REZET-リゼッタ-



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 第七話【Side:白石と千里−意地っ張りの覚悟A】






 あの日から、ずっと。




「白石、大丈夫か? 少し寝ろや」
 先輩から事情を聞いて、同じマンションに住む謙也がつきっきりで傍にいてくれる。
 彼が飼っている猫のキメラは、最初ぶすっとしていたが、今は夜が遅く、傍のベッドで眠っている。
 今は、夜中の二時。
「まだ、起きとる」
「あかんて。寝ろや」
「…」
 気を抜くと、身体の底から震えがはい上がってくる。
 猫が眠る寝台の傍、寝室の床の上に膝を抱えて座る白石の顔色は、謙也の気のせいではなく青い。
「……千里が、寝えへんのに、俺が寝れるわけない」
 我ながら、泣きそうな声が出てしまった。謙也がびっくりする。
「あいつ、前は俺の親とも、俺と一緒に暮らしてて。大学のつき合いで出かけた時、一回、電車逃して友だちの家に泊まって。
 あいつ、そん時、俺の親がおったのに、俺が帰ってくるまで、寝えへんかった…。
 まだ、三歳のガキやったのに…そんで、なんも食わへんかった…」
「…白石」
「あいつ、多分、まだ俺以外と食事でけへんねん。離れたら、すぐ死んでまう」
「…………」
 涙に詰まった白石の声に押されたように、黙り込んだ謙也だったが、すぐちょお待てと言った。思いの外強い声で。
「白石、お前、それは…ちゃうやろ」
「え?」
「それがほんまの理由なら、はなれたない理由なら、それを上に言えばええやろ?
 死なせへんように、上やってまたお前と一緒に暮らさせてくれる。
 …言わへんかったんやないやろう。言うの、忘れてた。それが、理由やないから。あいつと離れたない理由やなかったから」
「…………、ちゃう!」
「それがちゃうねん!」
 来い!と謙也は白石の手を掴むと、寝室から引っ張り出した。大声を出すと、猫が起きる。
「お前は、なんであいつを飼いたがった」
「……あいつが、俺を受け入れた…俺からなら食事とったから」
「そこがちゃうねん」
「…なんで? それがほんまや!」
 謙也は溜息を一度つくと、白石の両肩を掴んで、廊下の壁に押しつける。強く。
「お前は、義務で他人を愛する馬鹿やない。自分の愛情が介在しないと、他人を懐にいれへん。…あいつは、懐にいれとったやんか」
「……」
 謙也の真剣な顔が、視線が突き刺さる。それ以上に、痛い言葉。




 あの日から、ずっと。



 初めて会った日から、救われていたのは、俺だった。


 生命維持装置をつけたままの、お前の目が開いて、俺を見た瞬間。


 逃げ出した。
 だって、彼は笑ったんだ。俺を見て。嬉しそうに。

 それにあまりに不釣り合いな、自分の救われたいだけの願望に絶望して、逃げて。


 でも、傍にいたかった。




「……だって、あいつ…俺のこと、見て笑う」
「うん」
「…見て、全身で、好きやて、言うんや」
「うん」
「………それが、…ほんまは」
 瞳に張っていた膜が剥がれて、落ちる。頬を伝っていく。
「救われたくて、ただそれだけで、せやから愛されたらあかんて。
 想っとるのに、…見つめられるたび、嬉しいて…。
 見ない振り…」
 怖かったんだ。
「うん」
「…気付きたなかった! だって、一回気付いたら、もう堪えられへん。
 …独りになりたないだけで、もうあんなに大事やのに。
 あいつを好きって自覚したら、…あいつが死んだら、死んでまう…!」
「……うん」
「……はなれたない。どうして…こんなに…」
 涙が溢れて、止まらない。自分を抱きしめて、謙也は何度も頷いた。



 弱かったから、自分は弱かったから。

 一度、彼に依存したら、彼が自分をいつか置いていく時にも、逃がしてなんかやれない。
 後を追うか、…彼を殺してしまう。

 依存して、溺れるほどに、彼を好きになるってわかっていたから。

 育つ気持ちに、蓋をし続けた。





 あの日、一瞬だけ、諦めてしまった。
 見ない振りをすることを。

 一度だけ、どうしても、彼に触れたくて。愛していると言いたくて。
 愛しくて愛しくて、どうしようもなくなって。

 …キスをした。

 一瞬だけ、諦めた。



 でも、すぐいけないと我に返った。諦めないように、意地になった。





「……き」





 あいつの声が、手が届かない自分なんか、要らない。




「千里がすき…」







 謙也は、もう一度、頷いてくれた。









 翌日、千里は俺の元に帰ってきた。父親がうまく嘘を吐いてくれた。彼は、電話の時点で、俺の本心に気付いていたのだろう。
 先輩の言った通り、千里の過失にはならず、向こうの意見は通らない。軽い注意だけで、後日、委任契約の手続きを行う打ち合わせをした。



 自宅に着いても、自分の手を掴む狼は、黙ったままだ。
「なに、黙っとるん」
「……」
「千里」
 耳も尻尾も垂れきっている。朝に、会えた時には、一瞬喜んだ顔だったのに。
 寝室とを繋ぐ廊下で、立っていると昨日の会話が頭を過ぎる。
「……また、はなれっとや?」
「……」
「また、おれ、蔵とはなれっと……?」
 ひどく、不安に満ちた声で、顔で彼は言った。おそらく、施設に預けられている間、『もう会ってはいけない』ということを言われていたのだろう。
「…お前、離れたいんか」
「いやばい!」
 自分でも、ずるい聞き方をした。彼が、なんて返すかわかっていた。
 馬鹿や、と笑ってやる。抱きしめてやった。
「すぐ、俺がお前の飼い主になる契約するから。
 …お前はこれからずっと、本当の俺のもんや。
 …死ぬまで、もう離れへん」
「……」
「な?」
「…、ほんなこつ?」
「…うん」
 千里はあまりに不安に押しつぶされそうで、巨躯が小さく見えた。手が届く限りに、抱きしめる。おずおずと、自分の身体を彼が抱く。
「……ごめん…蔵…噛んでごめん」
「もうええ」
「ぜったいもうせんから! ぜったいせん…! もう、いやばい。
 …やっぱり蔵いがいはこわかった…!」
 みっともなく震える身体を何度も撫でる。どうしても、俺はこいつを離せなかった。
「…こわいだけ?」
「…?」
 涙に濡れた顔を、狼が自分に向ける。微笑んで聞いた。
「…俺は、こわくないだけ?」
「……、すきやから」
 狼の頬を、また涙が流れる。
 首に手を伸ばして、より一層深く抱きついた。
 背中に、彼の手が回る。






 キミは、俺を愛さなくてもいい。


 俺は、ただの飼い主でいい。


 今更、好きになって欲しいなんて、我が儘は言わない。


 例え、キミが先に死ぬとしても、もう、傷付けたり、拒んだりしない。


 最期に、絶望と孤独に泣き叫ぶ日が来てもいい。


 だから、傍にいて欲しい。



 …愛している。



 一生かけて、キミを愛そう。



 自分の為じゃなく、ただ叫ぶ心のままに想う。


 キミが、好きだと。 





 でも、もう少し「すき」と告げるのを、待って欲しい。





 今は、まだ。












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