て思って。
事実ずっと同じ方向やし。
で、痴漢か思て振り向きざまに左手で殴ったら千歳なんやもん」
「…痴漢と間違われたばい……」
「…え!? ……それは…大変、やった…?」
な?という小石川の後ろで先輩達は既に大爆笑だ。
「え? でも千歳くんなら下駄の音でわかるんやないん?」
「それがそん時丁度、駅の排水溝に下駄がはまって抜けんこつなって。
しょんなかって脱いだばい」
「…それは災難やな。下駄はなくすわ殴られるわ」
「そっか…はまるんやな。下駄って排水溝」
「あと自転車もはまるばい」
「え? 自転車のどこに」
「ほら、下駄の間に自転車のペダルが」
両足はまったら死刑宣告たい。と遠い目で語る千歳に謙也たちはかける言葉がない。
心境としては、ものっそう笑いたいけどこれ真面目で悲しい話やんな?本人は、だ。
「あ! そうや俺、昨日駅の排水溝にはまった下駄を片付けようと必死になる駅員さん見た! あれお前の下駄やったんか!」
はた、と気付いた先輩の一人が大声で叫んで、また爆笑が起こる。
「…あー…駅員さんに謝りに行った方がよかですか?」
「好きにしろ」
「…はぁ」
まあ引き取りにいかんといけんし、と呟く千歳の肩を白石が叩く。
予備いくつあるん?という昨日の彼女に、素直に五つは、と答えたら驚かれたな、と思った。
昨夜、侑士が白石家から出てすぐ、一緒に家から出て来た白石が腫れた目で自分を見上げた。
「白石…」
会いたくて待っていた。
でも、言葉が見つからない。
迷う千歳の手を引っ張ると、無言で家に戻る白石に戸惑って、でも手をふりほどけない。
そのまま部屋に入って、閉められた扉の音に振り返ると、そこ座ってと言われた。
今日の、同じシチュエーションだ。逆の。
言われたままにベッドに座ると、白石にとん、と肩を押されてうっかりそのまま仰向けに倒れた。
ぎし、とベッドか軋んだのは彼女が俺のようにのし掛かって来たからで。
白い指がシャツのボタンを幾つか外すと、その胸元を数度吸われる。
チリ、という感触に、なにも初めてではなくて、今までのカノジョにもされたのにおかしい程興奮した自分に気付いた。そこでやっと身を離した白石を見上げると、面白いくらい真っ赤な顔。
「…て、…やられてお前、そのまま俺が帰れ言うたら納得して帰るか?」
期待しないって約束出来るか、と言われる。
「…無理。期待する。…抱きたかなる」
「…俺も」
掠れた告白を、腕を掴んで引っ張り、横になった身体の上に倒れた身体を抱きしめた。
「…ごめん」
「……ええ」
「…俺が、…急いだだけばい。早く、…白石の全部知りとうて…。
違か。…お前の全部が、見たかっただけばい」
知らないならみれんのか、て焦った。
「………俺も、アホや」
「…?」
「千歳は、絶対そんなことで嫌ったり気味悪く思ったりせんってわかっとる。
こんなもんより、俺の身体の方が普通に気味悪いんに。
…普通のヤツには。
比較やから、気味悪いって卑屈な意味やない。
…………必ず受け入れてくれるてわかってたんに、…俺は悔しかっただけや」
「……くやし…?」
「お前以外に、お前より早く身体に跡残された。……全部の一番はお前がよかった」
その言葉に白石を抱いたまま思わず起きあがった千歳に、くすりと笑う顔。
「処女はホンマ。跡はそういう意味やない」
「…じゃ」
「その誘拐犯、逃げる時に煙草落としてって。監禁された部屋がちょっと燃えたんや」
白石が抱かれた腕の中から左手を出して包帯をするりと解く。
「…火傷の痕」
その白い腕を走る、酷い火傷の傷。
「…包帯はこれ隠しとったんや。
…素直に言えんくてごめん」
謝る身体をきつく抱きしめて、左手を取る。
「え、ちとせ…っ!」
慌てた白石に構わず、その火傷のあとに何度もキスをした。
腕から、手の甲、指の付け根に。
「……汚くなか」
「…ちとせ」
「…白石は全部、綺麗か」
そう告げた瞬間、ぽかんと自分を見上げた瞳が、すぐに流した涙を追って頬に口付け、唇にキスをした。
ごめん。ありがとう。もう、二度と間違えないから。
そう言うと、間違えてなんぼや、俺らまだガキやもん、と彼女が微笑んだ。
基礎練習が終わって、部員たちが集まるのを待つ弥勒が、ふと手元の紙を見て有楽に振った。
今日は部長がいない。
「えー、さっき上がってきた関西大会の出場校な。
二つは府大会の優勝、準優勝のウチ、明宮政高校。他が…」
言いかけて弥勒は背後のホワイトボートから視線を離した。
まだ集まっていない部員と、騒ぐ一年が多数。
息を吸い込んだ弥勒が言うより早く、ばんっ、と大きな音が響いてホワイトボートが手で叩かれる。
その音に視線を咄嗟に集めた一年たちの前で、聞き慣れた声が。
「私語厳禁! 罰走させんでお前ら!」
と怒鳴った。
途端、しん、と静まった一年たちを余所に弥勒がその人物を見遣って頭をかくと。
「動物の服従本能みたいや…て感心はしたし有り難い。
が、お前は部の何様やねん白石」
責める口調では全くなく、思い切り笑いの混ざった弥勒の声に、思わず一喝してしまった元四天宝寺中学部長、白石も固まった。
「……すいません。習慣でつい」
「いやえぇんやけど助かったし。お前その調子で大会も一年の手綱握っとくか」
「俺はただの一年です今怒鳴ったのはホンマにただ習慣です」
もうやめてくださいと声も小さくなる白石の背中を叩いて、弥勒が唯一爆笑していた謙也たちに回収させると続きを読み始める。
目前の関西大会。
そして、全国大会が近い、夏が始まった。
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