恋すてふ
seasonV-First Kiss

第二話−【踏切の遮断機のように】





 風呂から出た上半身になにも身につけないまま、千歳はベッドに横になった。
「………」
 財前を殴らず済んだことが、奇跡だった。自分も、多分、謙也も。
 それは、白石がまだどちらの恋人でもないからで。
 そして、なにより白石自身がそれを堪えたからだ。
 二人の人間の間にいることにも、どちらかをまだ選べないことも。
 あの潔癖な性格は許していない。
 だからこそ、それを指摘された直後に、指摘した人間を殴ることなんて彼女に出来る筈がなかった。
 だから、自分も、謙也も堪えた。

「…ばってん」

 彼女が怖がるから。
 怯える瞳を見たくないから。その瞳で見られたくないから。
 我慢してきた。
 触れることを、堪えてきた。
 キスすら、堪えて。
 その結果、心底惚れた女の初めてを恋敵でもなかった男にとられるなんて。

「…―――――――――――――………心が、気持ち悪か」





「バレバレやねんけど」
 かるたの途中、里帰りしたようなものな侑士にこづかれて、謙也はぽかんとした後、溜息を吐いた。
「変な顔したら殴ってくれ言うたよな?」
「…うん。おおきに」
「…どないしたん」
「………」
 殴らず済んだのは、財前が大事な後輩だからじゃない。
 大事な後輩でも、さも「他人が食べてるものはおいしそうだから」と言った彼を、許せるわけはない。
 本心はわからない。本気で白石を好きなのかもしれない。
 けれど、それを自分や千歳にならまだしも、白石本人に言った時点で容赦する理由がない。
 けれど、自分の所為でもある。
 …自分の所為で、白石が女だと財前にバレたようなものだ。
「…例の好きな娘のファーストキスでも他の野郎にとられたんか?」
 図星をいきなりさされて持っていたジュースを危うく落としそうになった。
 その顔を見遣ると、やけに真顔で迫力のある従兄弟がはぁ、と一息。
「一番ショックなんは、その娘ちゃうんか?」
 それとも彼女は合意?
「いや…ちゃう」
「ほなら、もっと優しいして、笑わせてやらな。
 お前まで怒って思い出させることばっかする女々しい男、女の子は好きになったらへんで?」
「………お前の言葉はいっつも正しいわ」
「嫌味か?」
「いや、感謝」
 ふうんと呟く従兄弟から、渡されたかるたの札を手に取る。
「…それが正しいてわかるし、そうするつもりや。
 やけど、感情の方がまだ痛いて…そいつ殺したいて騒ぐ。
 …あいつに会って笑えても、あいつにキスしたヤツに会ってまともでいられる保証がないわ」
「…そら、しゃあないわな。人間はロボットやないし」
 侑士は自分の好きな娘のことは、いるとしか知らない。
 名前も、名字も全く知らないから話せるのだけど。
「謙也? まだなんか、悩んどるん?」
「…いや、…」
「?」
「侑士ならあっさり解く宿題やろけど。俺が解かな意味ないねん」
「……そか」
 そういって笑った従兄弟に重なるように見えたかるたの札の文字。

「……」

 恋すてふ

 わが名はまだき立ちにけり

 人しれずこそ思ひそめしか





 新年になってから初めて他のメンバーとも会うことになった。
 一緒に遅い初詣に行って、カラオケで騒ごうという話。
 白石も、財前も普通の顔で来ていた。
 部活の集まり(引退したが)まで、断るほど付き合いに悪い奴らじゃない。
 知っていた。

「ほな、あけましておめでとうってことで乾杯や!」
 カラオケの一室、そう言ってグラスを掲げたのはノリのいいユウジだ。
 なんだかんだでノるメンバーなので、かちんとグラスがぶつかる音があちこちでした。
「…ちゅーか、既にあけましてって今日何度も言うたやんか」
「うるさい小石川」
「あ、悪い健二郎。ストローそっちない?」
「ああ」
 白石の言葉に小石川が手元を探した。
 白石は今日は普通のセーターにジーンズ。
「はい」
 傍でした低い声に、白石が一瞬笑みを引きつらせた。
 石田の隣にいた筈の財前がひょい、と白石の隣に座ってストローを差し出した。
「いらへんのですか? 部長」
 白石はもう部長やないとかいう声を余所に、白石はなんでもない顔を装ったように向き直るとありがと、と言ってストローを手の上から取る。
 その手が、一瞬上で止まってから触れ、すぐ取って引っ込めるような、怯えた仕草だと遠目にも謙也には見えた。
 手が離れた瞬間、白石があからさまに安堵の溜息を吐いたことも。
「!」
 けれど、そうやって逃げるのを許さないように伸びた財前の手が、細い手首を強引に掴んだ。
「…」
 言葉もなく、怯えた瞳に映されても彼はくすりと笑う。
「心配せんでも、みんながおる前で手ぇ出したりしませんよ」
「……っ」
 周囲に聞こえる声に、その前の白石の挙動から二人に注目してしまっていた小石川たちがぎょっとする。自意識過剰と言われた気がして、俯いた白石と財前の間に、いきなり一人の人間が割り込んだ。
「やっぱ、ワイ白石の横がええ! な、ええやろ白石」
「……あ、…うん」
 金太郎だ。
「おい、遠山」
「なんや? ええやんか財前。白石がええて言うてんやから!」
 財前を押しのけるように白石の横に座った金太郎は笑顔でそう言うと、食い意地が張った証拠のようにじーっとデザートのメニューを見始める。
 安心、した。
 そう思った白石が、ふと周囲を見て気付く。謙也も、千歳もどこか安堵した顔だ。
 嬉しいような気持ちがして、また違うと思う。二人に、なんておかしいのに。
 不意に、椅子の上に置いたままの手がぎゅっと握られた。
 財前かと疑う前に違うと思う。財前より明らかに体温が高く、小さい。
「……大丈夫か?」
 小声で聞いてきたその手の主が、先ほどとは全く違う心配そうな顔で見上げている。
 安心した。今度は、本当に。
 金太郎は、なにも知らないのに。知らないから。
「…ありがと。金ちゃん」
「どーいたしまして?」
 無垢に笑う顔にずっと緊張していた身体が弛緩した気がして、笑っていた。




「…助かったわ」
 解散する駅でそう呟いた謙也の声が聞こえたのか、千歳は柱に寄りかかったまま同感、と一言。
 白石は視界に入る場所で小石川となにか話している。
「お前、金ちゃんに感謝せえや」
 光、と呼ばれても財前は涼しい顔でハァと一言。
「…せやけど、ものっそう予想外ですわ。まさか遠山に邪魔されるなんて」
 更になにか言いかけた謙也を遮って財前が言う。
「金ちゃんは聡かぞ。なにも知らなくても他人の感情には」
「そうっスね。忘れてましたわ」
 ごく普通に自分らと会話する財前が憎いような、助かるような。
 腹が立って殺したい程憎んだって。
 彼も、大事な仲間だから。
 現金でも、気まずいままは嫌だ。
 それが、仮初めでも。
「おーい、」
 石田が帰ったのだろう。彼に構われていた金太郎がこちらに走ってきた。
「ワイ、今日謙也か千歳ん家泊まってええ?」
「ああ、そっか。金ちゃん今日家族おらんとね」
 言うとった、と千歳。
「ワイは一人で大丈夫なんやけど、おかんや銀があかんて」
「当たり前や。遠山一人でどーにかなるわけない」
「俺もそう思う」
 いつものようについ、賛同した謙也の声を聞いた後、不意に真面目な風な顔になった金太郎が大きな目で見上げてきた。
「金ちゃん?」
「……なあ、みんな白石、好き?」
 高い声に問われて、びっくりしたのは多分全員。
「金ちゃん…いや、そら好きに決まっとるやろ」
「そうやなくてな…。…『女の子』として」
 彼自身困ったような声音に言われて、今度は声を失う程驚いた。
「白石、オンナノコやんな?」
「……なんで?」
「ワイ、この前四人でおるん見たんや。
 あそこの神社、ワイもオカンに連れてかれたから。
 着物着てたオンナノコ、白石やろ?」
 誤魔化す方法は、多分あった。
 人を信じる天才だから、彼は。
 けれど、だから真っ直ぐ問われて、余計騙せなくなった。
「やっぱり。一発で白石やってわかったんや」
 無言を肯定にとった金太郎がにこりと笑う。
「オンナノコは大事にしたらなアカンよ。
 ワイらと頭の中ちゃうんやって。心配することも気持ちも男が計れるもんやないから、知った風に疑うんはアカンて従兄弟の姉ちゃんがよう言うとった。
 白石、オンナノコやんな?」
 繰り返し言ったのは、そう言いたかったからだと理解する。
 白石がいくら、自分たちと同じように男として生きていても、思考は女の子である以上自分たちが理解したり、想像したり出来るものじゃない。
 わかったか?と言うように、彼は多分繰り返した。
「…うん、わかった。金ちゃんは偉かね」
 千歳に頭を撫でられて、金太郎が嬉しそうにそれを見上げた。
「財前も謙也も、白石泣かしたら許さへんで!」
 大きな瞳に睨まれて、顔を見合わせて謙也と財前は声を重ねて手を挙げた。

「「…誓う」」

「よし!」
 満足そうに頷いた金太郎が、不意に遠くにいる白石を見て、手を振る。
 白石も気付いて笑った。
 三人に背中を向けたまま、金太郎が言う。声は笑っていたけれど。

「ワイ、白石、大好きや」

 だから、余計印象に残った。











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