真昼に星は見えるか?
−歪んだ北極星U


 第二章−
【誰彼の五大魔女−暁と陰の章−】



  −南の弟王・再来編−


 
  第三話−【Place of period-Y プレイス・オブ・ピリオド】
    副題−[愛したい、愛されたいから一緒に行こう]







 瞬間、世界が光をなくした。
「…え?」
「極寒期や。千歳もおるから平気…」
 忍足と謙也が見上げた空に、明かりはなにもない。
 深淵の、漆黒の暗闇。
 城の中も明かりはなく、完全な暗闇が覆う。
「……弟王、怖いなら、賭けしはったらどうです?」
「…え?」
 手を握られたまま、謙也が言った。
「この暗闇ん中で、太陽が昇るまでに千里のところに会いに行けたら、もう逃げない。
 けど、やっぱり無理で逃げてしまったら、もう会わない。一生。
 ここでですらやっぱり逃げるようなら、一生会われへん」
「……謙也くん」
「引き延ばしたかていいことない。今、賭けときましょ?
 …そんで、この暗闇ん中で、…それでも千里が、あなたをあなたとわかったら」
 なにも見えない暗闇。
 なのに、謙也が笑ったとわかった。
「…もう、なにも考えずに抱きしめてもらったらええ」
 なにか言おうとして、いらないと気付いた。
 彼は謙也だ。世界が違っても。
 返事は、千里にしろ、と。
 そう、言う子だ。
 だから、返事の代わりに手を解いた。
 そのまま踵を返すと、手探りで開けた扉の音が背後で響く。
 それが返事だと、伝わればいい。






 あの日を、忘れはしない。
 千里に殺された、あの日の、空は太陽がなかった。
 自分を貫いたナイフを握っていた、見上げた千里の顔は笑っていた。
 自分を殺めた瞬間に、笑っていたのだ。
 今の記憶は、それに千里への愛情が加わって、あの日理解できなかった行動への目隠しがとれただけだ。
 彼に恐怖した。
 彼を心底恐ろしく思った気持ちは、嘘にはならない。
 千里に抱いてしまった恐怖は、一生消えない。
 ずっと、疑心と恐怖を抱いて、いくしかなかった。
 だって彼は笑っていたのだ。
 あの瞬間、笑っていた。

 暗い、闇でしかない廊下を歩く足が、ふと止まった。
 向こうから響く靴音に、咄嗟に見えもしていないのに傍の部屋に隠れた。
 やり過ごそうとして、気付く。

 千里や。

 自分が、彼の靴音を、彼が歩く歩幅を、足を降ろす間隔を、その大きさを間違える筈がない。
 千里だ。

 でも彼は笑っていたんだ。
 あの瞬間、笑っていた。

 その場にしゃがみ込んで、頭を抱えた。
 身が竦んで、動けっこない。
 怖い。
 怖いんだ。
 もう、いい。
 会えなくていい。
 もういい。
 こんなに怖いのに、傍にいられるはずない。

 もう、いい。

 そう閉じようとした思考。それでも、気付いてしまう。
 結局、彼を忘れられない自分。
 自分の思考は、「笑っていた」ことに注視していないか。
『自分を殺した』ことより、『その瞬間彼が笑っていた』ことを気にしていないか。
 それは、本当に恐怖か?
 それは、本当に殺されたことへの恐怖か?

『賭けましょ?』


 謙也との賭けは違うけど、これに賭けてみようか。

 もし、千里があの時笑った理由が、俺にとって残酷なら彼を忘れよう。
 忘れて、彼を捨てて生きよう。
 けれど、もしあの笑みになにか優しい理由があったなら、

 忘れてなんか生きられない。
 この年になっても、一度死んでも、息子がいるのに、妻が殺されたのに。
 殺した男を、しょうもなく愛している。
 妹を、犠牲にするような男だって知っている。
 でもすぐ、そこまで愛されていたんだと思ってしまう自分が、妻や息子に義理立てする権利があるのか。
 この年になって、張る意地がどこにあるんだ。

「…誰か?」
 まだ、空は暗くて、お互い顔は見えない。
 千里は多分、俺の数メートル向こうにいる。
「…千里」
「…殿下? あいつがよく離してくれたとね…?」
 声を明るくした千里が、足をこちらに向けた音がした。
「こっち来んで」
「…殿下?」
「………わざと、明るい声作るんやな」
「……え?」
「…俺を心配させたないから? 大丈夫な大人でいたいから?
 ……どこが。
 …滅茶苦茶、疲れ切った声しとって……」

 目の前の王子は見えない。
 闇が邪魔だ。
 けれど、今目の前にいるのは、誰だ?
 あの、我がごとで一杯な殿下が、俺の声のことになんか気付くわけない。
 だって、千歳や復讐王、誰も気付かないじゃないか。
 俺が疲れ切っていることなんか。

 誰にも見せないで、誰にも内緒。

 そう誓った心を、知る人なんかいない。

「…ぼろぼろな顔してんやろ。絶対。
 ……お前、夢ん中で俺に会っても夢の中で既に夢やて気付いとる。
 ……僅かな幸福にも浸れへん………馬鹿な男」
「………」
 まさか、そんなはずない。
 でも、辻褄をあわせることは出来る。
 あの北極星が、他の全てを救って、計画のために殺めた彼を救わない理由なんかない。
「……どこまで……俺に人生狂わされとんねん…アホ」
 叱る声は、どこか震えていた。
 恐怖に、涙に、そして、呆れて。
「……ら?」


「蔵ノ介………?」


 これは、夢か?
 夢と認識出来ない夢か?
 だったら、こんな悪夢なんかない。
「…まだ、近寄るなや」
「……く、……ああ」
 呼び止める声に、すぐ納得は落ちた。
 逆に彼がいぶかしそうな沈黙をよこす。
「やっぱり、…これは悪夢ばい」
「……なに言うてん?」
「…夢って、認識出来んお前の夢。
 悪夢以外のなんでもなか。
 目が覚めたら、俺は地獄に突き落とされる。やっぱりお前のいない世界に絶望する。
 毎日毎日絶望して、それでもうんざりすることも出来なかほど愛していて…。
 毎日絶望する。
 …いつ、お前に会えるて、…でも自分では死ねなか。そんなん許されなか…」
「…お前、俺の対とお前の対の味方しとるやろ。
 …平気ちゃうんか」
「そんなわけなか…っ。やっぱり悪夢ばい。いい夢なら蔵ノ介がそげんこつ聞くわけなか!
 誰にも言わないで、ナイショにしとった…。
 ばってん、夢なら隠す意味がなか!」
 まだ、太陽は昇らない。
 まだ、優しい朝は来ない。
 まだ、希望は灯されない。
 太陽は昇らない。
 永遠に昇らない。ここは奈落だ。優しい朝なんか来ない。永遠に来ない。
「なんで俺の傍には蔵ノ介がおらん…。
 なんで俺は蔵ノ介を抱きしめられん?
 なんで俺を愛するあいつがおらんの…!
 なんであいつは蔵ノ介に愛されとる。
 なんであいつの傍には蔵ノ介がおる。
 なんであいつは蔵を抱きしめられる?
 ……なんで俺はいつまでたっても一人で、こん腕は空っぽなんばい!
 …お前以外、…抱きしめるもんなんかなか。欲しくなか!」
 だって、ここは暗いんだ。
「……終わると、思ったんに」
「…なにがや」
「お前を殺した時…、ああ、これでやっと終わるって…。
 次、目が覚めたお前は笑って、俺に愛してるって言うって…。
 そんな現実が待ってるって馬鹿みたいにあの時は信じとった…。
 もうこの悪夢は終わるって、お前を愛してよかなるって安心して、疲れて疲れて疲れ切ってた…。もうお前の前で泣くんを許されるて…お前が抱きしめてくれるからって…。
 …だけん笑った……」
 ここは、ずっと暗いんだ。
 お前がいなくなった日から。
 永遠に。
 これからも。
「…でも、やっぱりそんな日はなかった…!」

 血を吐くように、死ぬように叫ぶ声を、聞いた。
 きっと千里は泣いてる。
 どうしようもなく、ぼろぼろに泣いてる。
 見えないけど、わかる。
 自分も、泣いている。頬を伝う涙は、怖いからじゃない。
 …ごめん。千里。

 お前の辛さを、苦しさを聞いて、喜ぶ人間で、ごめん。
 そんな人間でしかあれなくてごめん。
 謙也に、みんなに、酷くてごめん。
 でも、今はもう、


 お前を愛せるなら、他はいいんだ。



「…賭けは千里の勝ちや。…お前の勝ちや」
「……?」
「俺を殺した時に、言うたやろ? 謙也がどっち信じるか。
 …あいつが俺にお前のトコ行けって…言うた。
 お前の勝ち」
「……蔵?」
「これで、夢なんてなお言うてみぃ?」
 一度、靴音が響いた瞬間、身体中が柔らかい温もりに包まれる。
 背中に回る、待ち望んだ腕。
 鼻をくすぐる、懐かしい、愛しい匂い。
 瞬間、空が明るくなった。
 昇った、太陽。
 開けた、明るい視界に微笑む、彼の顔がある。
「…はったおすで」
「……蔵?」
「…他の誰やねん。
 ……俺の対とか言うたら、…お前一生許さん」
 そっと千里の頬に触れた手が顔を傾けさせて、唇が重なった。
 夢かどうかまだ疑うのに、身体はついていかず強く目の前の身体をかき抱いて、唇を深く貪った。
 馬鹿みたいに何度も角度を変えて口付け、追ううちに二人ともその場に座り込んでいた。
「……蔵? 蔵ノ介……? ほんなこつ?
 …夢、やなかの?」
 そう必死に聞く千里が、子供みたいに泣いて、心細い顔で聞くから笑った。
「…夢やない」
 吐息のように答えて、肯定して、もう一度キスをする。
「…ここに、おるよ。…千里」
「……、」
「…これからは、ずっと一緒におる。
 お前の、抱きしめられる傍に、ずっと…。
 …お前の傍に、俺はおるよ」
「……蔵…っ」
 必死に、抱きしめるでなく蔵ノ介の胸にすがりついた巨躯が、震えて何度も謝った。
 泣きじゃくる声で、言葉にならないように、何度も。
 ごめん。殺してごめん。もうしないから、もうしないから傍にいて、と。
「…当たり前。…やから、傍におるよ」
「…っ、…ん」
 もう一度キスをされて、千里が顔を上げる。
 その顔にまたキスをして、微笑んだ。
 ああ、やっぱり、
「……遅れてごめんな」
「蔵がなんで謝っと…」
「……待たせてごめん。
 ずっと、ミルクもない珈琲飲んでてくれたやろ?」

 あの日、お前が全てを忘れる前、行った喫茶店。
 忘れても、俺のことだけは思い出すと言ったお前。
 嬉しくて、ミルクを忘れて飲んだ珈琲。

「…ただいま千里。
 …思い出したで。

 …愛しとる。
 ずっと、一生。…お前が好きや」
「…っ、…―――――――――――――!」

 そのまますがりつくように抱きしめて、また何度もキスをした。
 指通りのいい髪を撫でると、相変わらずの感触が指を撫でた。
 伸ばした手に、届く身体。
 返されるキスと、手と、声。

 夢が現実になる日を、太陽が昇る日を、

 それだけ願って疲れ切った心が、あっという間に癒されていく。



 愛してる。

 愛したいから、今度こそ一緒にいよう。愛されたいから一緒に行こう。




 もう、奈落は見えない。

 見えるのは、たった一人の笑顔だけ。






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