三日月が見える。 それは冬の晴れ渡った、切り裂くような空気の中での星空だ。 障害はなく、肌を苛む風は容赦がない。比例するように、純度の増す夜空の輝き。 光る石が零れて涙を流す。続けてまた一つ。知らん顔で瞬く月。 雲は、ない。 「手紙、誰からのです?」 低い少年の声が疑問を投げた。 広く、細く伸びた背にそれを受けて、白石は振り返る。 風邪引きます、と。少年の言葉に苦笑して、開け放していた窓を閉める。 小さく音が響いた。真夜中では些細な音すら響くが、気付いても気に留めるモノはいないだろう。そういう街だ。 硝子越しに、真っ黒の影と化した森が見えた。怯えるようなものではない。 この大陸を分断するような大きな森は神聖なモノで、だからこそそれを伐採する者は居ない。 魔力の満ちた大陸で、古い樹木は魔力の傍らを意味する。 「言わずもがな。判ってて訊くんや?」 「やっぱり行くんですね」 几帳面に片づいた机。一つきりの大きな寝台に胡座をかいて、座っている少年は如何にも生意気そうに口の端を上げる。 緩い足取りで近寄り、寝台の脇に腰掛けるとすり寄る猫のように首に手を回す。 「…光、まだ読み切ってないんやけど」 「嘘吐き。目が止まってました」 「変に鋭いなぁ」 「その方がお得でしょ」 拒まない白石は、本当に手紙は読み終えてしまったようだ。 「行くんですか?」 「まあ、な」 金切り声がする。 それは、馴染んだからこそ、怯える必要のないモノだ。 西大陸。 幾重にも重なった雲が白く、黒く影を落として横切っていく。 高い青い空が表すのは、嵐が過ぎ去った夏の世界だ。 尖るように天を刺す山脈と、折り重なったような薄水色の空の端。 ぽっかりと片側に浮かんだ白い月は、丁度半月だ。 森と川に四方を囲まれ、佇む城は堅牢。 全てに拒絶を示すように有り、高く下界を見下すように臨む。 彼の私室は上から数えた方が早い位置に存在し、それは一般兵には立ち入れないような禁止区域。両開きの扉の向こうには見張りもいるが、訪れる人間にも限りがある。 例えば仕えるべき国王陛下や王子。それから高官。そして特別許可を受けた人間。 例を挙げれば、恒例ともなった今回の交換留学生。その青年だ。 噂をすれば、――――――――皮膚越しの骨が木の扉を叩く音が彼の思考をそこで妨げる。見張りに否やがないのなら、それは極一部立ち入れる人間だ。 言葉少なに入室を促すと、両開きにも関わらず、右の扉だけが腕を広げて見せた。 絨毯の引かれた部屋に足音もなく靴を降ろす、明るい髪色の青年。 「…謙也」 彼の背後で閉まる扉を目の端に、部屋の中央にある長椅子に座るよう促す。 「暇そうやな。問題があったんちゃうの?」 からかうような笑いが耳について、彼は再び溜息を繰り返した。 今年でもう二十年目になるか。魔法に満ちた東大陸。この西大陸への安全な航路が発見されてから五十年。 様々なモノの輸出、輸入に混じって、西大陸の人間が希望したのが魔法使い<ウィザード>の存在だ。元は定かでないが、西では滅多に見られないソレは魔力に満たされた東の産物そのものだ。 西の主流が剣なら、東は魔法と銃器。 東大陸中部に存在する魔法学院のみが世界で唯一、魔法使いを養成する機関であり、世界各地の魔法使いを束ねる中枢だ。二十年前、その、魔法学院との交換留学制度が確立。 枠は西大陸の各国に対し一名から二名、期限は一年。 当然交換なのだから、こちらからもそれに見合う将来有望な人材を留学させる。 これは以前までは極めて上手くいっており、員数の枠を広げようと言う意見もあった。 ――――――――そして、謙也は西の人間で、前期の交換留学で一度東に渡り、西に戻ってきた。 交換留学生以外、魔法使いは西に来ない。 そして、謙也の帰国後、およそ一ヶ月で西と東の関係は悪化し、今は戦争の前触れに静かだ。 国王は、それを予見して、謙也を早く帰国させた。謙也はこれで、王の子息にあたる。 「てか、マジなん?」 「なにがね?」 「今日、来るっちゅう東のウィザード。 つまり、人質。人身御供やん?」 「ああ…」 「お前、関心薄いで千歳。一応うちの宰相やろ」 「あー…」 この部屋の主。東の国家の宰相、千歳千里は殊更王子である謙也に気に入られている。 曖昧に笑うと、謙也は更に訝った。 「内緒ばい」 そう言う声が、想像以上に冷たくなって、謙也は身を竦ませた。千歳は遅れてしまったと思う。 「ごめん」 「いや、ええ」 半月まえ、東と国家間良好化の再案が出された。 そもそも、東と国家間が悪化したのは、東のウィザードの独占にある。 いくら、東でしかウィザードになる資質が産まれないとはいえ、彼らは西でも力を生かせる、と言う西を東は一蹴した。 『彼らは我らの財産で、貴国のものではない』 向こうの王の言葉だ。 それにキレた国王が、開戦を宣言した、が、向こうからの申し出と、官僚たちの宥めもあり、国王は国家間を再び結ぼうという気になったらしい。 そのさきがけに、東は、東の王が寵愛する魔法使いを寄越す、という。 才に長けた魔法使いだ。出来ないことはない。西に尽くすよう、頼んである。 そう、王は言った。 だが、今も国家バランスは危うい。そんな中、西に来て、途中でまた国家間が悪化したら、即人質か、処刑になる憂き目の魔法使い。 それでも自ら志願するのは、自殺志願者か、あるいは余程の自信家か。 「…」 「千歳?」 「なんでもなか」 扉が再びノックされる。 「はい」 千歳が返事をすると、向こうから見張りが「東からの魔法使い様が見えられました」と声を張り上げ言う。 「通して」 見張りの返事と、合わせてすぐ扉は開く。 そこに立つ姿に、謙也は息を呑んだ。 千歳は、泣きたくなった。 美しい白金の髪と、翡翠の瞳。ひどく整った造作の、美しいが、間違いなく男。 中性的な美貌は、だが、少女じみたものではない。 はっきりと性が伺える、男前に近いものだ。 「………はじめまして。東の魔法使い、白石蔵ノ介と申します。 宰相閣下。王子殿下」 頭を垂れた彼は、顔を上げると、未だ固まった二人を見て首を傾げた。 軽く不機嫌そうに。 「返事を、していただけないと、困ります」 返事なんか、したくなかった。 どうして、来たんだ。 『千歳? 千里?』 『どっちでもよかよ』 『じゃ、千里』 自分は、四年前に交換留学生として、東に渡った。 そこで出会った、美しい魔法使い。 王宮が留学生の住処だったから、彼とは頻繁に会った。 『俺、今日聞いた』 『なにをや?』 『蔵ノ介が…』 彼は、余計なことをと呟いた。 彼は、東の王が寵愛する、最高の魔法使い。 同時に、東の唯一の、王子だった。 『もう少し、ただの魔法使いとして話したかった』 『俺は気にばせんよ?』 『………』 もう一度、『な?』と笑うと、彼は嬉しそうに笑う。 『ほんま?』 けれど、ひどく気になることがあった。 彼が使う言葉は、西の言葉だ。何故、東の王子が。 思えば、彼を愛しく思っていたからこそ、気になったのだ。 でもまだ、気付かずに聞いてしまった。 帰国する日、聞いた俺に、内緒だと彼は言う。 『俺は、ホンマは西の王家の人間なんよ。 そっちの王子様の、従兄弟やな。 死産したのがいたやろ?』 いた。謙也の従兄弟で、死産だった子供が。 『うちの王が、そっちの王家の宰相を買収して、根回しして、取り替えた、らしい。 命令やと。「魔法の資質を持つものは、東で産まれる。それを覆してはいけない」から、西で産まれたのに、資質を持つ俺を…。そういうことやな』 秘密にしようと思った。だって、誰のためにもならない。 ばらせば、彼を奪い返せるとか、そういう問題じゃない。 ばらしたら、間違いなく戦争だ。 そんなことはしたくない。 離れている間に、不安は気持ちを蝕んで、自覚した気持ち。 制御出来なくなった。俺は、すぐ国王に告げた。 元宰相は処刑され、俺がその後を継いだ。 国王に、再び同盟を結ぶつもりはない。 うまく向こうが寄越す魔法使いを彼にして、取り戻したら、即刻東を滅ぼす。 そういう魂胆だと、わかっていて、俺は手配したのだ。条約を。 来て欲しかった キテホシクナカッタ 会いたかった アイタクナカッタ 形振り構わず、キミを欲しがったって、キミはどう足掻いても王子だ。 手に入るはずがない。 「…久しぶり、やね」 やっと、そう言うと、白石は困ったように笑う。 「初対面扱いしろや」 謙也一人が、意味がわからない顔だった。 その足に、いつの間にかそこにいた黒猫がすり寄った。 「こら、光。おいで」 白石の声に、黒猫は「にゃあん」と鳴いて、彼の腕の中に収まった。 「そいつは?」 「俺の友だちや」 「…はぁ」 謙也は不思議というか、反応に困っている。「猫が友だち?」という風に。 俺は、心臓が苦しかった。 白石が来たその日の、夜。 王は一応、会うのはまだ避けてくれたらしい。会ったら、彼をどうしてしまうか、わかっている。だが、王の愛情はまだ、正しいからいい。家族の愛情なのだ。 「ワイン、飲むと?」 自分の部屋に誘うと、白石は応じた。 広く、もてあます部屋は大きな寝台と、本棚だけだ。 テーブルすらない。寝台に腰掛けさせ、持ってきたグラスを手渡すと彼は受け取った。 「白?」 「赤」 「そう、よかった」 白石は赤が好みだと知っている。覚えてたんだ、という風に白石は微笑む。 「千里、ちょお背、伸びた?」 「少しな」 全然勝てない、と白石は言うが、悔しそうじゃない。 「にしても、殺風景やな。宰相閣下。なんか置けや」 「他にいるもんなかし」 「そぉかぁ?」 「うん」 「…うちおったころは、荷物結構あったんにな」 「あれは、ほとんど着替えとかで」 口を付けたグラス。飲み干される赤い液体が見える。伝う唇が、光って見えて、目をそらした。 「…最初、お前、白持ってきて」 「ああ」 思い出して、笑いあう。 初めて会ったころ、好みがわからなくて、白を用意したら、白石に「聞けや」と一言怒られた。引きずるほど子供じゃなかった彼は、すぐ笑っていたが。 空気が、暖かい。 間の空気が、とても、心地よい温度で流れてくる。 つばを飲み込んで、千歳は寝台に置いた手を伸ばして、同じように置かれた彼の手を握った。 白石は、一瞬緊張したように強ばらせたあと、弛緩させる。 あんまりにも、鮮明に思い出せる。 初めてキスした場所も、抱いた日も。 でも、あの頃、遠すぎた存在だった。 知ったら、軽蔑する? 俺が、戦争を産んでしまった。 「もの、ないな」 「あ、ああ」 千歳の胸中に気付かず、白石は再度そう言った。 「なんせ、就任が急やったけん……」 前の宰相が処刑されたから、そう言う前にまずいと気付いた。 胸中から目を背けるために、言わないでいいことを。 けれど、見遣った白石は、穏やかに笑っている。 「ん?」 「…なんでもなか。とにかく、こんくらいがよかね」 「そうか」 柔らかく、頷いた白石は、そっと千歳の方を向く。 そして、手を千歳の首に回した。 「し」 「蔵ノ介、や」 「……蔵」 重なった唇は甘かった。すぐ、制御を失う気持ちがある。 手を掴んで、寝台に押し倒した身体。髪が、ぱさりと広がる。 頬を撫でると、手の平にキスをされた。 抱かれたあと、眠ってしまった白石を部屋に残し、千歳は扉を開けると、鍵をかけてからバルコニーに出る。 「隠れんでよかよ」 冷たく言い放った先、そこには一匹の黒猫。 「にゃあ」と鳴く子猫を、見下ろして低く嗤った。 「俺はお前を知っとう。今更やろ?」 猫は鳴くのをやめた。一瞬、その黒毛が光ったあと、そこに立っているのは、黒髪の少年。猫ではない。 「忘れとったら、後ろから刺すとこやったのに」 舌打ちをして、彼は千歳を睨み付ける。 黒い衣服に黒い髪、黒い瞳の出で立ち。 白石の、使い魔だ。 猫から、人に。自在になれるが、普段は猫の姿でいる。彼が、変化を解くのは、白石の前だけ。 「こわかね。俺、なんばしたと?」 「………わかっとらんで、言うてんなら、刺すでほんま」 「……、」 ここで、わかっていると言うのは、簡単だ。 俺が、白石を裏切った。 俺を信頼して、話してくれた彼を、裏切った。 光は、知っている。俺の罪を。 「…教えてくれ。なして、あいつがしらんで、お前が知って」 「蔵ノ介は知っとるわ」 断言されて、千歳は呼吸を失った。 「ただ、あんたの手前、しらんふりしとるだけや。 …気ぃつけた方が“ええんちゃいます”? 千歳“さん”」 わざと、俺に敬語を使った光の、真意をこの時、俺はわからなかった。 「あんた、いつか、蔵ノ介に刺されるかも。背後から?」 「……………」 わかっていても、同じ言葉を吐いた。 きっと。 「俺は、それで、―――――――――――――よか」 光は、一瞬傷ついた顔をして、猫の姿に戻ると白石の傍に向かった。 寝ている彼の傍で丸くなる。 伸ばそうとした手。叶わなくて、握り締めた。 →NEXT |