例えば、大きな。それこそ果ての無いような青い紙に白いインクのスプレーで幾つも線を付けたら。
そう、思えるような群の雲。春の日差しに晒された校庭は黄色じみた砂色をしていて、そろそろ絶頂期を迎える桜の花弁が踏みつけられて無惨になるのを黙って見上げている。
終わりを見たこともないような空の、染みすら今は見つけられ無そうな蒼天。
無人のテニスコートにも、今は無傷の花弁達が散っている。
青春学園高等部。
昨日、入学式を終えたばかりの。校門には剥がし損ねたテープの名残。入り口を紙の花で飾っていたそれの跡。校舎からは懐かしい中等部の校舎が見えて、あそこに残っている後輩を思えば自然笑みが漏れた。
「…キショイ」
考えれば春のこの季節は一番強く印象に残せる光景で、中等部から比べて望める桜の花は格段に違う。恐ろしいほどの桜並木は、地上から見上げれば呑まれそうなほどだ。
濃い落葉樹の葉達。
中等部から見えていた長い塔のようなビルはここからは見えず、代わりに連なるような銀杏の木々が桜に寄り添って見えた。
三階からの景色は高い。
不躾に言葉を投げつけた、振り返らずとも判る人物の背も高い。
「…………誰がキショイのかな」
「今現在三階西フロアの窓辺で青春を謳歌している留年生」
「留年じゃないよ…」
しっつれいな。とは言外に。
そろそろ身長が止まっても良さそうな。やはり高一にしては高い気のする背丈。
感情など判らせないような無機質で平坦な、欠落したような調子の声は馴染んだものだ。
不二を見下ろす目線の高さも傾ける形もかつてと同じモノで。ただ中学の時まで存在していた分厚い眼鏡というブラインドがない。
彼曰く、三年の部長と賭をして(注:させられて)負けた代償にこの先一年間コンタクトで来いと部長命令をくらったそうだ。
「じゃあ、敢えて言うなら一年遅れの新入生」
「……否定する理由はないはずなのに否定したくなるのは何故だろう」
開け放していた窓を閉じると、それまで吹き込んでいたあの風が消える。
強く、春の香りがするあの風。緩やかで暖かく、時に冷えた日差しの匂いがする風。
「俺の言い方が問題かな」
「多分ね……。
でも留年生は止めてよ。受験ミスったんじゃないんだからさ」
「知ってる。社交辞令だよ」
「そんなのはいらないよ」
ふ、と口の端をあげて笑った乾の顔の片側だけに陽光が落ちる。その頬の一部分に歪な影があって、何かと窓を見れば桜の花弁が窓に張り付いていた。
一面の景色は、一面の春の証明。
懐かしいなと、素直に思う。
不二は一年半前、親の都合で留学している。
一人残ることを選択する事も出来ず、テニス部の引退後、中学の卒業を待たずに日本を後にした。
本来なら三年掛かるはずの留学を、何とか親を説得して戻ってきたのだ。懐かしくもなる。おかげで、本来なら二年生として新入生を迎えるはずの校舎に、新入生として迎えられたのだ。
幼馴染みの乾と共に。
「じゃ、素直に文句と言っておこう」
「文句?」
「周助がいない間、うざったい国光の相手を引き受けさせられた迷惑料」
「……ああ」
もう一人の幼馴染みを引き合いに出してきた乾に、少しだけ瞳を細めてみせる。
留学さえなければ同級生であったはずの人。彼よりは低いけれど、自分よりは充分背の高かった幼馴染み。
どの程度、伸びただろう。やっぱり老けているのだろうか。
日本に帰ってこれたのはたった一週間前で、引っ越しや準備やらで連絡も挨拶も出来ずに入学式を迎えてしまったのだ。手塚とはまだ会ってもいないどころか顔も見ていない。
つい、考えに沈んでしまった不二の額を、からかうように小突いてその側を通り過ぎた幼馴染みが、気配だけで笑ったのが判った。
まぁ、俺は喜ばしいよ。と。
「中学の時みたいに、俺だけ仲間はずれにならなくて」
幼馴染みとして育っても、年が違うからいつも一年下で。思ったほど気軽ではいられなかった中学の頃。
国光はどうだかしらないけどと付け足して、一年八組と書かれたプレートのある教室へと姿を消す。
軽い微笑を顔に残して、不二もその後を追った。
ほんの少し空いた窓の隙間から、緩い風が入り込む。温度は温いが、嫌な感じのしない風だ。
流されて飛んできた桜の花弁が、窓際の机に二つ、止まっている。
「手塚…。おーい」
突っ伏して眠っているのか判らない窓際の生徒に、上から声が掛かる。面倒そうな、やたら尊大な声だ。眠っている方は身動ぎもしない。もう一枚、舞ってきた桜がその漆黒の髪に落ちる。側に佇む男の目が半眼になって、片手にプリントを持ったままでその机を下から思い切り蹴り上げた。
がたんと派手な音がして、周囲の生徒達がぎょっとして振り返る。が、それだけだ。発信源を知ったとたん、いつものことだというように元の話題に戻る。
衝撃で落ちそうになった眼鏡を、突っ伏した姿勢から器用に捕らえて、ようやく手塚は顔を上げた。裸眼の、相手が誰だか判っているから不穏な空気など隠そうともしない。
不愉快だ、と見て判る表情。
「なんだよその面…。ほら、俺が折角プリント持って来てやったんだ。不愉快ですなんて面むけんじゃねーよ」
「…持ってこいと頼んだ覚えはない」
「だろうな」
憮然として応えた手塚の顔にぶつける勢いでプリントを放す。そのまま床に滑りそうになったソレを危なげなく受け止めて、眼鏡をかけ直してから片目だけを擦った。
視界が微妙にぼけている。
だがそんなことはどうでもいい。
なんでこの男と同じクラスなんだろう。そのまま氷帝にいるんじゃなかったのか。
後者の台詞は眼前の男が高校は青学を受けたと知った時に本人を前に既に言った。
跡部はそんなのは自分の自由だろうと応え、それも事実なのでそれ以上の事は言えなかった。何しろ彼だけではないのだ。元氷帝。…いや元氷帝テニス部は。
「……、?
忍足はどうした?」
時計を見ればそろそろ始業時間なのだが、その姿は何処にもない。
「あ? あいつなら岳人と一緒に海堂んとこだ。
すっかり玩具扱いだぞ」
「反応が顕著だからだろう…」
とはいえ、あの二人に言い様に遊ばれているのかと思うと急にその同級生が哀れに思えた。が、結局止めない。これ以上の害は被りたくないので。
どうせ去年と代わり映えのない悪戯をされているのだろう。部活の時に余程頭に来ているようなら、同じ組の大石と菊丸に話を聞けばいい。
ふと、視線を落とせば、それは部活案内のプリントだった。
今日ある部活紹介の、紹介する側の連絡事項とでもいおうか。竜崎先生からだろう。
跡部も手塚も一年の終わりにはレギュラーに入っていた。協力させられるのは目に見えていたが。
「…そういや、乾はテニス部来るんだろ?」
「ああ、そう言っていたな」
背丈ならとうに抜かされて、最近またようやく並ぶようになった一学年下の幼馴染み。
それに繋がる糸のように、思い出した記憶は酷く遠いもののようだ。手を伸ばしても届かないような夢だ。それを見抜いたような声が降る。眼前で組まれた腕。
「…不二は…、まだ戻ってこねぇのか」
亜麻色の髪の。自分に比べて随分と細かった。微笑む顔が今は遠い。
「…………知らん」
数ヶ月前から、メールや電話の端はしに見え隠れするようになった帰国の話。
何とか親を説得しているらしいと判るソレ。春には一緒にまた通えたらいいと言っていた、受話器越しの。
けれど、この一週間。メールも電話もない。
窓の向こうでは、何も知らない空が羽を伸ばすように太陽を浮かべていた。
机の上で、風に飛ばされた桜が五枚、揺れている。
チャイムが鳴るまで秒読みだ。時計の針がやけに早く見える。
なんでいつも自分の所に来るんだろうと考えて、それから海堂は面白がるばかりの菊丸とすまなそうに笑う大石を見遣った。他人事だな、と思う。自分だって、他人事だったら関わり合いになりたくない。
俗に元氷帝と言われているうちの一人はわざと国語の教科書を関西弁で朗読しようとするし、もう一人はただただ他愛ないことを喋っている。会話を成立させる気が端から無いのは、海堂でも判った。
五月蠅いのだが。自分では、口で勝てない。
ふと、彼なら勝てそうだ。と入学したばかりの後輩の事を考えて、小さく息を吐く。
その後輩とも、考えればしばらく話していない。
「…おーいマムシやーい」
「マムシ言うな!」
考え込む海堂を煽るように耳元で奇妙なイントネーションで囁かれれば、思わず立ち上がって怒鳴ってしまう。
近くにいたから本気で吃驚したらしい向日が、椅子に座っていた海堂と視線を合わせるように、しゃがんでいた身体を立ち上げた。タイミングがそれを見計らったように、チャイムを鳴らす。
「あ、鳴ってしもうた」
「ま、そんな慌てなくてもいんじゃん? 隣だし」
「慌てろよ…」
「はよのうなって欲しいから?」
「当たり前だ」
「きっついなー」
折角の新学期やってのに。とは言うが、あんまり関係がない。
変わった事なんて、ようやく彼が高等部に来たことぐらいで。
ぐらいというには、強いけれど。
「…あ、そや。
今日はコレ訊こう思て来たんや」
「え? 本題あったの侑士?」
てことは普段はないんだな、とはもう言わない。
本当に慌てないから、先ほどのチャイムが幻聴のような気がしてくる。
「あんな、乾っちいるやん。
一年の」
「てか他にいないじゃん」
「黙っとき。
んで、引っ越したやんか?」
忍足や向日の会話に前振りがなかったり主語がすっぽ抜けてたりするのはいつものことだ。
だが、放り投げたあんまりといえばあんまりな台詞に思わず音を立てて立ち上がってしまったのは二人。海堂と菊丸だ。
「…ッ……は?」
「え!? 乾って引っ越ししたの!?」
大仰なリアクションは菊丸。大石は立ち上がりはしなかったモノの、三人の方を向いている。教師が来たらやばい状況なのに。本当にどうしてもっと早くに言わないんだ。
「…なんや、知らんの…?」
「知ってるも何も……そんな話聞いて」
あれ?
「…ちょっと待て。それ発信源何処だ?」
「何処って…乾っちに決まっとるやん」
「引っ越したって、言ったのか?」
「…んー……。ちゅーか、こないだ岳人ん家行った時になんかがたがたやっとってなぁ。
何してるんて訊いたら、“引っ越しするから”って」
ほら、岳人ん家。乾っちとおんなじマンションやん。
とか、人の気知らずで口にする忍足をよそに、海堂は立ち上がったままの姿勢で固まっている。
(………は、ぁ?)
引っ越しって。
訊いてない。
彼はここ一週間忙しくてなかなか捕まらず、捕まっても忙しいから無理だと。
一度理由を聞いたら。
「引っ越し作業手伝わされてるんですよ」
とか。
……手伝わされている?
何処が?
忍足の話ではまるで。
「………知らんかったんやな………」
あっちゃーと言いたげな。その声を余所に、海堂は突然どかりと椅子に座り込んだ。
お、俺地雷? 地雷踏んだ? と向日等に視線を寄越している忍足が、教師の登場によって引き上げるまであと一分もない。
昼休み。
部活紹介のオリエンテーションの最終的な打ち合わせに、訪れた職員室はやけに人気のない有様だった。
他の教員達は、と問うとオリエンテーションの準備やら関係のない授業の下準備やらで一場所に固まっていないらしい。
中等部とは異なった作りの室内だ。窓際に飾られた百合と、奇妙な形をした小さなサボテン。
壁際の硝子戸の棚には青い背のファイルが詰まっている。雑多な置かれ方をされた資料。飲みかけのままほったらかしにされた、誰かの机の上の紅茶。
中途半端に引かれたカーテンと、ソレに中途半端に遮られる形になった校庭の桜。
すその方が薄くぼやけている空。斜めに入り込んだ日差しが生んだ灰色の影は三重にぶれている。
「……と、こんなものか。
悪いな昼休みにまで」
白く照らされたプリントを指で撫でて、高等部のテニス部顧問は銀縁の眼鏡を押し上げる。竜崎よりは若い、それでも手塚達と一回り以上は年の違う男性教員だ。
色の抜けた髪に、きっちりと着込んだスーツ。右手にシンプルな時計がある。切れ長の眼の神経質そうな外見をした男だ。しかし少し付き合えばそれを内面が裏切っていることが嫌でも判る。
「いいえ。俺は去年もやりましたし」
気楽そうな声で三年の部長が答えるのを、側で訊いていた跡部が何の気もなしに見上げる。手塚は副部長だから強制参加として、跡部自身こういう類はあまりはりきってやりたくはない。
二階の窓まで伸び上がった木の陰が落ちている。風に流れるソレは、まるで自分の意志を持つようだ。
「……あ、そういや。どうだ? 新入生」
「…経験者がいそうかって事ですか?」
「つーか…、中等部上がりが多いだろう。
元テニス部で高校でもやろうって奴」
連絡くらい取ってるだろ? 元後輩。
「…それは、結構いるみたいですが。名前まで知っている奴っていうとあんまり」
「お前は元氷帝だからだろう…。でもま、そんなもんか」
お前等としても懐かしい面々が居た方が楽しいだろう、なんて付け足しのように言って笑う。
ざわりと木々が揺れた。影も動く。
「……ああ、でもほら。上がりっていえば元テニス部で強いのが何人か」
何人か。言いながら名前が出ないらしい。教師の手元で、ペンを挟んだ手が奇妙に揺らぐ。
「乾とかですか?」
「あ、ああそう乾。
あとは――――――――そうだ」
途中で途切れたままの文章。白い紙の上。静かに湯気の立つカップ。
真昼の、雨など降りそうにない晴天の下。悠々と空を行く飛行機。側を歩く雲。ぽっかりと浮いた、希薄な色の月。
「不二もいたよな」
クレーターの跡が僅かに見える、真白の月。真昼の月。
薄水色の空に浸食されるように、はっきりとしない輪郭は単なる満ち欠けの為で、左側が何かに喰われたように削れている。本当は見えないだけなのだ。地球から地上から見えないだけなのだ。幼い頃に無邪気に何故削れているのかと疑問を投げかけた。一人、年下の幼馴染みだけが欠けてなどないと子供心のないことを言った。
知識がないだけだと。知らないだけなのだと。
知らないだけだ、と。
「…………――――――――は?」
ぽかん、としたような声が漏れる。跡部だ。
「……いるだろ? 一年に」
「……不二、裕太?」
ぽとりと落としてからいいや違うと自ら否定する。不二弟はまだ海外にいるはずで。
兄と共に。留学したはずで。
「いや、兄の」
しばらく、随分のろい。というか思考回転の鈍い会話が続く。
部長がよく判らない顔をしている。手塚が、感情の読めない顔で、椅子に腰掛けた教師を見下ろす。
「………………と、阿須賀先生。
………あの、もう一度お願いします。
一年の、…誰ですか?」
跡部らしくない。本当に彼らしくない態度で、一言ずつ区切って問うた。
本当に、わけが判らないと言った風情で、彼は答える。
まるで、間違っているのは自分じゃないのかと疑い始めたような表情で。
「……一年の、不二周助だ、ぞ?
帰国してきただろう…?」
言葉尻にも、間違っているんじゃないかという態度を見せて。
妙な空気だ。あれほど高かった空を、あれほど強く香っていた春の風を、窓際の小さなサボテンを、百合を。全て、印象的な幻覚の黒い影に落とすかのように。
「……って、会ったぞ。俺。
ほら、あそこのサボテン。不二が持ってきたんだし」
カーテンに、触れそうに置かれた。小さな、おかしな形の。
棘のある、サボテン。
それを見たとき、確かに過ぎったのは彼だけれど。
がらりと、勢いよく扉が開く。
中の空気も雰囲気も読まない馬鹿のような大仰な開き方で、かといって今の今まで足音も聞こえないほど落ち着いた足取りで。
たけ高い背丈と、ブラインド無しの双眸。一年生の証の、赤いラインの上履き。
「…すいません。お取り込み中なら出直しますが」
平坦な口調でそれだけを言ってのけた。見知った人。
「……乾」
「お取り込み中でしたか?」
もう一度言う。感情の欠片も見えない言葉は彼特有のモノだ。
手塚自身、低く感情を表しにくい話し方をするから、慣れていないと威圧されているような気になる。
乾はまるで、何もない感じにさせるのだ。そこに挟む強さも何もないような。目の前にいるのに、自分を通り越して何もない廊下に話しているような。透明な無機質さ。
「………いや。……あー、と」
すぐに、言葉が見つからずにいる阿須賀を見て、お取り込み中のようですね、と踵を返す。
「乾」
「…はい?」
呼び止めに、もう一度振り返った。右手を、閉めようとした扉にかけて。左手なら制服に。
「お前の組に、不二周助って居たよな?」
自分でも奇妙なことを訊いているという自覚のある教師の声に、乾は一呼吸の間だけ訝るように眼を細めると、ふ、と口の端をあげた。
「いますよ?
居ない人間が名簿に載るわけがないでしょう。
では、失礼します」
かつん、と一度だけ靴音がたった。
小さな引っかかりを残して、扉が閉まる。
しん、と落ちる沈黙。破れなそうな静寂。
扉に消えた幼馴染み。
最後に、手塚を見て。
歪曲した唇。
「…――――――――――――――――」
「…手塚…ッ?」
把握より理解より先に、行動を起こした身体。失礼しましたとだけ言って、廊下へ飛び出した。白い日差しと、照り返すベージュのような廊下の上で、のんびりと、足音すらなく歩くその背。
呼ぶより、叫ぶより早く。
伸ばした手が乾のカッターシャツ越しに二の腕を掴んで、強引に振り向かせた。
ほとんど存在しない身長差で、形で、近距離で交わした視線は。相変わらず真っ直ぐに、澄んだ透明。
ブラインドの無いそれは、これまでよりもずっと強い引力を伴った。
ハッとしたのは一瞬で、掴んだ右腕は放さない。逸らさずに視線を合わせてくる、不躾とも取られかねない双眸。
「なんですか? 手塚先輩」
そうやって。普段なら校内でも名前で呼んでくる幼馴染みがわざとそう、へりくだる。
思わず掴んだ指先に力がこもって、反応するように彼がびくりと瞬きをした。
「…、」
用意する必要もなく頭の中に浮かんだ言葉を、そのまま口にするには何かが足りなくて。開き欠けた唇を一度閉じる。その場凌ぎで整えるように呼吸して、喉が僅かになるのを知る。
「…本当なんだな」
目の前で瞬きを静かに繰り返す、悪意のない双眸。悪意がないだけで、悪戯心ならありそうな微笑。
強く掴まれた腕。かかった手塚の手の平を引き剥がそうともせずに、レンズ一枚越しの視線を逸らそうともしない。
「何がですか?」
「周助は帰ってきてるんだな」
「台詞から主語を抜く癖、直した方がいいですよ?」
「答えろ、貞治」
くすりと、笑う空気が伝わる。
苛立ちが胸の中にあるのは多分、幼馴染みの態度と不二の秘密と。
自分より先に、他人が知っていた事への焦燥。自分だけ蚊帳の外のような、感情。
「天下の手塚国光が、余裕のないことで」
無機質なトーンに、そこで初めて揶揄するような色が混じった。
触れる手の平から流れ込んでくる不躾な熱に眼を細めて、それから指をその手に掛ける。
こもらない力。離せと、それだけを伝えるように。
どちらも逸らさない視線の中で、何秒が経っただろう。
手塚の喉から小さなため息が漏れた。するりと外される指先に、追うように伸びた乾の手の先が一瞬触れて、それで終わる。
廊下の果てからの、誰かの笑い声がする。窓からの斜になった日差しと輪郭づけるような影。
こうして顔をつきあわせることが、久しぶりだと思わせない後輩の馴染んだ態度。
首を傾げるように、しばらくその顔を見つめて、今度は乾が息を零した。
呆れたような、拍子抜けしたような、だ。
「なんだ」
再び無機質さを取り戻した声の調子で、表情と態度だけで呆れたと通じさせて。
また首を傾げるように手塚に視線を寄越す。
「国光…、本当に知らなかったのか」
吐息と共に吐き出されたソレが、てっきりという言葉を、はっきりと含んでいたので、思わず“どういうことだ”と口にした。何でもないように声が帰る。
「帰ってきてるよ」
質問を無視していた。いつものことだが。
「一週間前には帰国してる。周助なら。
引っ越しの準備とか手伝わされてて、忙しかったから」
「俺には言わなかったというのか?」
「というか、周助がその日にもう言ってると思ったんだ。
だから俺から言う必要はないと思っていたのに」
まさか言ってないなんてねぇ。と。
苦笑の中に僅かに眉を寄せる様がその幼馴染みには馴染んだモノで。
手塚もようやく態度を綻ばせる。今頃、自分の心臓が早くなっていることに気づく。本当に焦ったんだ。
それが乾にも伝わったらしい。あからさまに表情を緩ませて、“凄い焦りよう”と呟いている。
「昨日にはもう色々終わってたからさ。俺はてっきり帰りにでも君と会っているのかと思ったよ」
「それにしたって、お前は引っ張りすぎだ」
「ごめん。君の慌てようがあんまりでさ」
くつくつと笑う様が、何だかとても何時も通りだ。怒る気も失せて、手塚は肩を竦める。確信犯な彼のこと、少しくらいの予想はあっただろうに、こうして自分は悪くないと手を挙げる態度をとる。不二を問いつめるなら好きにしてくれ、とも取れるからこれ以上は言えない。
自分の幼馴染みは二人とも、ある意味柳に風か花に嵐なのだ。
「ま、何しろあいつの帰国は急でね。
ほとんどなし崩しで説得終わらせて、親の気が変わる前に、って感じだったから」
折角の合格まで無意味にさせられちゃ堪らないって。
だから上手くいって思わず安心しちゃったんじゃないの?
生徒を促すかのようなチャイム。昼休みに終わりを告げて、その再会にも終わりを促す。
さて帰らないと、と呟いて乾は背を向ける。
賑やかな校庭も廊下も教室へ帰るためのつかの間の騒がしさ。
きゅ、と靴の裏がすれて鳴る。
手を振るような気安さで名前を呼んだ乾が、置き土産のように。
「そうそう、引っ越し先あいつん家だから」
後で行けば。
振り向いた煽りで流れる黒い髪の先。
随分と不謹慎に、早く学校が終わればいいと思った。
匂艶 ク ラ シ カ ル