「永四郎〜」
引退前の九月始め。
浜辺で寝ていた木手に、そんな声がかかった。その日は部活が休みだった。
「ああ、平古場クン。なに、どうしたの?」
「ちょっとみんなで部室行ってくる。忘れもん」
「…俺も行こうか?」
「いや、いい。大丈夫」
「そう」
じゃ、ごめんなーと言っていなくなった平古場と、その隣に合流した甲斐たちを見遣って笑うと、木手はまた横になった。
「てゆーか、こんなに忘れるってありえねーし」
部室から持ってきた水中眼鏡やらの荷物を指して平古場は言った。
「まあまあ凛」
「永四郎、寝てるかなー…」
と、戻ってきた浜辺に目をやった平古場たちは愕然となった。
浜辺には一杯の観光客がいた。
…筈だ。
今、見えるのは浜辺一杯の、ウサギ。
「…え?」
「…なんだ。目がおかしくなった?」
「だったらすごいな、俺達揃って幻覚見てるのか?」
知念の言葉に、それもそうだと思う。
「あ、なあこれって一体…!」
少し離れたところでぽかんと見ている地元の大人を見つけて甲斐が声をかけた。
「さ、さあ…? なんか浜辺にいた人がみんないきなりウサギになって」
「…いきなり?」
「…って、おい裕次郎! みんなってことは」
青ざめた平古場がウサギの群を見て、顔を引きつらせた。
「…永四郎も………?」
「!?」
「…あ」
頭に浮かんだまさか、に思わず浜辺に向かおうとして、背後で首元を掴まれた。
「どうしたの」
「…あ」
木手!という甲斐の声がやけに遠くに聞こえた。
「…永四郎」
「…見てのとおり無事ですよ。タイミングよく自販機に行っていたのがよかったらしく」
「…よかった」
目を見て言った知念に、まあそれはともかくと照れた木手が俯いた時だ。
その身体がずるっと滑った。
「うわ永四郎!?」
「すいませ…大丈夫…」
腰をついてしまった道路から立ち上がろうとして、木手は固まった。
「……木手?」
平古場も甲斐も、固まった。
なんとか立ち上がった木手が、自分より遥かに高い甲斐たちを見上げて、呟く。
「…キミたちが大きくなったの?」
「お前がちっちゃくなったんだ!」
木手の姿は、七歳くらいの子供に縮んでしまっていた。
あの事件はニュースに当然なったが誰も原因などわかるはずもなく、そのまま夜が訪れた。
「…とりあえず、布団ないから一緒に寝よう」
家に帰るわけにいかず、知念の家に泊まることになって、招かれた寝台に普通にあがった小さな身体がまだ信じられない。
知念の隣に収まる、小さな身体。
「…本当に小さいな」
「嫌味ですか」
「いや…ただホントに」
「………」
「…ごめん」
拗ねたのかと思って謝ると、笑っていい、と言われた。
「別に。…拗ねたりしません」
微笑んだその、可愛い笑みに伸びた手が髪を撫でて、それで止まった。
「…今の永四郎に手を出したら、洒落じゃすまないな」
「……ああ」
「…おやすみ」
「………」
くすりと笑う気配がする。
「おやすみ、知念クン」
眠りはすぐ訪れた。
最初に気付いたのは、知念ではなく甲斐だった。
「うわっ…と」
普段のように練習を見ていた木手の、今はとても小さな身体を支えて、間に合ったと一言。
「考えたら、今の木手って七歳くらいなんだから…。
この炎天下でずっと立ってる体力ないって」
どうやら気付かず眩暈を起こした木手を支える腕に寄りかかったまま、木手が今気付きましたと掠れ声で呟いた。
「すいません…いつもの調子でつい…。自分の体力がわからないみたいで」
「いやいい、いい。知念くーん。見てて」
「わかった!」
「って今歩けないよな、…掴まれ」
「あ…」
小さい身体を抱きかかえると、酷く焦った顔をしていた知念のところまで運んだ甲斐が、はいと意外と馴れた手つきで知念の大きな腕の中に渡した。
「馴れてますね…」
「ちっちゃい子いるし、家に。じゃ、知念くんちゃんと見てて」
「うん。永四郎、こっちの木陰」
「はい…というか運ばれてるのに俺の意見は必要なのかどうか…」
「まあ…今の永四郎はちょっと、…なんだろう。………弟の面倒見てる気分かもしれない」
「まあ、そうでしょうね…」
「でも永四郎は嵐より手はかからないし」
「…それはキミの弟に失礼でしょう」
知念の横のベンチに座っている木手の足は地面にすら届かず、ぷらぷらとサンダルを履いた小さな足が揺れる。
「いやでも、嵐より可愛いし」
「……それは褒め言葉?」
「一応」
「そう…」
「…でも新鮮かもな」
「え?」
「俺は永四郎に会った時、もう中学入ってたし。
声変わり前の永四郎の声聞くのは新鮮」
「…ああ、そういえば今、声も高いんでした…」
「あはは」
「……キミは逆に俺の今の歳でも大きい気がしますけどね」
「否定はしない」
「しましょうよ…」
溜息を吐く仕草もみんな変わらないのに、自分が見てきた木手永四郎のままなのに。
「知念クン?」
その幼いだけであどけない横顔も、簡単に折れそうな小さな体躯も、自分の手より二周りも小さい手も足も、高い声も。
なにより、それが自分が知らなかった頃の彼の姿だというだけで。
その手を取った。意図がわからない木手はきょとんと見上げて、簡単に掴まれた細い手をされるがままに預けている。
「今の永四郎に手を出したら洒落にならないって言ったしな、昨日」
「…まあ、言いましたよね」
「口にキスだけでも多分やばい」
「…でしょうねえ」
「だから」
そのまま持ち上げた手に屈んで、手の平にそっとキスをする。
「……え?」
まさかそんなことをされるとは思ってなかった木手が思わず理解が遅れてぽかんとしたのも構わない。
「…でも、永四郎は可愛い」
「…え、ちょ。あの…っ」
理解した途端、上擦った声が漏れて、木手の顔が真っ赤に染まる。
遠目に見遣った平古場たちも、ぽかんという顔だ。
「…ち、ちね…っ」
「おい知念」
降った低い声と同時に頭上に拳が降った。
「っ…」
結構遠慮ない攻撃に知念が呻いた隙に、甲斐が木手をひょいと抱えた。
見ると知念に拳を落としたのはいつの間にか来た平古場だ。
「…なにする」
「なにするじゃねーよこっちの台詞だよ。
いいか。口じゃなかろーが、今の永四郎だと手にキスしただけでじゅーぶん犯罪なんだよ洒落になんねーよ幼児虐待だよ淫猥罪だよ。つか永四郎がびびってんのに気付けよ」
「…え?」
そこで初めて甲斐の手にうつった木手の顔を見遣る。
怯えてはいないものの、幼い顔には羞恥の色が赤く浮かんでいる。
「……ごめん。調子のった」
「…………いいえ」
「知念くんでも調子乗ることあるんだな…」
「つか、知念だって男だろ。恋人がそんなナリになってたらしょうがねえし。
正直俺らだって今の永四郎はやばいしな。普通に可愛いもんこいつ」
「…あー、わかる。このちっさい手足とかなー。あくまで子供への“可愛い”ではあるけど」
「俺らもやばいから、知念が拷問なのもわかる。だがそれと止めないのとは別!
ほっとくと永四郎が可哀相だ」
「うん。襲われてはないんだけどな…ここまで真っ赤になってんのは可哀相」
「…大丈夫か永四郎」
「……ちょっと、びっくりしました」
「うん、それはしょうがない…」
知念と離れたベンチでぼーっとしていると、後輩が不意にうろうろしだした。
「どうしたの?」
「あ、…えー…監督が」
後輩は今の木手に馴れないらしく、戸惑って辛うじてそう言った。
「早乙女監督? ああ、いませんね…」
「はい。ちょっと…」
「探して来ようか」
「え!? いや今の主将じゃ」
「そのくらいは体力あります」
言い切ってすぐコートを出た。いいのか!?という視線の後輩がすぐすがるように先輩を捜したが木手は案外足が早く、すぐコートの外の通路を歩いている。
「心配しすぎですよね…。監督呼ぶくらい出来ますよ…普通の七歳でも」
歩き馴れた道を歩いていると、頭上から日差しを遮る木々の葉の影が降った。
(でもずっとサンダルは歩き馴れないかも…)
今の身体にあう靴を買うわけにもいかないから、仕方ないが。
その時、背後から騒ぐ声が聞こえて、誰だろうと思った。
部外者だろうか。今は夏休みで、部活以外の生徒はいない。
振り返る前に声がかかった。
「ああ、そこの子ー!」
「はい…?」
何気なく振り返って、木手は思わず名を呼びそうになった。
知らないなら呼びそうになる名も知らないが、思い切り知っている顔だ。
びっくりして後ずさった木手を人見知りしたと勘違いしたのか、声をかけた青年の後ろから穏やかな声が遮った。
「ほら、英二。いきなり声かけるからこの子びっくりしてるよ?」
「あ、ごめん」
(…青学の菊丸クンに…不二クン…? というか向こうにいるのは手塚たちじゃ…)
何故沖縄に、という視線に気付かないのか、不二はにこやかに笑うと、木手と視線をあわせるためにしゃがみ込んだ。
「ごめんね驚かせて。地元の子?」
「…あ、はい」
とりあえず今の声なら気付かれないだろうと返事をする。敬語も、年上に使うなら普通の筈だ。
「ボクたち東京からちょっとお友達に会いに来たんだけど、場所わからなくなっちゃったんだ。わかったらでいいんだけど、聞いていいかな?」
「…わかる範囲でよければ構いませんが」
「うわ、ちっさいのに丁寧な子だねー。おチビに見習わせたいにゃ〜」
「…本土の俺くらいの子は違うんですか?」
「違う違う! キミみたく敬語使ってくんないね!」
「英二、」
「あ、ごめん」
「いえ…」
「あ、で、ここは沖縄比嘉中…で間違ってないかな?」
「はい。正確には、坂の向こうの門から向こうがそうです」
「そう。で、今の時間、比嘉中のテニス部の人たちはいる?」
「………テニス部の人たちに用事なんですか?」
「うん。友だち。ちょっとね」
「……青学と友だちだなんて話は初耳ですけど」
「え?」
「あ…」
(しまった思わず…)
「キミ、ボクらを知ってるの?」
「いえ…テニス部の……人たちが録画した試合、見せてもらっただけで」
「キミ、テニス部の誰かのきょーだい?」
「い、いえ…」
「どうした?」
「あ、手塚」
うわよりによって手塚が来なくても…という内心の木手に構わず、見下ろした手塚がしゃがんで、首を傾げた。
「誰かに似ているが…」
「…ああ、もしかしてテニス部の誰かがお兄さん?」
「…え、と」
(聞かれても…それは似てる筈だ…!)
木手永四郎本人なんだし!と言うわけにもいかない。
困り果てた木手の背後でした足音に、すがるように振り返って、見上げた長身に安堵した。
咄嗟にその腰にしがみつく。
「あれ、…知念、くんだっけ?」
しがみついて来た木手を受け止めながら、知念はそう、なんでいる、と不二を見下ろした。
「いや、ちょっと観光。で、ついでにキミたちと試合出来ないかなって来たんだ。
その子、キミの弟さん? 手塚が誰かに似てるって言うからさ、誰かの弟かなって」
そしたら怯えられちゃった、と笑う不二の言葉に理解した。
「そう。俺の弟の四郎。よく遊びに来るから。…あまり怯えさせないでくれ」
俺達と違って本土のヤツに馴れてないんだ、と知念。
「ああ、そうだよね。ごめんごめん。君たちみたいに図太くもなさそーだし。
ごめんね四郎くん」
「…いえ」
「どしたの手塚? 眉しかめちゃって」
「いや…何故だか…知念とは違うヤツと似てると思うが」
((意外と鋭いな…))←木手と知念
「誰に似てようがいいだろう。で、試合? 俺達じゃ判断出来ないぞ」
「木手は?」
「永四郎は今沖縄にいない」
「いないの?」
「あいつ、道場の跡取りだから、親戚の家に行くこと多いんだ。
それで九州によく行ってる。今も」
「あ、そっかー…どうする、手塚」
「とりあえず、コートだけ見て構わないか?」
「…それくらいならいいが(そして意外としつこい…)」
その後、おとなしくコートだけ見ていった手塚たちを、平古場たちもぽかんと見ていた。
甲斐が、電話で木手に試合していいか聞いとくから来れたら明日来いと言って、頷いた彼らはそれなりに長く滞在するらしかった。
次の日から彼らは来た。
甲斐は「木手がいいって」と伝えたからだ。木手自身、賛成ではあった。
沖縄という選手層の薄い地域で、青学レベルの選手とはそう戦えない。
だから手塚たちがいなくなった後、許可したことにしてくれと言った。
やることもなく試合を見ている(審判しているとまたすぐ眩暈を起こすので)木手を、気になっていたのか手塚がやってきて、隣いいかと伺った。どうぞと答える。
「知念の弟だったな」
「ええ」
名前聞きましたよね?という木手は手塚たちがいる場所では皆に「四郎」と呼ばれている。「兄さんが言ったでしょ?」と言うと、多少いぶかしげにしながら、ああ、と隣に座った手塚が頷いた。
「なにか?」
「いや…やはり、別の誰かに似ている気が」
「しつこいな…」
「すまん…」
思わず漏れた本音にも謝る手塚に、不意に新鮮になった。
「…そんな素直に謝らなくてもいいんじゃ…小学生相手に」
「いや、そういうわけにはいかないだろう」
(思った以上に真面目な…)
「ええと」
「ああ、手塚国光、だ」
「手塚、さん」
「ああ………………………」
「?」
「中学三年生だ」
「知ってますよ馬鹿ですかあなた」
思わずとはいえはっきり言い切った木手に、菊丸や不二、平古場たちまで視線を向けた。
「……そうなのか?」
「兄と同じビデオに映ってる時点で大会の試合相手だとわかります。
あとは消去法ですよ。あなたの外見でまず一年はないから、二年か三年と考えますし。
あと「部長」と呼んでた人がいました。=中学三年生だってことは七歳の頭ならわかります」
「…そうだな。すまん。ボケた」
「というより自分の外見年齢に過剰反応してるだけじゃないですか」
「…そうだな。多分」
「うわー、知念ー、お前の弟しっかりしてるなー。
手塚に怯えず馬鹿とか言えちゃう子供初めてみた俺ー」
「…まあな」
菊丸に答えながら心の中で「永四郎だから当たり前だがあの外見でやられると俺たちもびびる…」と思う知念が同意を求めるように平古場たちを見ると、わかってくれたのかうん、と頷かれた。
「……ああ、そうだ」
「はい?」
沈黙していた手塚が、不意に手をぽん、と打った。
「…なにが?」
「お前、木手に似ているんだ」
「…っ」
(((((気づきやがったこいつ…!!!)))))←比嘉全員
「木手、さん?」
「ああ。…名前も似ているな」
「偶然です」
「…口調も」
「偶然です!」
言い切って、傍にいるとろくなことにならないと立ち上がった木手を遠目に見遣って、不意に柔らかい声が近寄った。
「あ、ねえ永四郎くん、不知火くんってなんで知念から離れてるの?」
「いつもです。彼は何故か知念クンが苦手で…」
思わず答えた木手が、言い終わる前に持っていたペットボトルを落とした。
しまった、という顔で固まる木手を見下ろして、声をかけた張本人の不二はにこやかに。
「うわー、ホントに木手くんなんだ。どしたの? ちっちゃくなって」
「…カマかけたでしょうキミ。ちょっと酷くありませんか」
「いやだって、手塚は人の顔間違えないからね! 才気あるしー」
「…え? 木手? あの子が?」
驚く青学陣と、頭を押さえる比嘉メンバーと、やたら楽しそうな不二を前に、木手は大きく溜息を吐いた。
「どういうトリック? ほんとちっちゃい」
有耶無耶に部活が休憩になって、木手の座るベンチを囲むメンバーに、大体のことを説明すると、そんなニュースもあったね、と言われた。
「でも、それなら弟くんのフリしてテニスやってもいいんじゃ」
「今の体力を俺すら把握出来てませんし、第一今の身体にあうラケットがありません」
「あ、そっか」
「家に帰ればあるんでしょうが…家には“合宿でしばらく帰らない”と誤魔化してますし…」
「そうだよね。家族には言えないか」
「しかし、見事に小さいな…。七歳くらいか」
手塚の言葉に、多分ね、と答えた。
「でも可愛いね。木手」
「つか、この年の子供はよほどすさんでない限り可愛いだろ。
まあ、違う意味でも可愛いけど」
「どういう意味? 甲斐」
「や、俺らみんな、中学上がる前の木手を知らないからさ。
新鮮ってか、感動」
「あ、そっか。みんな木手に誘われて会ったんだもんね」
「そういうこと」
「なあ、手塚…」
乾が不意に声をかけて、小声で話した。
手塚は考え込んで、そうだな、と小さく返す。
「木手」
「はい?」
囲みから解放された木手が顔を上げる。その傍に屈んで。
「今日、夜に会えるか?」
「なにか?」
「いや、この一件に関わっているかもしれないことを乾が掴んできた。
打開策がわからないなら、付き合ってくれないか」
「…ああ。はい、わかりました」
「じゃあ、夜の十一時。知念の家にいるんだったな…」
「いえ」
遮って、誰も聞いていないのを確認して言う。
「…比嘉中の校門で待ってますから」
「…」
「大丈夫です。知念クンたちもちゃんと誘います」
「…そうか。ならいい」
時計の針が十時半を指す。
大きな寝台で眠る知念を見遣って、小さく笑った。
「…」
嫌な、感じがする。
多分、キミを巻き込んではいけないから。
「…ごめんなさい」
言葉を一つ落として、寝台を降りる。
ベランダの窓から外に降りた。
サンダルの音が、遠く夜に響く。
→NEXT