REZET-リゼッタ-



*******************************************************************



 第十話【Side:白石と千里−夢に見たのに】






「けんや! じゅんびできたで!」
「おー、ほな入ろかー」
 自分できっちり用意した着替えを持った光を抱き上げると、謙也は湯を落としてある風呂場に向かった。
 風邪を引いてから二日。思ったより酷くなかったらしく薬を飲んだらあっさり治ってしまった。
「風呂入るん?」
 リビングから様子を見に来てくれている従兄弟が心配して顔を見せた。光が一瞬警戒する。
「ああ、もう大丈夫」
「そか。ゆっくり入ってき。ご飯用意しとくから」
「おおきに。……侑士」
 謙也は光を抱えたまま、数歩バックして侑士の肩を強く掴んだ。
「その間、白石のとこ行くなや?」
 謙也の声と顔がドス黒くなったことに、腕の中で光がびくう!と震えたが、謙也は侑士をじっと睨んだままだ。侑士は優しい笑みを浮かべると、首を傾げる。
「俺、鍵もう返したし。入れへんわ」
「…なら、ええけど」
 謙也は声と顔を元に戻すと、侑士に念を押してから風呂場に消えた。
 侑士は丁度温め終わった料理をレンジから出すと、テーブルに並べて、それからポケットから一枚のカードキーを取り出す。
「なんて……俺が普通に返すはずないやん?」
 そうもう聞こえない従兄弟に囁き、侑士はダイニングを出た。






「けんや、けんや」
 湯船に浸かった謙也の頭にのっかっている猫を支えながら、謙也は「ん?」と伺う。
「あいつ、なんのはなし?」
「…?」
 猫は水と熱いのが嫌いというが、キメラには当てはまらないらしい。
 光は風呂が好きだ。ただ、足の着かない湯船にすぐ入るのは怖いらしく、しばらく謙也の頭にタオルを巻いて乗っかっている。もう良いだろうと招くと素直にするすると謙也の腕の中に降りてきた。抱えて湯船につけると、「ふ――――――…」という気持ちよさそうな声。
「侑士やろ?」
「うん。けんや、みたことないこわいかおしとったで」
 謙也の腕の中で、光は真似ようと険しい顔をするが、元々が可愛らしい造作だし子供だしで、全然怖くない。謙也は首を傾げつつ、「まあ、ついな」と言葉を濁す。
「ほら、前に会った兄ちゃん。白石、わかる?」
「わかるで」
「あいつのな……」
 教えようとして謙也はすごく迷った。
 言葉だけなら簡単だが、まだ三歳の光には理解は難しいんじゃないだろうか。



 ――――――――「元彼なんや」っていうのは。








 まあ鍵は返してもらったし、大丈夫だろうと白石は高をくくっていた。
 しかし、千里を寝室に残し、トイレに行こうと廊下に出て、その認識が相当甘かったと知る。
「よう、蔵ノ介」
「……ゆ」
 廊下にゆったり足を組んで立っているのは、昔毎日のように見た顔。
「な」
 なんでいると訊く前に、手を掴まれて強引に壁に押さえつけられた。
「なんでおんねん! 鍵…」
「アホやな。俺が合い鍵作らんと、返す思ったん?」
「…卑怯もの!」
「相変わらず、綺麗な顔して口が悪い」
 侑士の手が無遠慮に白石の首筋をなぞった。びくりと身体が震えてしまったのは、その指先が与える快感を最後まで知っているからだ。
「んっ!」
 そのまま後ろ頭を固定されて、強引にキスをされる。深く重なる唇に、口内を貪る舌。
 噛んでしまえばいいのに、出来ない。
 目の奥が熱くなったと思った途端、身体を離される。侑士の指が目尻をなぞった。
「泣くほど、もう俺が嫌い?」
「………」
 なんて答えたらいいかすら、わからなかった。
 いつもなら、もっときつい言葉も、言えるのに。
 心がまるで攻撃の意志を持てない。
 弱々しく俯くだけの白石の頬を撫でると、侑士は小さく笑って額にキスを一つした。
「うるさいナイトがおるみたいやし、この辺でな」
「…え」
 もっと強く求めてくるかと思ったが侑士はあっさり身を離した。白石が涙にぼやけた視界を動かすと、廊下の向こうに憤りの表情を浮かべた狼がいた。
「千里…」
「行儀ええやん? 前なら構わず噛みついて来よったんに」
 侑士は笑うと、白石の頭をぽんと撫でて、客間の方に向かった。
「諦めてへんし、ちょお泊めてな」
「え、謙也は…」
「もう治った」
 笑顔でそうはっきり言う侑士に嘘はないのだろう。他人を、友人を疎かにしないヤツだから。
 侑士の姿が奥の客室に消えてから、千里は白石に駆け寄るとぎゅう、ときつく抱きしめた。
 手が震えているのは、怒りからなのか、それとも、自分を責めているからか。
「ごめん。千里。ごめんな…」
「くら、わるくなか」
「…でも、なんで、もっとはっきり断れへんのやろ……もう好きやないって…なんで言えへんのやろ」
 千里の肩にぽすりと頭を乗せてくる飼い主を、きつく抱きしめる。白石も震えている。
「……」
 不安になって「くら」と呼ぶと、白石は顔を上げて、涙の残る瞳で微笑む。
「大丈夫や。お前を手放したりせえへん。絶対」
「…くら」
「…偉かったで。よう、噛むん我慢したな」
 白石がまた自分に抱きついて、頭をぽんぽんと撫でてくれた。
「くらと、はなれたくなか。がまんすったい」
「…うん、…ええ子。…千里」






 彼のことは、見たことがあった。

 白石に飼われてから、五年近く経った頃、白石の家にたまに来るようになった。
 白石の同級生だと言う。

「千里、こいつ侑士。侑士、こいつが千里な」

 一目で、わかった。
 彼と白石の関係が、普通ではないことが。
 彼が白石を見る瞳は優しくて、とても優しくて。
 白石もそうだった。
 彼を見る瞳は、自分を見る瞳より、誰よりも優しかった。

 好きだと、目が言っていた。



 二人の関係が千里にもわかるほど、ぎすぎすし始めたのは、白石が十八歳の頃。
 あとから、白石がその時にキメラ創造に携わることと、自分と一緒に家を出て二人で暮らすと決めたと白石から訊いた。
 ある日、泣きはらした目で帰ってきた白石は、自分に謝って、自分に抱きついてしばらく泣いていた。





 自分が原因だと、何度か会った時に彼から訊いた。
 彼は「千里は父親に預けろ」と、一緒に住むことに反対したそうだ。
 それに反発した白石は、結局、自分を取って彼とは別れた。

 自分が原因だから、泣く白石にすまなくなる。いつか、やっぱり「侑士」を取るかもしれない。
 それ以上に、ごめんと謝りたくなる。

 白石が、あんなに好きだと言っていた彼より、自分を選んだことが嬉しかったから。





『侑士!』

 電話を取った途端、風呂上がりの謙也に怒鳴られて、侑士は首をすくめた。
 客室の寝台に腰掛けて、のんびりと返事をする。

『お前、なにしに行ってん!?』

「そんなん、より戻したいからに決まってんやん」

『無駄っていい加減わかれや!』

「無駄なぁ…」
 侑士は自分の顎に手をかけて、謙也に聞こえるように笑う。
「無駄なら、蔵ノ介は俺をけり出してお終いや」
 謙也が向こうで息を呑んだ。沈黙が落ちる。
「まだ、俺のこと好きやねん。あいつ。
 やから、俺に逆らえへん。そら嫌やろうな。会うたら心かき乱されるし、俺は千里を飼うなて言うし、それに逆らいたいけど、出来ん」

『……ほんまに好きなら、手を退いたれや』

「本気で好きなら尚更、見苦しかろうが、形振り構わなくなろうが、手に入れようとする」
 自分の声は驚くほど、低く本気の響きだった。謙也より、自分が驚くくらい。
 何度も、忘れようとした。
 無理だった。彼が、どうしてももう一度欲しかった。
「謙也。今のお前ならわかるやろ。…本気の好きはそない綺麗なもんちゃうで」

『わかっとる。…でも、白石は、あいつは』



「…そんなん、わかっとる」







 寝室。ベッドを背に座った自分の足の間に座って、白石は自分の胸板に顔を預けている。
 ゆったりと抱きしめると、心地よさそうに息を吐いた。
 その中に、少し苦しげな様子がある。
「くら」
「…ん?」
 千里が呼ぶと、目を開けて見上げてくれた。微笑んだ顔。
 自分の幼さが悔しくなる。
「おれ、くらのちからになれなか?」
「…千里?」
「おれ、こどもやから。それがくやしか…。
 くらがなやんどうこつ、なんもわかってやれん」
「…」
 白石は随分驚いた様子で自分を見上げて、そっと自分の頬に手を伸ばした。
「おれ、くらがおれをたすけるみたいに、おれもくらたすけたか…。
 どぎゃんしたらよか? ぜんぶまもりたかのに…てがとどかん」
 身体を包んでやれても、心に及ばない手が、悔しかった。
 幼い自分が悔しくなる。
「千里は、俺が好き?」
「うん」
「言葉にして」
「くらがすき」
 白石の手がぎゅ、と自分の首を抱きしめて、すがりつく。
「…うん、うん……千里」
「くら?」
「…言うてて、抱きしめとって。
 それが、俺は欲しい…」
「…」
 好きだと繰り返す。何度も、背中を撫でて抱きしめた。
「……千里」
 自分を呼ぶ彼の声。
 訊きたいことがある。
「くら」
「…ん?」
「……」

 どうして、俺を選んだ?







「今日は帰るな」
 また来る、と侑士は玄関で白石を振り返って笑った。
 まだ、痛む胸がある。自分はまだ、この人が好きだから。
「もう来るな」
「嘘吐くな。来て欲しいやろ」
「………」
 即答出来ない白石に、侑士の顔に笑みが浮かぶ。
 手を伸ばして、抱きしめても拒まない。
「今は、まだ」
 こつん、と侑士の肩に頭を乗せて、すぐ白石は身体を突き放した。
 侑士の立つ玄関は低く、白石の方が高い。見上げると、泣きそうな顔がある。
「まだ、逆らえん。…けど、もう…戻るなんて出来ひん」
「…好きやろ? 俺がまだ」
「好きで…でも今は千里がすき…」
 自分を見つめる、泣きそうな顔に、心の中で問いかけた。



『白石は、あいつは、千里が好きなんやで?』



 あの日、もし、一緒に暮らしてもいいよと答えていたら、キミは俺だけのものだった?

 一緒に暮らすと決めた時、彼があの狼も一緒がいいと言った。
 二人がよくて、反対した。
 でも、一番嫌だったのは、キミが彼に、普通じゃない気持ちを抱くんじゃないかと危惧したから。
 いつか、自分の居場所を奪われる予感がした。あんな子供に。
 でも、間違ってなかったんだろう。
 もし、自分がいいよと言って、一緒にいても、いつかキミは奪われた。


 白石に手を伸ばして、一瞬掠めるだけのキスをした。
 すぐ離すと、「あいつによろしゅう」と言って笑う。

「俺は、ずっと蔵ノ介が好きやから…いつか、ちゃんと勝負しよか」


 寝室に隠れたまま、出てこない狼に向かって声を張り上げると、侑士は手を振って扉から出ていく。




 どうして俺を選んだと訊いた。
 彼は、優しく笑ったから。
 白石は、「お前は俺を独りにしないと思った」と答えた。
 侑士より、誰より、自分を選んだ。



 自分を、好きだと言った。




「…なして」

 寝室の扉に背中を預けたまま、千里は自分の顔を押さえた。

 夢にまで見た言葉なのに。あんなに欲しかった言葉だったのに。

 好きだって言って欲しかったのに、叶ったのに。




 こんなに苦しいのは、どうしてか、教えて欲しかった。

















 ⇔NEXT