五月終わりの、初夏だった。 千歳も、だいぶ馴れてきた。 というより、彼という異邦人に、周囲が馴れただけか。 「白石」 水飲み場で顔を洗っていると後ろから一氏ユウジに声をかけられた。 「ん?」 「次の練習、千歳と戦ってええかって、」 「…、ユウジが?」 「ちゅーか小春がなぁー。千歳は謙也と組むてぇ」 小春、のところであからさまにユウジは相好を崩した。 名前を出すだけで感極まれる彼が、白石はたまにわからないながら、ああそうと普通に理解の範疇だ。 「ふうん。ええけど、……千歳できんか? ダブルス」 九州でエースで、出来ない方がおかしかったがつい訊いてしまったのは、最早イメージか。 一秒後には、ユウジと一緒になって、謙也がパートナーなら大丈夫だろうとなった。 謙也はシングルス向きでもあったが、周囲の視野が広く、誰とでもダブルスを組めるためダブルス重視でオーダーを組む部員だ。 「ユウジー。許可出たと?」 「おう」 千歳が下駄を鳴らして伺いに来た。 「オッケーやって。ちゅーかわざわざ来んでもちゃんと許可取るて」 「ああ、そげんつもりじゃなかと。白石に用事」 「そっか。ほな俺らスタンバっとくわ」 「うん」 ユウジがコートの方へ駆けっていく。 白石が向き直ると、千歳があんなと言い出した。 「大会でも、俺を何度かダブルスに使うて欲しかって。 シングルス向きなんは承知しとるけん、ばってん相性もあると。 一回は試した方がよかと思っちょるけん、白石は部長としてどげん思うとる?」 「ま、俺も同意見やな」 千歳は案外真面目にオーダーのことも考えていて(決めるのは渡邊と白石だが)、入部前、財前が「その獅子楽は本当にうちで全国制覇する気あるんか」とぼやいていた言葉は危惧に終わったとわかった。 「組む相手は追々考えるとして、取り敢えず考えとく。やから今は安心して試合やってきぃ」 「うん、ありがとうな」 その先ほどのユウジほどではないが、相好を崩した千歳の顔が案外可愛らしくて、白石は一瞬反応出来なかった。 千歳にクエスチョンマークを浮かべて覗き込まれて、とっさに一歩下がったら空いた左手が未だ強く水を放出し続ける水道の蛇口を思い切り押さえてしまった。 「っわ!」 当然、飛沫が激しく舞って、水の洗礼を白石は喰らってしまった。 「…たた。しもた」 「なにやっとると…」 「いや、ちょお油断した…」 すぐ乾くかなぁとぼやきながら蛇口を閉める。 「千歳は行っててええよ、俺は包帯代えてから戻るから」 「ああ、…濡れてしもたけんね」 わかった、と千歳が頷いてコートに向かう。 それに、安堵してしまうくらいには、心臓が早かった。 白石は俯くと、クラブハウスに足を向けた。 「白石!」 その瞬間、大きく呼ばれて、びくりと足が止まる。 出来るだけ冷静に振り返ると、千歳だった。 「白石、今日ば練習の後時間あると?」 「…あ、ああ、あるけど」 「ちょっと話したか。よか?」 「ああ」 頷くと、今度こそ満足そうに千歳はいなくなった。 心臓は、もう早鐘のようだった。 クラブハウスはひっそりと、影の空気。 人気がないこの時間、戻る部員は自分だけだ。 性質を考えれば、保健室に向かった方がよかったが今日は何故かそんな気分ではなかった。 夏大会が近く、油断していたのかもしれない。 代わりの包帯を鞄から出してから、濡れた包帯を解く。 皮膚に張り付いた最後の一枚をはがす時、毎度のように軽く走った痛みに眉を顰めた時だった。 足音などしなかったのに、クラブハウスの扉が開いて、明るくなったのは。 「……………」 「白石?」とその声が呼んだ。 なんだそれは、と置き換えてもよい声だった。 何故自分は悲鳴すらあげなかったのか、腕を隠すこともしなかった、出来なかったのか今でもわからない、その瞬間。 包帯から露わにされた引きつれた左腕の傷跡に、あの時のものだと気付かない程、千歳は愚かではなくて。 流してくれと、願ったけれど、無理だろうとわかる。 自分の所為だろう醜い傷跡を見て、流せる人間はいない。 「…………」 呼吸をずっと殺して、俯いていると千歳はやがて室内に入ってきて、扉を閉める。 すぐ尋問の時間だと覚悟したが、彼は口を開かず白石の前にしゃがむと代わりの包帯を取って白石の腕に手際よく巻き始めた。 「……千歳?」 千歳は答えず巻き終わった包帯を確かめると、うんと頷いて立ち上がった。 「次、光と金ちゃんやるから審判してくれんね?」 「………ああ」 つい、頷いてしまった。 「ああ、白石」 その後もなにも訊かなかった千歳は、クラブハウスを結局なし崩しに一緒に後にする時、出口で。 「練習あと、忘れんでね」 それだけ言った。 追求されないことは有り難い筈。 けれど、その時それが怖かった。 練習の後、部誌を書きながら白石は次々と帰っていく部員に見送りの声をかけて、遅くまで金太郎を構っている千歳を待った。 いや逆だ。いつも遅い、最後に残る自分を待っているのだ。 部誌を書く手が止まった。 (痕は残らない) そう医師は言った。半年前。千歳には、謙也たちには。 自分と渡邊には、一生治らないと言った。 一番の被害者だった千歳と、仲間に嘘を吐いてくれと医師に頼んだのは自分だった。 渡邊は、知っている。包帯の下が、二度と治らない醜い傷に覆われていることを。 だから、迷った。 部誌は、渡邊も見る。 書くべきか。千歳に、バレたと。 迷って、やめた。部誌は、他の部員に見られることだってある。不用意なことは、書けない。 その時扉が開いて、千歳が戻ってきた。 部員はもう、千歳と自分以外いなかった。 「金ちゃんは?」と訊くと、ユウジたちとマクドと返答。 そうかと答えて、立ち上がった。 「で、話って」 言いながら自分のロッカーの前に移動する。 着替えのためにシャツを鞄から取り出した時、千歳が言った。 「ずっと、考えとったばってん」 指が止まる。なんだ、あの時言われなかっただけで、今じゃないかと。 「……白石、好きとね?」 真面目な、真剣な顔をして、彼はそう言った。 意味が、理解が追いつかなかった。 「……白石は、俺ば好きやけんね。最初、気のせいやけん、流しとったけど」 傷跡のことじゃない。 けれど、なにも出来なかった。 否定は、少なくとも出来なかった。 事実だった。 自分は、この異邦人に惚れていた。 「…………ちとせ……………?」 そっと、その大きな手が白石の左腕を撫でた。 そして、言う。 「俺も、白石が好きやけん。つき合いたいと」 ―――――――――――――「嘘吐き」 心の中で、罵ったのは誰。誰を罵ったの。誰が、誰を罵ったの。 わからなかった。すぐ、眼前は見えなくなった。 「…っ…ぁ……う……っ!」 嗚咽を殺せず、泣き出した白石を抱き締めて、千歳は好いとうよと繰り返した。 その度、涙はこぼれて止まらなかった。 ただ、痛かった。 自分が泣いた意味が、よくわかっていた。 好きだった。 好きだった。 だから、嘘つきと罵った。 ああ、自分は千歳を罵ったのだ。 俺が、千歳を罵ったのだ。 嘘吐き、と。 好きじゃないくせにと。 情事の後、身体が重くベッドに横になったままでいると千歳に気遣われるように撫でられた。 「…すっかり、性感帯になってしもたね」 笑って、傷跡の走る腕を撫でられた。 今となっては、その痕に口づけを受けないと射精出来ない。 そうしたのは、未だ燻る嘘吐きの言葉。 「………千歳」 「ん?」 「…………………ずっと、考えてた」 「なにを?」 「……」 「一緒に死んでんか」 口にした傍から、後悔した。 嘘吐き、と今度は自分を罵った。 よかよ、と言おうとした千歳の口を、渾身の力で両手で塞いだ。 嘘吐き。 よくなんてないくせに。 好きじゃ、 ないくせに―――――――――――――。 「嘘吐き…ッ!!」 やっと口を出た言葉は、彼より深く、自分の胸を抉る。 「なにが、好きや…。なにが…っ」 くぐもった声で、白石と呼ばれる。 黙ってくれ。頼むから。 「……義務感のくせに、罪悪感のくせに…そやなかったらこんな男なんかって思っとるくせに……! 俺は知ってんや…! お前が俺に負わせた傷の償いに一緒におるて、やから好きって言ってくれるだけやって、だから優しいだけやって、だから」 白石、もう一度くぐもった声が呼ぶ。 「…俺のこと、好きやないならもう」 ―――――――――――――「好きっていうな」 言えずに、終わった。 言えずに、手を離してしまった。 ただ、最早言葉が言葉にならない程泣きじゃくる白石を、千歳はあの日のように抱き締めた。 嘘吐き、と。 罵って、唾を吐いて。 汚いのは、俺だって知っている。 回された千歳の腕に必死でしがみついて、ただ泣いた。 「………で……おって……!」 傍にいて 千歳は髪を撫でて、頷いた。 自分は、彼が頷くとわかっていた。 狡い、汚い。 傷を負わせた負い目を、卑怯に利用する自分が。 彼が、自分を好きだと言ったのも、自分の好意に気付きながら流していたものをある日受け入れたのもあの傷の所為だ。 なのに、それにすがる自分がいる。 こんな醜い傷跡を残して、誰かのものになれなかった。 今更、全てをさらけ出す程他の誰かを愛せない。 千歳以外、本心全てを見せられない。 だから、千歳に捨てられたら終わりなのだ。 世界でたった一人、自分の全てを受け入れてくれる人。 だから、だから捨てられない。 負い目にすがっても、千歳を自分のものにしてしまう。 もう、千歳以外、誰も選べない。 誰の元へもいけない。 誰も、―――――――――――――愛せない。 俺には、千歳しかいない ……… 。 本当はわかっている。 それでも、構わないくらい自分は千歳が好きなんだと。 好きで、好きで仕方なかった。 こんなに醜い傷で縛り付けて、それでも放せない。 そんなにも、好きだった。 愛していた。 こんな傷を負った姿を、目を逸らさずあの日、見つめて抱き締めてくれたのは千歳だけだ。 千歳しかいない。 もう、千歳しか自分にはいない。 もう、誰も選べない。 捨てられない。 泣きながら、抱き締める腕が本当は誰を見ているのかさえわからなかった。 千歳からの愛情は、半分は本当だと思う。 それでも、矢張りそれは罪悪からの愛情でしかない。 それでももう、他の誰も選べないほど、逃げられないほど、捨てられないほど。 愛していた。 自分にはもう、千歳しかいなかった。 →NEXT |