真昼に星は見えるか?
−歪んだ北極星U


 
第四章−
【濁ったノーザンクロス−螺旋の章−】



  
−CROSS LINE編−


 
  第四話−【埋まらない傷・求めた光陽・雲の切れ間をひたすら待つ】







 久しぶりの彼の声は、泣いていた。

 泣かせたのは、俺だった。




 北方国家〈ジール〉に渡る船の中で、自室に戻った千歳がふと気付いてそれを手に取ったのは偶然だった。
 数年前になくしたと思った、携帯電話。

「こげんもん、持ってたとか…」
 どこかに行って、そのままやと思っとった。そう呟いて手に持ったそれは逆に馴れない無機物の感触。
 何故、まだ電源が入るんだ、とかどうでもよく。
 メモリをいじると、一番に見つけられる彼の番号。
 無性に愛しくなって、それを押した。
 鳴る筈もないコール。それでも、これが鳴ったら、音が途切れて彼の声が「千歳?」と笑う。
 その気持ちに、『白石蔵ノ介』の名前だけにすら愛しくて。

 当てた耳に響いたのは、そのコールだ。

「……」

 鳴って、る?
 でも、途切れる筈ない。彼が、
 出る筈はない。

 プツ、と途切れたコール。
 少しの沈黙とノイズの間に、向こうで響く彼の呼吸。

『…………んで…、かけんねん』

 泣くような、それを堪えたような声。

「……蔵?」
 呼んだ自分の声は、我ながら情けなかった。
 夢か、と。これは夢か?
 千里が言う、日常の夢か。精神はもうぎりぎりなのか。
 それとも、

『…んで……、繋がる。
 ……勝手にこっちに戻して、…なら、…なんで元から』

 見えないのに、わかった。
 きっと白石は頭を抱えて、顔を押さえている。
 泣くように。

『…なんで元から千歳の全部…切ってくれへんねん…っ』

「…そげん事なったら、…俺は生きる意味なかね」

『なんやねんそれ。お前、俺のことどうでもええやろ』

「よくなかよ。…なぁ、無意味かしらんばってん、言わせてくれ」

『いらん。謝罪も、なんも欲しない』

「…蔵」

 焦るように携帯を握りしめた。これが切れたら、二度と繋がらないような気がして、焦って携帯をきつく握りしめた。

「…ごめん。ごめん。許されるて勘違った。間違った。傷付けたばい。
 …ごめん蔵。俺、蔵のこつ…」

『聞きたない!』

「…愛しとう。…蔵のこつ、今でも」

『聞きたない! 嘘や! お前誰でもええんちゃうんか。俺はええんちゃうんか。
 もう要らへんのやろ! …もう、要らへんて…、…』

「…く」

『……お前が言うたんやないか……っ』

 携帯の機械越し、向こうで漏れる、聞こえる、泣き声。

 堪らなく愛しくて、今すぐ抱きしめたくて、堪らない。
 切なくて、愛しくて、愛したくて、もうどうしようもなく焦がれてる。
 呼びたいよ。…抱きしめたいよ。

「……俺は、それを勘違ったんばい。
 …いらんなんて嘘ばい。そげんコツ、あり得なか。
 …お前の気持ち、…欲しかよ。
 欲しくて、…堪らなか。死にそうで、欲しくて、千里の気持ちが今痛いほどわかっとう。
 ……許さなくてよか。憎んでよか。
 だけん、…俺を見限らんで。俺を…もう一度呼んで…」

『…んなん、嘘や』

「…蔵」

『…お前、みんなに言うやろ。お前、誰にも本気になんか…。
 …お前が、…俺を好きなんて最初から嘘…。
 …最初から…、…俺は………』

 届かない。それでも、抱きしめたい。

 こんなにも、こんなにも、愛しい。

『…………黙るな!』

 悲鳴のような声に、一瞬戸惑った。
 それは、あまりに悲痛で、泣き叫ぶ声。

『否定しろや。もっと否定しろや!
 俺の反論が尽きるまで、俺が理解るまで否定しろや。
 ……みんななんで否定してくれんの。
 …………お前をっ…………………俺は』



 理解ってた。忍足に聞いたじゃないか。



 否定したがっていた、キミの気持ち。

『……信じたい……千歳』

「………うん」

『お前を…信じたぁて…愛したくて…こんなに…こんなに好きで馬鹿みたいや!
 …好き。…千歳…。好きや………。
 嘘や。嫌いなんて嘘や。憎いんは嘘かわからん。でも…俺はお前が好きで、好きで……だから』

「…うん」

『否定して…。お前が俺を殺そうとしたんも、…違うて。
 お前が俺をいらんなんて、嘘やて。
 …否定して…っ。
 ……好き。…好き千歳。
 ……俺を…好き言うて。…俺を呼んで。傍に来たって。

 俺を好き言うて抱きしめて……っ…!』

 泣く声を、それを堪らなく欲しく、愛しく思った。
 傍に行きたい。抱きしめて、髪を撫でて、髪にキスをして、手を取って、呼んで、顔を上げたキミの額にキスをして、その涙を拭って、好きだって言う。

 なにを失っても、いい。

 なにが、なくなってもいいから。

 キミに、会いたい。

 白石に、会いたい。

 ―――――――――――――抱きしめたい。




 ふ、と手から消えた感触。
 携帯を握っている手に、携帯がない。
 戸惑いは一瞬、視界を覆う景色は船の部屋じゃない。
 知らない、洋風の豪邸の部屋。
 眼前に、携帯を握りしめて泣く、俯く愛しい髪に隠された顔。
 これが、幻だって構わない。

 お前に、届くなら、なんだっていい。

「…蔵」

 呼ぶと、一度携帯からかと錯覚した身体が、茫然と顔を上げて千歳を見た。
 涙に濡れた顔を、誰より綺麗だと思った。
「千歳」と呼ぶ驚いたまま、泣く身体に近寄って、その手を取ると抵抗なく収まった。
 手首に、指にキスをした。そのまま抱きしめた。背中を撫でて、首筋にキスをして、額に落としたキス。
 頭がついてこなくて、動けない白石を覗き込んで、伝わって欲しいと微笑んだ。
「蔵」
「………と………っ……せ……」
 必死に、ただ必死に泣いた身体がすがりついてくる。それを抱きしめて、唇にキスをした。
 彼が、これを幻と思ったって構わない。
 髪を撫でて、優しく優しく、キスをした。


「……愛してる」


 そう、零した、落とした、告げた瞬間、白石は嘘のように千歳を見上げて、微笑んだ。


 誰より、嬉しそうに。


「……蔵、愛しとう」


 もう、この言葉に微笑まないと思った君。

 もう、いいんだ。

 この言葉に、キミが笑うなら、もうなんでもいい。
 なにを失くしても、なにを削ったって、なにが代価だっていい。

 お前がいるなら、この腕の中にいるなら、届くのなら。


 なにも要らない程に、こんなに愛している。



 世界は一瞬で、船の一室に戻っていた。
 もう、腕の中にいない彼。
 夢かと、疑う程の一瞬。

 でも、夢じゃない。

 抱きしめた感触が、指に、腕に、胸にある。
 キスをした感触が、唇に残っている。
 声を聞いた。その音が、耳に残っている。

 今のは夢?と携帯の向こうの声が恐れて呟いた。

「…夢じゃなかよ」

 俺はさっき、お前の傍にいた。抱きしめていた。あれは夢じゃなかった。

 そう告げると、白石が泣き声でよかったと言った。



「……待ってて、蔵。
 もう一度、必ず抱きしめる…絶対、お前を抱きしめる」




 絶対、抱きしめて、離さないと誓うんだ。








→第五章へ