あの人を慕う、一人だった。
「光」
呼ばれて振り返ると、謙也がいた。
新年、初詣に行こうと誘ったのは謙也で、それは昨日。
待ち合わせの神社の境内で、やっと財前を見つけた謙也の顔は、うっすらと怒っている。
「…どーかしました?」
「どーか、やない。
お前、白石になんて言うたん?」
「…?」
猫背になって首を傾げる財前のピアスに覆われた耳が引っ張られたが、幸い寒さに凍えて感覚がないので痛くなかった。
「うまくやってくれるとか言うてへんかった?」
「……ああ」
ようやく昨日の千歳への妨害のことだと気付く。
気付いて、はて?と思った。
「…俺、ちゃんと妨害しましたよ?」
「…へ?」
「千歳先輩の伝言、部長には『今日は無理』て伝えました」
「……え、やって」
「…まさか、それでなお、部長、会いに行ったんですか。千歳先輩ん家」
今更に蒼白になる謙也に、どうしたものかと思った。
千歳も男だ。
大晦日に、それも誕生日に、一人暮らしの部屋に惚れた女と二人きりで、知ってて会いに来たのは女の方。
「…手を出されても文句は言えへんな…」
「縁起でもないこと言うな!」
「…泣かんでくださいよ。うざい」
別に泣いてないと言いつつ俯く謙也を見遣って、にぎわった初詣客の群に目を向けた。
「…まあ、白石さん、あの性格やからな…女やってバレてもその辺はかわらんか」
「…どういう意味や?」
「…強がりですよね? あの人。
ほな、万一抵抗しても千歳先輩に『部屋まで来ておいてなにカマトトぶっとると』とか言われただけで言いなりになるんちゃいます?
泣くんは一人になってからみたいな」
「ひーかーるー!」
「あんたが泣かないでください。うざい」
「やってあいつ、は…初め…」
「処女とられたくらいどーってことないやろが」
「もう黙れ!」
謙也に強引に手で口を塞がれながら、やれやれと思う。
惚れた女の初めてがいいとか、なんだとか、世の中の男のロマンはどうも理解出来ない。 結果、手に入ればいいのだから、その過程で彼女が誰と関係を持っていようが、今持ってないならいいだろう、と思う。
第一、初めてなんてものに執着してられるのは学生のうちだ、とも。
大人になってから知り合った彼女なんて、経験がない方がどうかしている。
それをいちいち己の出会う前の経験から嫉妬するなんで馬鹿もいいところだ。
…謙也は幼馴染みが相手だから、そう言えないだけかもしれないが。
「…女の初めてに金かける人間が理解できへんわ」
「…は?」
「知ってます? 女が身体売るような店て、経験ない女の初めての客は普通より高い金とられるんですよ。処女やから、て。
で、買う方も高い金出してまでそれを選ぶっちゅー…」
「お前はほんまに中学二年か!」
「…今年は三年になりますて」
「……お前ら、大声でなんちゅーことを年の初めから言うてんねん」
聞き慣れた声に、ぴたりと動きを止める。
「白石!」
ばっと振り返った謙也と、それによって謙也以外が見える視界になった財前の視界には、千歳一人。
今のは白石の声だったが(ツッコミ内容的にも)。
「…、千歳。俺の前立つな」
「…あ、ああ、すまん」
後ろにいたらしい。
謝りながら、千歳は退こうとせず、背後を器用に振り返る。
「ばってん、見せるんもったいなか」
「…は?」
「…可愛かし」
「……ちゅーか、お前の後ろの連中は既になんかこっち見とるけどな」
「!?」
ハッとして千歳が身を返した。それでやっと白石の姿が見えたが、確かに言葉を失う姿だった。
それで白石の母親が府内から離れたここを初詣先に選んだのか、と財前が一人納得する。
白石は初詣ということと、一緒なのが彼女の性別を知っているメンバーだけということあってか、振り袖だった。
桜の柄の藤色の着物に映えた髪は結われていて、品と華があって、綺麗としか言いようがない。確かに、周囲の男達は白石しか見ていないのがよくわかる。
これでは、白石蔵ノ介だなどと他の部員も気付かないだろう。
「あけましておめでとうございます。綺麗ですよ。部長」
「あけましておめでと。ありがと。…変やない?」
「いえ…全然」
「大丈夫や。めっさ綺麗やから」
「…謙也くん、最後まで言わせてくれへん?」
「…相変わらずやなお前ら」
財前を遮った謙也にも、なお言葉を発する財前にも、両方にそう言ったらしい白石がおもむろに周囲を睨んでいた長身を引っ張った。
「そないなことしとったら夜明けるし。行こう」
「…ああ」
その瞬間の二人の視線と、なんともいえない空気に声を失った謙也を、面白いなと財前が眺めた。
「…まあ、確実に白石さんは大人になりました、と」
「まだ決まっとらーん!」
「その言い方、どっかの副部長みたいやからやめてください」
甘酒をすすりながら、財前は見えてきたおみくじ売り場に向かう。
千歳と白石は既にそこにいる。
着物に不慣れで危ない足取りの白石を支える千歳も手慣れていて、すっかり周囲は恋人と誤解しているだろう。いや、既に恋人の可能性はあるが。
「…あれは謙也くんには無理やなぁ」
「…は?」
「人混みん中、着物着た女をうまくリード出来る経験、謙也くんにはどー…っ見たかて不足しとるし」
「お前、誰の味方や」
恨みがましく睨んだ謙也に、口角をあげて答えた。
「誰、て」
その表情に声を一瞬失った謙也を置いて歩き出した。
「俺は、俺の味方ですわ」
俺は、あの人を慕う一人だった。
入部した時から部長だった、憧れの存在。
誰より強く、誰より高く、誰より正しい。
理想の部長。
それが白石蔵ノ介だ。
自分にとっても。
勝ちたいと思った。
そして、あの人のような部長になりたいと願った。
他人には決してなれないと考える自分らしくない気持ち。
それでも、憧れずにいられないほど、焦がれる気持ちを堪えられないほどに。
あの人は完璧だったから。
―――――――――それは、恋心にあまりに似た尊敬。
なにもかもを、自分のものにしようと願っていた。
完璧なテニススタイルも、足の速さも技のキレも、その力も。
公正な性格も。
少しでも自分にそれを与えられたら、と見つめ続ける瞳が、恋に当てはめたら他のなんだというのか。
寝ても覚めてもあのプレイだけ焼き付いて、憧れることを。
恋に当てはめたら、他のなんになると言える。
それでも、恋心に踏み外さないでいられたのは、あんたが『男』だったからだ。
男に手を出す程、馬鹿じゃない。
俺が憧れた、正しさからも外れるから。
けれど、
「白石さん」
あんたは『女』だったから。
もう、この気持ちに恋心の名前をつけることに、躊躇いはない。
なんてアッという間の急行降下。
「ん? なに、財前」
おみくじを買ったまま、開ける前の顔が振り返った。
「くじ、見せてもろてええですか?」
「…ああ。気になるん?
珍しなぁ」
「どっちかっちゅーたら謙也くんのが一番気になりますけど」
「俺も」
笑った白石の唇に、指をそっと当てた。
傍の千歳と、追ってきた謙也があからさまに焦った顔をする。
「白石さん、それは今日だけあきません」
「…?」
「振り袖着た人間が、自分のこと『俺』は、あきませんよ」
「……あ……」
「わかりました?」
「……うん……、え…と……わたし?」
「そう」
馴れない、と口元を押さえた白石を余所に、見ると謙也と千歳も可愛いといわんばかりに口元を押さえているのだから、この人たちは、と思う。
可愛いけれど。
このくらいで可愛いと悶絶してたら、どうしようもないだろう。
「で? くじ、なんでした?」
「…お…わたし…は、…んー……吉?」
「あ、俺もばい」
「へえ。二人とも。…俺も買いますね」
売り場で買って、続いて買っている謙也を背後に開く。
「あ、俺、大吉っスわ」
「はぁ!?」
背後でばっとこっちを振り返った謙也の声が響いて、財前は顔をしかめた。
「謙也…売り子さんがびびっとる…」
「あ、すいません」
「…ったく」
「謙也くんは?」
「…俺? お前が大吉やったら俺もそうやないとおかしい…」
「それ、謙也憲法の第何条の話っスか」
「…そげんもんがお前らの間にはあっとね?」
「いや、ないんスけど、全く、欠片も、爪の先ほども」
徹底的に否定すんな、と言いつつ謙也がくじを開いて絶句した。
それで「つくづく期待を裏切らん人や」と予想はついたが、一応うっかり『凶』で済んだ可能性も考えてくじを財前が謙也から奪った。
「…大凶。…あんた、ほんま期待裏切らん人やなー」
「しみじみ言うな!」
「…初めて見たと。大凶。
…日本のおみくじは凶と大凶入ってないんじゃなかね?
それが新年の思いやりて聞いたと」
「それも違いますけど…確かに珍しいんは事実ですね。
普通、新年はその二つは数減らすんですけど」
「…逆に運いいんかな」
白石がなんだか暢気なことを言った。
ようやく空が微かに明るくなった頃、神社を出て最寄りの駅まで向かう。
多少着物に馴れてきた白石を真ん中にして歩道を歩きながら、不意に謙也が足を止めた。
「喉渇いたんやない?」
「ああ、そうたいね」
道にはコンビニもなかったが、自販機が見れば光っている。
早速小銭を入れた謙也が、がこんと落ちてくるジュースを拾う。
「白石、おごったるわ」
「ええん?」
「俺、どうせお年玉一杯もらえるし」
「ああ、ええな。謙也の家、親戚多くて」
「どこまで増えてんですか『忍足一族』て」
「気持ち悪い言い方すんな!」
「…あえて『繁殖』て言うん避けたんですけど」
「今言うたら一緒や!」
叫びながら、謙也は白石にはい、と小さなパックジュースを渡した。
ぽかん、とする白石に笑ってみせる。
「好きやったやろ? いちご牛乳」
「……うん。覚えとったん?」
「そらな」
「…ありがと」
頬を染めて傍目にも充分可愛らしい笑みを浮かべた白石を見てから、千歳に一瞬勝ち誇ったような顔をした謙也を、財前が「ああ、あんたも可愛えわなぁ」とつっこんだ。すぐ蹴りが入る。
「ちゅーか、親戚多いんも大変や。
ガキどもの世話にかり出されるし、…あと、侑士と決着つけなあかんしな」
「イトコさんですか」
「まあな。去年は引き分けた」
なんの勝負かは最早聞くまい。
千歳も自販機に向かったところで、財前は白石の傍に足を向ける。
「財前は喉渇いてないん?」
「いえ、次、買います」
「そか」
「…白石さん、…」
「ん?」
きょとんとしている顔は、やっぱり少しだけ高い。
「昨日、千歳先輩となんかあったん?」
「……へ!?」
「やから、大晦日に一人暮らしの男の部屋に二人きり。
…なにかされました?」
「…お前、言い方考えろ」
向こうでぎょっとしている二人を横目に、白石はない、と一言。
「…ない?
なんも?」
「うん。やって千歳やもん」
「…?」
「千歳は、無理矢理したりせんから」
疑ってもいない顔がそこにあって、理解もした。
こんな顔で信頼されたら、逆に手は出せない。
「……出してなかったんやな」
「…あからさまに安堵するんはひどかよ謙也」
向こうの声も、なんだか遠い。
「やけど、なんかありましたよね?」
態度、違う。と指摘されて白石が少し赤くなった。
「……好き、言われたし」
小声で、財前にしか聞こえない声だった。
「……あんた、なんで昨日千歳先輩選んだんですか?」
「……、……え」
「会えないて、無理て俺が言うたんに会いに行ったんですよね」
千歳はそのくらいは予想していたのか、やっぱりと一言呟いただけだ。
「……好き、て言われに行ったんですか?」
はっきり問われて、白石の顔が耳まで朱に染まったが、それでもこくりと頷いてみせた。
それを理解した謙也が、声を失う。
ああ、自分はとことん、破壊主義者かもしれない。新年にこんなこと。
でも、もし白石がまだキスすら誰ともしたことがないなら。
初めてが欲しい気持ちは理解出来ない。でも、
「財…―――――――――――――?」
白石の、呼ぶ声が途切れた。
財前の唇が、それに重なった所為だ。
見開かれた目は、白石のものだけではきっとない。謙也も千歳も、見えないがきっとそう。
掴んだ肩は細く、得られる快楽の容易さを教えた。
「……好きな女の初めてには別に興味ないんですけど、欲しくなりましたわ。
千歳先輩や謙也くんが騒いどったの見て」
唇を離した財前の声が、呼吸ごと失ったような白石に届く。
「ファーストキスがいちごの味するってほんまですね。
俺はちゃうけど」
泣く瞳も、頬を殴る手も覚悟したけれど。
白石は泣かないまま、財前を殴ることもなかった。
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