闇の中で震えていた 待っていたのは声? それとも、背中を撫でる手の平…?
「お前、なんて格好してんだ……?」 男子寮の一つ、フリーデリーケの一室を訪ねた跡部の用事はもちろん部活の要項をその部屋の住人に渡すためだった。 その部屋の住人の片割れは部で一年生ながら自分と同じく、中学時代の部長という功績をかわれて重職を担っている。 その部屋といえば白石蔵ノ介と千歳千里の部屋で、この学園の男子寮は決まって二人部屋だ。同じ中学だったもの同士が同じ部屋になるのはむしろ普通だった。 跡部が用事があったのは部屋のリビング、カーペット敷きの床に開脚の姿勢でぺたりと床に上体を添わせている、気味が悪い程身体の柔らかい男の方だ。部活で知っていたが、白石の身体の柔らかさはもう、身体が柔らかいというより骨があるのか、それは体操じゃなくヨガだろう、気持ち悪い、という領域だ。 跡部が申し訳程度にインターホンを鳴らして入ってきてすぐ、半眼になってしまったのは仕方ない。 ちなみに同室の千歳はその背中を押していて、ヨガだか体操だかを手伝っている。 跡部に、「なんば用?」と笑って訊きながら押す手は止めない。 「用がなきゃ来ねえ。しかし気味悪いな。白石お前、ゴム人間か?」 「えー?」 「開脚の姿勢で片足に上体添わせたまま首だけ振り返るな。気味悪ぃ」 「失礼やなぁ。千歳、もうええわ」 ありがと、と言われて千歳はん、と一言だけで白石から離れた。 白石は上体を起こして、ただの開脚になる。 「で、俺に用事やろ」 「千歳に用事ではねえな。…んなもん、五分もやりゃ充分だ。 俺が入ってきてから何分経った?」 「十分くらい?」 「充分過ぎんだよ」 「なに言うてん。風呂上がりのマッサージは念入りにせな」 「…お前、風呂あがったの何分前だ?」 「せめて何十分前って聞けや。ん、六十分前?」 「一時間やってんじゃねーよ!」 「うるさいなぁ…」 文句を言いながらも白石の顔は笑っている。 同じ部長職にあった人間にしては、白石という男は希有な程圧力を感じさせない才能があって、必要な時以外、それを見せない暢気な人柄だ。 そもそも今年は一番学年が下だから遠慮でもあるのだろうか。 「ほれ、プリント。明日までに整理しといてくれ。俺はあと幸村に渡す用事がある」 「そっか。すまん。ありがとな」 「いや…変なヨガを見せられてなけりゃ別に礼を言われることはしてねえ」 「ふうん?」 興味なさげに呟いて、白石は一つ欠伸をした。 「寝ろよ。もう消灯時間十分前だぞ」 「そうしたいけど、俺のベッド猫に占領されてん」 やっと開脚を止めて立ち上がった白石は、ベッドが二つ置かれている寝室の扉を開けて中を覗く。 「ああ、まだ寝とるわ。千歳、今日お前のベッド借りるわ」 「俺はどこで寝ると…?」 「床?」 「…せめて一緒に寝てくれくらい可愛かこと言えんのかねお前…」 千歳が呆れたように諦めたようにそう言ってしまうのは仕方ないだろう。 しかし、猫。 この寮は、(というか普通学生寮はどこでも)動物厳禁だ。 それが顔に出ていたのだろう。白石が笑って違う違う、と手を振った。 「敢えて言えば猫、な。区別すんならほ乳類ホモサピエンス生後十五年てとこ」 「…後輩が誰か泊まり来てんのか」 この寮は許可をもらえば外部の人間も泊まれるので、跡部は理解した、という風に呟いた。財前がな、と白石。 「家でよう寝れんのやろ。俺のベッド寝床にしに来よったん」 「大阪から東京まで…?」 「あいつ、今日全国模試で東京来てたんや。あいつもこの学校受けるらしいし。 泊めてください言われたらなぁ…」 「後輩はみんな可愛かねー」 「千歳、お前の場合は自分よりちっこい奴全部可愛いだけだろ。ぶっちゃけたら岳人も可愛いとか思ってんじゃねえのか?」 「ああ、向日くん? 確かに抱き心地よさそうたいね」 「すんなよ本気で」 「せんよ。スキンシップは同室の奴で有り余っとるたい〜」 言いながら千歳は抱きつくように白石の背中にのし掛かった。白石は重いと嫌がるかと思いきや、丁度いいとばかりにそのまま床にしゃがんでまた開脚の姿勢に戻ろうとする。せっかく千歳が自分から乗っかってきたから重しにしようと思ったのだろう。勝手にしてくれ、と思って跡部は部屋を後にした。 「あ、跡部さんいなくなったんや…」 跡部が去ってすぐ、寝室から現在中学三年の後輩が顔を出した。 「あ、起きたん?」 「さっきから起きてましたよ。横になったままやっただけで。 …いい加減やめてくださいそのヨガ」 「えーやって千歳がどかへんし」 「千歳先輩、あんまその人つけ上がらせんでください。来年迷惑になんの俺なんや」 「よくわかっとうねえ?」 「そりゃ、この人なにかと後輩の世話焼くん好きですもん。来年なんてまだ遠山おらんから俺がターゲットでしょ」 「よくわかってんなら覚悟せえ」 「イヤです。あ、千歳先輩は自分のベッド使ってええですよ」 「光はどこで寝ると?」 「俺と部長やったら二人で一緒に寝れんでしょ。部長と先輩やと危ないけど」 「ああ、そっか」 白石がその手もあった、と呟く。 その時またインターホンが鳴って、顔を見合わせた。 もう消灯時間だ。 消灯点呼だろうか。 白石が出ると、そこにいたのは違う寮生の甲斐裕次郎だった。 もう消灯だ。何故違う寮の人間がここに。 「あ、ちょっといい?」 白石の当惑を無視したのか、最初から感じ取ってないのか知らないが甲斐はそう言った。 白石は結果、当惑を引きずったまま曖昧に「ああ…」と頷いてしまう。 やった、と言って甲斐は室内に入ってきた。 「ちょっと匿って。今アニーに戻れないんだ」 甲斐はそう言った。アニーとは第三男子寮の通称だ。甲斐や木手たち元比嘉中のメンバーの大体はアニーに部屋を与えられている。 白石たち四天宝寺が籍だった人間の多くがこのフリーデリーケであるように。 「なんでやねん?」 「今、あっこ神隠し流行ってんの」 甲斐は声を潜めて言った、が笑っていたので信憑性をほとんど持たせられなかった。 「神隠し?」 「人がいなくなるっていうの?ほら、アニーと此処はさ、元々古い校舎の建て直しじゃん。 そういう怪奇現象が絶えないんだって。で、俺の同室の凛が今日外泊だから、こわくって」 「ほな木手くんの部屋に逃げればええやん」 「そうなんだけど、今アニーほとんど人いないんさ。ほら、工事」 甲斐の言葉に、ああ、と千歳が頷いた。 春から行われているエアコンの工事は大体の寮は終わっているが、都合でアニーだけ遅れていた。 今月末が工事の終わり目で、大抵工事は学生が授業で居ないときに行われていた。 だが業者の一方的な都合で学生が寮にいなければならない夜にまでずれこんで、アニーの寮生は他の寮に外泊したり、工事が済んでいる場所の学生は残ったり。 甲斐のいる部屋は終わっているそうだが、木手や知念の部屋は終わっておらず、仲間がだれ一人寮にいないらしい。 「正直、誰の部屋でもよかったんだけどさ、決めてなかったから取り敢えず適当にノックして、一番最初にテニス部の奴が顔出した部屋に泊めてもらおうと思って」 「そんでここか…ベッド空いてないで?」 「二つあんじゃん」 「今外部からの泊まりが来てん。そいつが一個使うから無理」 「じゃソファでいい」 だから泊めて、と甲斐。 あまり親交はないが、あまり無下に出来る性質では、白石も千歳も、ない。 特に白石は世話焼きで、世話好きだ。 結局白石は、シーツだけなら貸せる、と許可した。 財前は、一言「なんで室内で帽子」と室内でも帽子を被ったままの甲斐のスタイルにつっこんでそれ以上なにも言わなかった。 「具体的に、どないな神隠し?」 夜、起きたのは偶然だった。 時間を見ると、まだ夜の十一時半。 水を飲みにリビングに行くと、起きていた甲斐がぼんやりとしていた。 「うーん、なんか不良ばっかいなくなんだよな。今二人いなくなってる。 来週には警察はいんじゃない?」 「外泊届けなしの外泊とちゃうん?」 白石は目がさえてしまったので、甲斐に話を聞くことにした。 結構こういう話は好きだ。元々霊感強いたちなので。 「いや、携帯も財布もあるんだと、でいないんだと」 「……いきなり?」 「てか、トイレ行くって言って、いなくなったらしい。二人とも。 部屋のが故障してて、三階奥の公衆トイレ行って、そのまま」 「……いまいちようわからん」 「俺も」 「甲斐くん不良ちゃうやん。ちょっと悪っぽいけどな」 「遠慮ねえな。……」 甲斐がふと真顔になった。 その真剣さに、白石は一瞬ぎくりとしてしまう。 普段明るく、人懐っこいので真顔になると射るような目つきになる甲斐に見られるのは、馴れない。 「…そういや、凛が変なこと言ってた」 「平古場くんが、なんて」 「トイレ使った時…なんだろ、からから…って。カート? みたいな音訊いたんだと。 振り返ったら、なんもいないわけ。気味悪くて、そのまま用足さないで出たらしいけど」 「………平古場くんも、見た目不良やんな」 「ああ、髪が金髪で……」 言いかけて甲斐は気付く。 いなくなった二人も、不良という素行ではなかった。ただ染め髪が金だったりと派手だったからそう見られているだけで煙草を吸ったりはしていない、と部屋が近いから親しくはないが多少の素行は見える範囲で知っていた。 「…金髪の奴が狙われるってこと?」 「さあ、いまいちわからんし」 白石がそう相づちのように零した時だ。 携帯が鳴った。甲斐のだ。 「はいもしもし……………あれ幸村?」 幸村かららしい。幸村もアニーだった。 同じ寮同士でテニス部同士は、結構親交がある。 「は? 凛がいない? 凛は今日外泊だって」 甲斐は数回頷いて、急に立ち上がった。 「どないしたん?」 「ちょっと、アニー戻るわ」 「って、開いてないで?」 「幸村の部屋の窓開けておいてもらう。この学校の寮って全部学校の門の内側にあるから、寮の間には壁ないし」 「………なんかあったん?」 流石に、イヤな予感がした。別に、そんなに平古場と親しいわけではないけれど。 「凛、一度帰ってきたらしいんだけど。いないんだって。財布と携帯、部屋にあんのに」 欠伸をしながら財前もついてきた。 千歳も心配だ、と後を追ってきて配水管をよじ登る。 幸村の部屋は三階で、真田と同室だ。 窓をくぐると、起きていた二人がしーっと指を差しながら迎えてくれた。 見回すと財前以上にあり得ない人影が一人。 「…コシマエくん? なんでおるん」 「兄貴への用事に来たら掴まった」 リョーマは欠伸をかみ殺して答えて、すぐうとうとと瞼を降ろす。 訊くには、平古場の不在に最初に気付いたのが兄のリョーガのパシリに部屋に向かったリョーマで、それを幸村たちに報告したらしい。なので見捨てられないというより、気になって起きているのだろう。 「…部屋の外出て大丈夫か?」 小声で伺いながら部屋の扉をそっと開ける。廊下は薄暗い。 非常扉のランプが、遠くに見える。 「今警備員さん行ったとこだから、大丈夫」 幸村は道中、詳しいことを話してくれた。彼は甲斐より詳しく話を知っていた。 それは、通称カートを押す女生徒、と呼ばれている。 トイレに現れ、カートを押すからからという音だけが聞こえるという、ありがちな話。 かつて学校だった頃、給食がまだあった時代の生徒で、いじめを受け大型連休の前の日にトイレに閉じこめられた。 出られずそのまま連休明け、変わり果てて発見された彼女は、当初給食カートを三階奥にある給食カート用エレベータに運んでいたらしい。 だから、そこの傍でカートを押す音がするという。 「ごめんな、白石に来てもらって」 白石にも来て欲しい、と言ったのは幸村だった。 前から彼は白石の霊感の強さを知っていた。 「白石ならなにか感じるんじゃないかって。なにも感じないなら勘違いってことで」 「随分信用されたなぁ…」 「いいじゃないか。けど、具合が悪くなったら言ってくれよ。 あてられる場合もあるって忍足に訊いたからね」 小学校が一年間だけ同じだった忍足侑士は白石の霊感に詳しい。 対処もよく心得ていた。 「まあ、大丈夫やと思う」 言っている間にそのトイレにたどり着いた。 「まんま学校のトイレですね」 財前が感想を素直に言った。 普通の作りのトイレだ。ただ男子寮としては場違いなのが、女子用の個室がいくつも並んでいるということ。 「………なんも感じひんけど」 白石は中まで入って、しばらく辺りを見渡してそう言った。 幸村たちは誰か来ないかとトイレの入り口にいて、そうか、と答えた。 「一度部屋戻ってみません?」 財前がそう言ったのが聞こえた時だ。 からから … 不意に、白石の耳を掠めた音。 背後を振り返る。コンクリートの白い壁が見えるだけだ。 … からから … からから けれど、確かに聞こえる。 カートを押すような…。 そこまで思った瞬間だった。背筋を走ったのは、間違いなく、恐怖だった。 手が。 包帯を巻いている方の左手が、何かに掴まれている。 恐ろしいほど、冷たい。 見なくても、培った霊感が、生きた人間の手ではない、と教えていた。 それでも横を振り返ってしまったのは、怖い物見たさの性だったのだろうか。 そこに見えたのは、いつの間にか開かれていた個室。 個室の便座の上に座った、知らぬ制服の少女の腕。 その腕があり得ない長さに伸びて、白石の左腕を掴んでいる。 ごくりと喉が鳴った。 なんとかしなければ、と思って不意に懐の存在を思い出す。 墓入札。 亡き祖父のお守りの、形見の呪い具。 常に肌身離さず持っているそれは、生前祖父が愛用したなんの変哲もないトランプのキーホルダーで、霊感体質で憑かれやすいこともある白石はこれを手放してはいけない、とその祖父の妻だった祖母に言い聞かされていた。 それを取り出そうとして、失敗した。 指が微かに震えていて、取りこぼして冷たいタイルの床に落ちてしまったのだ。 かつん、と音が狭い室内に響いた瞬間、白石の意識はなくなっていた。 「だから、普通に風呂入ってただけ!」 入り口で白石の身に起こったことなど知らないメンバーは、いなくなった筈の平古場を見つけて甲斐が問いただしている最中だった。 「シャワーの音はしなかったって…」 「もったいないから切っとくだろ…頭にシャンプーつけてる時は…」 「…勘違い」 「というか早とちりだな。でもよかった」 「では部屋に戻ろう」 真田が言って、トイレの中を覗き込んで、言葉を失った。 「……財前」 背中を向けたまま問われて、財前は首を傾げながら答えた。 「白石はお前の横を通ったか?」 「…いえ、出てないでしょ」 「…なら何故いない」 「……」 真田の言葉に、目を一度見開いた後輩が室内に飛び込む。 洗った後の水の溜まった箇所に靴が触れて、ぱしゃりと響いた。 開いたままの一つの個室。誰もいない室内。白石が出たところなんて、見ていない。 茫然とした後輩は、一点を見つめて真っ青になった。 床に落ちた、トランプのキーホルダー。 白石が形見だと、大事に持っているものだ。 駆け寄って拾って、財前は青ざめた。 「少し落ち着いたと」 幸村と真田の部屋。騒ぎに起きてきた跡部も交えたリビングは明るく電灯がともっている。 あの後軽くパニックを起こした後輩を宥めた千歳が寝室から出てきた。 「そういや、白石が言ってたけど」 「なにを?」 甲斐の言葉に受け答えたのは幸村だ。 「金髪の奴ばっか狙われるって。…白石も、染めてはないけど金に近いよな」 「…そういえば」 「駄目だな、携帯は圏外だ」 跡部が耳に当てていた携帯を折り畳んで言った。 「…どこ行ったかわからんってこと?」 「ああ」 「………」 静寂が落ちる。 不意に千歳が顔を上げた。 「跡部、それPHSの方でも駄目と?」 「…?」 「ほら、消灯前、白石に資料と一緒に連絡用に渡しとったPHS」 「……確かに、あれは衛生とも繋がってるから」 跡部がその番号をメモリから呼び出す。 「……」 「どう?」 「…イケるかもな。コールが鳴り始めた。少なくとも圏外じゃねえ。 あとは、白石がこのPHSを身につけているなら、の話だ」 跡部の言葉に、周囲は無言になって、待った。 そのコールが、人の声で途切れる瞬間を。 →後編 |