真昼に星は見えるか?
−歪んだ北極星U


 
第五章−
【黄泉へと降れ−冥府の章−】



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    【プライベイトレクイエム】





 そっと、触れる指先。
 触れる、頬。瞼。髪。手首。首筋。

 冷たい。

 していない、呼吸。

 寝台に横たわった手を取って、指先にキスをした。
 でも、目を覚ますことはない。

「……蔵」

 呼んだって、目覚めない。もう、永遠に。

「……なして?」
 零れる声は泣いていて、それでも意味なんかまるでないんだ。
「なして…なして…俺を……」
 置いていった。開けたんだ。死ぬとわかっていたのに。
「…なして…蔵……」
 頬を流れる涙は、もう止まることはない。ずっと流れ続けたまま、朝は明けて。
 腫れた瞼を、痛い感覚すら感じられない。
「……起きて…俺ば、呼んで…」
 手を握りしめて、指に、手首に口付ける。
「…好き言うて、俺んこつ…好き言うて。
 呼んで…。……起きて…蔵…っ」
 泣いて、呼んで、でももう起きない。
 目覚めない。
 だってこれは死体だ。
「……なして、蔵…っ……くら」
 その身体を抱きしめて支えた頭を持ち上げてキスをした。
 冷たい唇は応えない。
「………蔵ノ介……お願い……、俺を……」

 独りにせんで。





 復讐王の部屋に入って来た日吉に、彼は視線をよこしただけですぐ俯いた。
「…どうしたんだ?」
「……各国から、ウィッチが生まれ出したって朗報」
 もらった、と言った傍から越前は壁を殴って持っていた書類を投げ捨てた。
「なにが朗報…っ。
 そんなの要らない…要らない…っ!
 あの人を犠牲にしたことなんか、全然良いことじゃない!」
 部屋に散らばった書類。
 拾うこともなく息を荒くして、その場にしゃがみ込んだ越前にかける言葉なんかない。
 ただ、日吉も習うように俯いた。





 部屋に入ると、彼は酷い顔で蔵ノ介を迎えた。
 寝ていないのだ。
「…千里」
 呼ぶと、手を伸ばされた。
「こっちゃ、…来て」
 頷いて、傍に寄ると抱きしめられた。きつく。
 痛いほど。
「……」
「千里…」
 震えている巨躯は、対の痛みを感じているのか。
 感じられるかもしらない。
「……なして…こげんこつになっと?」
「…せん」
「…お前がやっと俺の前に還って来た。
 俺の対も幸せになって、…『白石』は『千歳』の傍で……。
 なんになして…今度はお前の対が…俺の対がお前ば失わないけんね……っ」
 震えた声。震えた身体。
 きつく自分を抱く腕。
 寝台に座ったその身体の間に向かい合わせに膝を立てて抱きつく。
「……もう、イヤたい…。なしていつまで経ってもこげんもんばっか見ておらんといけんね…!
 もうイヤばい…なして…なしてなん…っ!?」
「………俺も、…聞きたい」
 縋り付く巨躯の、震えた頭を抱き込んで、それでも、なにも。
 言える言葉なんかなくて。






 霧の中、浮かぶ濃い水が散った霧の中。
 森を抜けた、そこにぎしぎしと揺れる吊り橋。
 吊り橋の中央に、立つ姿。

(……ここ、は……)

 千歳の眼前、吊り橋の中央で微笑む顔。
「……千歳?」
「……蔵……」
「千歳。……どないしてん?」
「蔵。…こっち、来んね」
「でも」
 白石が困ったように微笑む。
「俺、行かなアカン」
「蔵………」
 心臓が痛く急かした。
 焦って手を伸ばす。
 揺らぐ姿は霧の所為だ。
 千歳の足が吊り橋を踏んだ瞬間、霧が視界を覆って彼は完全に見えなくなった。
「蔵!!!」



 ぴちょん、と落ちる水の音がする。
(…あれ、今、…白石がおる、夢ば見ちょって…)
 視界を引き上げると、長い長い階段の一番上にいた。
 遥か下に伸びる階段。
 見慣れた白金の髪が、遥か下を降っていく。
「…蔵!?」
 呼んだ声に気付いた顔が、千歳を見上げて、諦観した笑みだ。
「…蔵…っ。こっちゃ、来んね!」
 白石はただ、首を横に振る。
「俺は吊り橋を渡ってしもた…。向こう岸に行ってしもた。
 吊り橋は落ちたんや。
 もう…戻れへんのや」
 掠れた声が、恐ろしい程痛く胸を掴む。
「俺が連れ戻す。戻して見せるばい!
 こっちゃ来て…俺ん傍に還って来てくれ!」
 急いで階段を降って彼の傍に手を伸ばす。
「……来ないで千歳…………」
「蔵…っ?」
 伸ばした手が、走る足が届かない。
「……ごめん。もう、お前の傍に、おれん。
 おりたかった。
 ずっと、…愛してた」
「蔵…!」
 伸ばした手は届かない。
 階段は消えて、彼はどこにもいない。



 深い、霧がまた視界を覆っていた。
 深い霧の中の湖。
 その中を渡る、ボートの上。
 その頂に、白石が立っている。
 今度こそ離したくなくて伸ばした手は届いて、無我夢中で腕の中に閉じこめた。
「…蔵!」
「……千歳」
 泣くような声が、耳に触れる。
「……ごめん。ごめん千歳。
 俺、」
「…わかっとうから…! お願い、…還って来てくれ!」
「…お前が魔女やなくなったら、傍におれるて…。
 もう、離れたない千歳…。
 千歳…、大好き……」
 千歳の背中に回される腕。
 なのに、感触がないんだ。
 ぎい、と揺れる船。
 離したくなかった。離すつもりなんかなかった。
 なのに、腕は離れて、千歳の身体は湖に落ちた。
 伸ばした腕は、彼に届かない。





 箱を開けた部屋は、今は立入禁止だ。
 不思議な漆黒の穴が広がっていて、近づけない。それはおそらく、ここじゃないどこかの世界に繋がっていた。魔法で探っても風も闇も途切れる。だから、多分、あの世か、どこか。
「………」
 外の廊下で俯いた忍足の肩を、跡部が叩く。
「…跡部」
「…堪えろとも、明るく振る舞えとも言わねえよ。
 だから、泣くくらいしろ」
 無理に無表情でいるな。
 そう言われて、忍足はなおぽかんとした顔で余所を向いた。
「忍足」
「…わかれへんねん」
「あ?」
「辛いから、…泣けへんのか。
 ただ、俺はまだわかってへんのや。
 …あいつがおらんて」
「………」
 来たばかりの、還ったばかりの世界。
 それは、自分たちのいた時代より遙かに変わっていて。
 なにも出来ないと思い知る。




 視界が現実に戻ると、そこは城の一室。
 眼前には、息絶えたままの白石の姿。
「……夢」
 呟いて、涙は零れる。
 手を伸ばして、頬に触れて、上向かせて頬に、額に唇にキスを落とす。
 それに彼が応えることはない。
「……蔵…起きて」
 零れた涙が頬に落ちて、それでも瞼一つ動かないのだ。
「……蔵………っ」
 肩を掴んで、揺さぶってその胸に倒れ込んだ。
「…起きて……もう、…こげんもんイヤたい。…見たくなか……」
 もう、起きたくない。
 夢でしか会えないなら夢の中に生きたい。

 お前がいない、世界に望むことなんかない。

 耳に、不意に触れた音に、意識は現実に引き戻される。
「……」
 茫然と顔を上げる。もう一度胸に耳を当てた。

 とくとくと、微かに、けれど確かになる心音。

「……蔵ノ介……!?」




 部屋から飛び出してきた千歳を見遣って、弟王は視線を揺らした後何事だと見上げる。
「フレイムウィッチ?」
「あれ、…北極星。
 蔵を連れて行ったんじゃなかね」
「…?」
「蔵が生きとう」
「……え?」


 心音は鳴っていて、けれど呼吸も熱も、意識もない身体。
 あの瞬間、冥府に降った星が彼を連れて行ったなら、それが一番自然なのだ。
 なら、連れ戻せばいい。


 それはこじつけの範囲でもある。
 冥府ではないあらぬ世界かもしれない。
 それでも決めたのだと、千歳を見て知ったから誰も止めなかった。
 出来ることがあるなら、諦めないことをよく知っていた。

「千歳!」
 箱を壊した部屋の扉を開けようとした千歳に、跡部が声をかける。
 肩に触れた力に、振り返った千歳を彼は『命綱だ』と言った。
「あと、これ持ってけ」
「え? 跡部、これ…」
「いいから行って来い」
 若干当惑したまま扉の向こうに消えた千歳を、見送ってから忍足があれなんなん?と聞いた。
「さあ。でも千歳なら使えんじゃねーの?」
「せやからなんなん。
 てか、千歳一人で行かせてよかったん?」
「穴も弱くなってる。入れて魔女一人。
 それ以上は、帰り道がなくなる」
「……だな」



 夢で見た場所。

 そこで迷っているキミがいるなら迎えに行く。

 迷わず、迎えに行って、今度こそ抱きしめるって誓った。


 キミに。








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