地下に響くのは、彼の口内を性器が犯す水音だけだ。
その指通りのいい髪を撫でて、掠れ声を漏らす白石の名を呼んだ。
「なぁ」
「……ん…っ……、なに」
「…」
こちらが強いていることなのに、邪魔されて不快そうな目をする白石は未だこの状況を甘受してはいないと理解している。
「今の休戦は長か…。
あと一ヶ月は、このままじゃなかかな。
その間は、お前はここから出られん。
……まだ、…間者の役目の方が大事ばい?」
「……、一ヶ月くらい、堪えられんで?」
「今、上がやってる交渉がまとまったら、戦争が長く止まる。
五年か、十年。このままでよか?」
髪を撫でる手を首をひねって拒むこともなく、好きにさせるくせ声は冷たかった。
「千歳、お前、失敗したんちゃうん?」
「…?」
いぶかしむ千歳を笑うのは白石の方だ。立場は、彼が弱者なのに。
この余裕はどこから来る。
「時間あるなら、俺に自分を大事や思わせてからすべきやったな」
「…なにがいいたか」
「スパイに対する拷問ならそら早いほうがええ。せやけどお前、そうやない言うたやんな?
こういうん、愛情持っとらん相手にされたかて痛ないねん。
痛い辛いは所詮からだの話。…心はお前になにされたかて痛くも苦しくもない。
…心に入り込んでからやれば、お前の言いなりにもなったかもしれへんのに、…馬鹿やな」
その言葉に、強引に髪を掴み上げて持ち上げると、手を拘束する枷の鎖が鳴った。
引きつる痛みに顔をしかめながら自分を睨む白石を、強く視線で射る。
それすらわからない。
「……お前は、なんでんそこまで北に味方すっとや」
「…今更、普通の尋問か?」
「お前の心ば、占めとうはなにか」
「それこそお前に関わりあらへん」
「…………信頼も、戦績も、力も地位も、名誉も家もあって。
それでなんで北がよかね?
ここより」
「お前に、関係ない言うた」
「……俺は、」
言いかけて、室内に響いた音に舌打ちをする。
今のは屋敷に来客が来たことを知らせる音だ。
「…」
さっさと行け、といわんばかりの白石の視線に手を放すと、地面に倒れ込む身体が身を起こす暇なく立ち去った。
なんとか上体を起こした身体が呟く。
「…―――――――――――――来たか」
来客は謙也だった。
「お前と白石が暇してんちゃうかなー、て」
「そか。ばってん、白石はおらんとよ?」
居間に通されて、謙也はそうなん?と聞き返す。
「ああ。なんか、俺にはようわからんばってん…」
「ああ、部隊の仕事か。
特殊部隊の方はうちみたく暇やないんかもな」
「多分な」
ほな、帰った方がええ?と訊いてくる謙也にすぐ帰れとも言えない。
「いや、謙也さえよければ…」
「ふうん?」
「……謙也」
「ん?」
白石とは、幼馴染みだと謙也は言っていた。
「…白石、って、なにか…大事なもん、とか、人とかおる?」
「いきなりやな〜。なに、あいつが気になるん?」
「…そうや、なか」
「そうって顔しとるやん」
「……」
いじめたか、と謙也が腕を組んで素直に答えることにしたらしく、あるやろと言う。
「そうやなかったら、元々遺産も屋敷もあって、住むに不自由せんのにわざわざ戦争に出てこーへんやん。
それも改造受けて最前線の特殊部隊に志願したりなんか」
「それは、…誰?」
「…」
「謙也?」
そう紡ぐ顔が、酷く辛そうだった。痛みに耐えてる、思い詰めた顔。
「…千歳、お前…………」
「……、」
心に、入り込む暇が、時間があるなら、そうした。
そうしてお前の心に入り込める隙間があるなら、そうした。
『千歳、お前、失敗したんちゃうん?』
失敗じゃない。他に方法がなかった。
お前の意識に、こころに、魂に俺を刻む方法も、時間も。
なかった。他に方法がなかった。
早く、俺のものにしたくて。早く、俺を望んで欲しくて。
ただただ、あの鳥が欲しくて。
ただ、ただ本当に欲しくて、愛しくて、だから他に、方法なんか。
「……俺やないんは、確かや。
ようわからんけど。
………帰るな、俺」
千歳の心を見たわけでもないのに、そっと手を伸ばして肩を叩いた謙也を、そのまま帰せず飲み物くらい飲んでから帰れと引き留めた。
出された茶を、これ飲んだら帰るから、という謙也を残して居間から出た。
こんなにも、誰かを思うことはなかった。
初めて会った瞬間の、あまりに強い衝撃。
あんなに血生臭い戦場で、穢れなどないような白い服をまとった汚れなき髪と肌と瞳と―――――――――――――なにより、心。
囚われないで、いられる筈がない。
居間に戻ると、謙也はいなかった。
出した茶は空になっていたから、帰ったのだと思った。
冷たい地下の牢獄。
その地下の壁が、唐突に動いた。千歳が知る通路ではない、なにもない壁から現れた通路から降りた足が、白石のいる格子をあけた。
「……遅いやん、待ちくたびれたわ」
顔を上げて唇を綻ばせた白石の顎をそっと掴んで、薄く開いた唇に差し込まれた指を白石が素直に舐めた。
「悪い。俺も自由に動けなかってん。
堪忍な。白石」
「…、ええ。謙也も大変やもん」
謙也の手で外された枷から自由になった手で、謙也に渡された上着を羽織る。
「痛いとこないか?」
「大丈夫。身体の関節くらいや」
「そか。外に俺が乗ってきた空船〈モーブ〉がある。それ使うて北行っとけ」
「謙也は?」
空船は特殊部隊が使う空を飛ぶ羽根型のバイクのことだ。
謙也は来ないのか、と訊く白石の髪を撫でる。
「謙也…?」
「俺まで抜けるんはまずい」
「やって、お前が来てすぐ俺がおらんくなったら…お前も北の人間って千歳に。
そしたら俺のことはともかく謙也のことはあいつ上に言うてまう」
「…お前に気付いた理由はそれか」
「…」
苦笑した謙也が、安心しろと笑った。繋がりを悟られない方法もある、と。
「……それ、」
「…安心せえ、良くも悪くも、千歳がおる」
謙也の策に、一瞬泣きそうな顔をした白石を謙也は抱きしめた。
「……お前と別れる時は、…どっちかが死ぬ時やって…ずっと思ってたんに……」
白石の言葉に、謙也も『俺もや』と頷いた。本心だった。
「…ほら、行け。
……大丈夫や。すぐ会える」
「……謙也」
長い通路を昇る足が震えた。
此処を出て、彼をどうすればいいかを知っていた。
通路の終わりは、広い庭だ。
そこに停められた空船を前に、白石が振り返る。
ぶれた彼の左腕がレーザーの刃になるのを、謙也は笑んで受け止める。
「……ごめん。………またな、謙也」
「ああ」
微笑んだその身体の、胸を貫いた。血が謙也の身体から溢れることはない。
レーザーで焼かれた傷は、出血を防がれる。それでも、すぐ手当しなければ確実に死ぬ傷。
「……謙也」
呼んで、その手で屋敷を一閃する。半壊した屋敷に驚いて庭に出てきた千歳の、驚愕顔と目があった。
屋敷ごと殺すことは出来た。けれど、それでは証人がいなくなる。
謙也が命を張る理由が、いなくなる。
「お前…」
「特殊部隊舐めんなや。お前みたいなはぐれもんとはちゃう。
…残念や。
次は、戦場で会おか」
「待っ―――――――――――――」
すぐ飛行した空船が千歳の視界から消える。
「……白石! …っ…謙也!」
地面に倒れる、深手の同僚に気付いて千歳は足を止めた。
早く手当しないと危険な傷だ。
「…どげんして…?」
幼馴染みだと言った。その彼を殺めようとしてまで、彼にはなにが。
医療病棟で手当を受ける謙也を見舞った千歳を、彼はすまなそうに見上げた。
いくつもの管で繋がれて繋がれた命は、助かったもののしばらくは安静だ。
「……ごめんな。俺が、…気付かんとアカンかったんに」
「いや、…俺が、早く上に言うとくべきやった」
「…千歳、……あれは、白石の話か?」
「…?」
居間で、あの日した話。
「白石に、誰かここを裏切らなアカンほど大事な人か物があるんやないか…って、意味か?」
「……うん」
「……俺は、知らんわ。ごめんな。…少なくとも、…俺を殺してまであいつが選ぶもんは……」
知りたない、そう手で顔を覆った謙也に、なにが言えただろう。
「……ごめん、俺は」
白石の裏切りはすぐ上に、兵士全てに知れた。
次に会うのは、戦場だ。
途中、謙也を見舞いに来た特殊部隊の二人とすれ違った。
「あんたの所為や」
通り過ぎ様に言われて、千歳が足を止めた。小石川が彼を諫めたが、財前は強く千歳を睨み上げた。
「あんたが自分の手柄優先せんとはよあの人、上に突き出しとったら、…謙也さんは…」
「…光、よせ」
「……手柄なんて、…もんが欲しかったんじゃなか」
それだけ零して歩き出した千歳の背中を、財前が拍子抜けのように見送った。
欲しかったのは、あの鳥。
誰より真っ白で、気高くて強く、美しい、あの鳥が、…欲しかった。
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