もう一度メリークリスマス

第三話−【禁断の林檎−キミが思い出になる前に】





 SIDE:15 Year



 白石が消えて、一日が経った。
 俯いたまま寝台に座ったままの謙也を見遣って、千歳は小さく息を吐いた。
 あの白石の弟を名乗る少年はいつの間にかいなかった。
 ご飯買ってくる。全員ごちそうになるんは悪か。と言って謙也の家を出た。
 謙也の家には自分と、財前と金太郎が泊まったので。
 玄関をくぐって、門に向かったところで、見覚えのある姿に、一瞬反応が遅れた。
 彼の方が気付いて、聞き慣れたテノールが千歳を呼ぶ。

「千歳?」

「…しら…」
 最後まで呼ばないまま、千歳は白石の手を引っ張った。
 謙也に会わせなければ。無事だったと。
 白石も、謙也の家の前にいるということは、謙也に会いたがっているからだ、と。




 千歳に連れられて、謙也の部屋に入ってきた白石を見て、茫然としてすぐ、謙也は涙を零した。
「…しら…っ…よか…っ」
 白石を抱きしめることすら出来ない程、安堵に身体を震わせる謙也を見下ろして、白石は不意に言った。
「……なぁ」
「…白石?」
「…千歳がおるってことは……ここ、謙也たちが十五歳の過去?」
 白石の言葉に、言葉を失ったのは全員だった。
「過去、やんな? …俺の、未来の世界やない」

 淡々としすぎた白石が説明した未来と過去の自分の法則を、理解するまでに時間がかかった。
 理解したくないというような謙也に、白石は自分の両腕を見せた。
 醜く傷跡が走った両腕。そして、改めて見れば確実に自分たちの知っている白石より高い身長。
 信じるしかなかった。

「……心配しとったん? 謙也」
「当たり前やろ…」
「…そうか」
 気になった。説明が本当なら、白石はその閉じた空間を出て、初めて自分たちに、謙也に会った。
 なのに、彼は泣かない。喜ぶそぶりもない。
 淡々とあったことを説明するだけだ。義務とでも言うように。
「……白石」
 浮かんだ危惧を、謙也は堪えられず口にした。
「七年経って…俺のこと…嫌いんなったん……?」
 零された言葉に、白石はさして悩みもせず。
「嫌い…」
「白石!」
 咄嗟に叫んだ千歳の方を向きもせず、続けて言葉を紡いだ。
「……なんかな…。わからへん……」
「…え?」
「…俺、言った通り…俺一人しかおらん場所に…七年もおったから。
 …好きってどんな気持ちやろ…。嫌いってどんな気持ちやったっけ。
 …嬉しい…って、悲しい…ってどんな感じやろ…。
 わからんのや…。
 ……謙也に会うて…謙也が好きなんかも…謙也に会った瞬間…俺がどう思ったかも…。
 …俺、わからん。……嬉しいんか…悲しいんか……好き…なんか…わからんのや…。
 …謙也に……どう…言ったらええか…も……全然……なに言うたらええかも…、わからん。
 ……俺…謙也を好きかも…嫌いになったかも…わからへん…」
 涙一つ零さず、紡ぐ白石の声は変わらず淡々としているのに、今にも泣きそうに聞こえた。
 彼の感情は、凍ったように動かない。五年も自分一人の場所に独りぼっちで、白石の心は、どれが「嬉しい」かも「悲しい」かも、「喜び」も、「好き」も「嫌い」も、わからない。
 だから、謙也にどう接したらいいかも、わからないのだ。

 言葉を失った千歳たちの前で、謙也は涙を拭うと、場違いに笑った。
「…謙也?」
 いぶかしがった千歳を向かず、謙也は白石を見つめて、言う。
「なら、俺は諦めん」
「…謙也?」
「大丈夫や。白石。…もう、一人やないからな」
 不思議そうに見上げる白石を、謙也は微笑んでその視線を受け止めた。



 それから、謙也は毎日のように白石を至る所に連れ回した。
 千歳たちが付き合うこともあったが、大抵は謙也と白石の二人のことが多かった。
 ある日、人混みに連れて行かれて、疲れた白石が、初めて棘を含んだ声で言った。
「一体どこ行くん?」
 ずっと人のいないところにいた白石には、人混みは気疲れしかしないのだ。
 しかし謙也は笑った。
「お前を疲れさせるためやから、目的地はないわ」
「は?」

「で、お前が今感じてる気持ちが『腹立つ』って気持ちな」

 覗き込まれて言われた言葉。白石はきょとんとして、胸に手を当てた。
 そういえば、こんなもやもやとして仕方ない気持ちは、ずっと感じていなかった。
「謙也?」
「これから、俺が教えたる。お前がわからんくなった気持ち全部。
 好きも嫌いも、嬉しいも悲しいも。
 覚悟せえ。俺が教えてやるからな」
 もう、そんな風にクールぶってられんで。
 そう笑う謙也の顔が、久しぶりに見た気がして。
 ずっと、感じていなかった、暖かい気持ちが胸に宿って、堪らない感覚に、白石はくすくすと笑みを零した。
「謙也…お前、やっぱ変」
「それが『楽しい』や」
「…あ」
「な?」
 笑いかけられて、宿るように、浮かぶ心。
「…」
 いつも通り言おうとした。
 いつものように。
 けれど、それが胸に込み上がる暖かい思いに遮られて、声は震えた。
「謙也の…癖に…生意気や……、…っ……」
 世界に帰って、初めて頬を伝った暖かい涙に声を滲ませた白石を、謙也は抱きしめてくれた。




 ある日だった。
 千歳たちが集まっているテニスコートに白石を連れて行った。
 金太郎にせがまれて応じようとした謙也が、すぐハッとなって白石を振り返った。
「いや、やっぱ、止めようや…」
 謙也の言葉に、すぐ千歳が気付いて、財前たちに眼をやった。
 この白石はテニスが出来ないのだ。
「…ええ」
「白石?」
「みんながテニスするん、見たいから、やってくれ」
 そう微笑んで言った白石を驚いて見遣った後、謙也はすぐ白石の真意を悟って、千歳たちにも促した。
 察しのいい千歳もわかって、金太郎を促す。
 すぐ目の前で始まったラリーを見るために、白石はベンチに座った。
 隣に座った謙也が、手を握ってくれた。

 心地のいいインパクト音。
 コートを走るシューズの音。
 ラケットが風を切る音。

 けれど。

 今はろくに力も入らない自身の腕を握りしめた。

 この腕はもう、あのインパクト音を感じられない。
 コートを走れても、この腕はラケットを振るえない。
 ラケットにぶつかるボールの感触を、この腕はもう一生感じられない。

 そんなこと、もう昔にとっくに精算した筈のことだった。
 もう、俺はテニスが出来ない。そんなこととっくに。
 けれど。

 もう、あのコートに、自分は立てない。
 走れるコート。走れる足。けれど、この腕はもう二度とラケットを持てないんだから。

 胸に溢れた思いに、逆らわなかった。
 頬を、あの日とは違う、冷たい涙が伝う。
 すぐ嗚咽になって、喉が震えた。
 泣きじゃくりながらそれでも、コートを見つめ続ける白石の手を、謙也はずっと握っていてくれた。
 謙也はわかっていた。
 自分がテニスをするみんなの姿を見ることで、「悲しい」という、「辛い」という気持ちを取り戻そうとしていたと。
 そして、気付いた。
 それは、ずっと、リアルじゃなかった、彼への気持ち。



「謙也」
 謙也の家の門の前。
 立ち止まった白石の方を向いた謙也に、微笑もうとして失敗した。
 歪になった笑みのまま、わかった、と言った声も掠れていた。
「……俺、謙也が…『怖い』んや」
「…怖い?」
「……ほんまは、…お前と話すうちに好きって気持ち、…取り戻してたんや。
 気付かんかっただけで。
 暖かい気持ちは…全部お前への好きって気持ちで…俺は、今でも…呆れるほど…お前が好きなんや…。謙也が…世界で一番……好きなんや……」
「…白石」
「けど、わかっとったから。
 お前は謙也や。やけど、俺の「謙也」やない。
 お前にはお前の「白石」がおる。俺が愛したら、お前はアカンから。
 やから、お前への気持ちは、どっかリアルやなかった。
 …けど、…悲しいを思い出して、堤防決壊するように…わかった」
 門に手を置いた白石の手が、揺れる門に合わせてきぃと動く。
「…俺、謙也が怖い。
 謙也に会って…謙也が俺以外を選んでたらどうしよう。
 俺を既に諦めてたらどうしよう。俺以外に笑ってたらどうしよう。
 俺が既に謙也にとって、好きやなかったら…。
 …そう思った。
 やから…謙也に会いたい。やけど…怖い。
 …好きやから。どうしようもないくらい謙也が大好きやから…ッ。
 …謙也が怖い……!」
 身体を揺らして泣きじゃくる白石の高い背を、謙也は抱きしめた。
 広い背中を撫でてやる。
「…大丈夫や」
「……謙…也?」
「俺が保証する。
 …俺が、忍足謙也が…白石蔵ノ介を諦めたり、嫌いになったりするはずあらへん。
 俺は、一生、お前が好きなんや。
 一生、かわらへん。
 …俺は「白石」が好きや。

 やから、未来の俺もお前を思っとる。
 大好きや。白石。
 ずっと、…忍足謙也は、白石蔵ノ介を愛しとる。
 …約束…ううん…誓うわ」
 微笑む顔は、幼いけれど、あの日別れた、自分の大好きな謙也。
 初めて謙也の背中に手を回した。
「…ありがとうな…謙也」
「…白石も、ありがとう。…俺を、好きでいてくれて」


 帰るから。
 会いに行く。
 だから、もう一度、笑って、「白石、大好きや」って、言ってくれ。







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