逢魔が時
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アリアD.C/[黒の異変の始まり]
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だんと、音がするほどに引っ張られた教室の扉。
息を切らせて駆け込んできたのは遅刻かと思われたクラスメート。
「やっり間に合った!」
教師の姿が欠片もない事を瞬時に知って、向日は鞄片手に軽くガッツポーズを取る。
驚いたクラスメート達が我に帰るのも早い。
「おっはよー向日!」
「運がいーなーお前」
「てゆーか着替えあるの? 寒くない?」
等と騒ぐメンバーに、適当に返事を返しながら自分の席へと向かう。
外はもう嵐並の荒れた様。薙がれた木々と、雨に打たれた灰色の窓。
「先生はー?」
「職員会議延長〜命拾いしたなー」
「なに遅刻して来たの? 雨の日はがっこ嫌?」
「そんなんじゃねーよ。カメハメハの子供じゃあるまいし」
「え、向日ならありだろ」
「なんだとコラ」
「あ、嘘うそ冗談」
些か乱暴に机に引っかけた鞄。
居眠りして突っ伏している跡部の机を軽く蹴ると、のそりと起き上がった顔で“よう重役出勤”と言われた。
「さては迷っただろう岳人?」
「やっかましいんだよ跡部! 下見の暇なかったんだから仕方ねぇだろ!」
「じゃ迷ったのか。家出たの何時だ?」
「六時! っじゃなくて地図ねぇんだよ判るかよ馬鹿!」
「…お前一時間も迷ってたのかよ…」
救いようのねぇ方向音痴だな。
何だか憐れみさえ籠もった目で跡部に見られて、向日は“ちっがうわ!”等と怒鳴りながら椅子の上で軽く跳ねる。
事情を知らないクラスメート達は周囲で観戦するばかりだ。
雨の音が強かった。
他の組の生徒が入ってきたことにも、誰も気付かない。
「何が違う?」
「俺の責任全部じゃねぇって事!
俺だってまともに教えられてりゃ迷わねぇよ!」
「はぁ? …嘘でも教えられたんか?」
「ああそーだよ!
人が知らないのを良いことに曲がる角左なのを右とか言いやがってあームカツク!」
「なんか知らねぇがそれマンションの住民だろ?
大人にからかわれてんじゃねぇよ」
相当呆れて突っ込んだ跡部が、頬杖をついて空いた片手を机の下でぶらぶらとさせる。
騙した相手を“マンションの住民”と判断してしまえる辺り勘が良くて嫌だ。
しかし、微妙に外れている。
「大人じゃねーよ…」
どすんと立ち上がったままで放置されていた椅子に飛び乗ると、向日は力が抜けたように机に顎を乗せる。
「ま、中坊からかいの種にすんだから大人げないだろーな」
「いやそうゆんじゃなくてさ…。
青学いんじゃん」
「………………………なんで方向がそっちなんだ?」
「だから同じマンションに青学の奴がいんだよ」
「もしかして騙されたのってそれか?」
「うん」
「……………………………」
目一杯の沈黙。
教師はまだ来ない。
少しして跡部がブッと吹き出した。
「阿呆じゃね――の? お前。
素直に聞くなよちったぁ疑えよ」
「切羽詰まってたんだよ!」
「あーもー五月蠅ぇ本が読めねぇ。
忍足こいつなんとかしろよ」
「任せとき!」
「ずげっなんで侑士いんだよクラス違うじゃん!」
「向日突っ込み所違う」
「一応声掛けたで? 誰も気付いてくれへんかったけど」
岳人の声がでかすぎたん。
言いながらまるで自分の席のように、向日の前の椅子にどかりと腰を下ろす。
表情を見て、思わず退いてしまったのは向日だ。
「……………ゆーし……」
「ん? なんや?」
「……なんでこの天気でそんな上機嫌なんだよ……?」
「判るか?」
「顔に出てんぞ」
「跡部にはきいとらん。
そーか顔にでとったか」
「………いいことみっけたの……?」
「強いていうならそうやな」
「…………」
「……ん?」
「……なに……………?」
今までの経験上自分にとってのマイナス要素かプラス要素か判断が付かず、向日は自分の椅子の端を握り締める。
過去何度か、忍足やら跡部やら宍戸に玩具にされた経験があるのだ。宍戸ならまだ仕返せるからいい。跡部も面倒になったらさっさと飽きてくれるからこれもまだマシだ。
ただ忍足は納得というかキリがつくまで飽きてくれないから二回に一度はえらい目に遭う。
二回に一度は自分も遊べるネタなのだが。
最後の審判でも待つ面持ちで聞き返した向日に、忍足は我が物顔で床に置いた鞄から紙袋に包まれたままの本を取りだし机にばしんと乗せる。
「……………?
…………………何コレ?」
てっきりもっと目にグロいものがでてくると思っていたのか、拍子抜けして思わず沈黙が伸びてしまった。
とりあえず分厚い。忍足が特に何も言わないので、手に取って開けてみる。
「…………………………………………………………なにこれ?」
「参考書」
「…………………………………………………………なんで?」
「お前社会だけはえらい点数悪いからな受験そろそろやしとりあえず平均越してもらお思て」
「………………………うぇ?」
「二週間やる。それ全部埋めてきぃや?」
「………………………ぇ、…えええええええええ!?」
「答えあわせしてやるさかい。一問、間違うた事に劇団四季行くチャンス一回潰したる」
「つっつぶって……え!? え? なんで!? 俺それで迷惑かけた!?」
「試験の度にお前社会追試くらうやろ。その度にダブルスの練習の時間は裂かれるわ手伝わされるわ……。お前迷惑かかっとらんつもりやったんか」
「…………………つ、潰す……って?」
「そやな。まず絶対一緒に行ってやらん。他の奴誘おもんならあることないこと脅しつこーてのらんようにしたるし、一人で行こ思てもことごとく潰したるで?」
(本気だ。この楽しそうな顔は本気だ)
ダブルス組んでいるだけあって即座に本気を悟る。
分厚い参考書を持った手が疲れてきた。
「わ、判ったやるやるからそれだけは止めろよ!
折角前の席取ったのに無駄になるじゃんか!!」
「…もう取ってたんかい」
「頼む! このとーりだからなぁ!」
「別に意地でも潰したろとは思っとらんよ。
根性見せてくれるんやったら笑顔で送り出したる」
「その言葉覚えてろよ……!」
「……なんでお前語尾行く事に声量小さくなってんだよ」
「…社会は鬼門なんだよ……」
泣きたそうな顔で向日が呟く。そういえば教師が来ていたら結構やばい図だったのではないだろうか。誰も気にしてなかったが。
「手塚、ちょっといいか?」
四時間目に差し掛かった頃には嵐はますます暴れるばかりで、収まろうという気配は欠片も見えない。
これは部活は中止どころか、学校が六時間目までやるかも怪しくなってきた。
自習になったクラス内で、ひとまず昼休みにある生徒会の集まりに使う書類の整理をしていると、クラスメート伝いに大石に呼ばれた。
「ごめんな」
「いや、いい」
おそらく彼のクラスも自習なのだろう。がやがやとした空気が、嵐に対する子供じみた期待と不安感を現して校舎内を漂っている。
「さっき竜崎先生に会ったんだけど。言わなくても判るだろうけど中止」
「この嵐ではな」
「でも、授業の方は揉めてるらしくて。今切り上げたってどうせ帰れないからって」
「…ああ」
だからといって余計酷くなったらどうするんだという言葉は呑み込む。
今更だ。ああ今日はその言葉ばかり思っている。
「それで、実は六組も自習らしくてさ。
竜崎先生が許可は取るからどうせならこの時間に考えてくれないかって」
「考え?」
「次期部長」
俺等ももう引退だろ?
「……そうだな」
言われて、初めて知った事ではないのに。
名残惜しく、感じた。
不二の、夏だよって、言葉。
「――――――――――――やっぱりさ、桃?」
「ていうか、ほぼ桃か海堂。だよねぇ」
「まぁな」
空き教室を探すくらいなら――――――――――とどうせで生徒会室に弁当を持って集まった。とはいえそれは昼休みまでには食べてしまえるだろうもので。生徒会役員は手塚だけであるし、テニス部もう一人の生徒会役員のクラスは授業中である。
「手塚、矛先決まった方しか向かないよ」
「…………、いや」
零した言葉は、否定より肯定。
(君は、結構前から桃びいきだもんね)
心の中で、こっそりと呟くと読まれたように、不二は手塚から一瞥された。
「あ、なぁなぁそういやーさ。朝の話なんだけど」
「朝? 王様ゲーム?」
「菊丸」
今は一応授業中なんだと告げる厳しい声に“なんだよいいじゃん”と返す文句は退いてもいない。余程でない限り、菊丸もあまり手塚に怯えない質だ。
「最後の奴だよ。ほら桃の―――――――で思い出したんだけど――――――――“怖かった思い出”。答えたのはおチビと乾だし。他のも聞きたいなーと」
「思ったわけね。僕はてっきり“福島名産コンビ”かと」
「あれは乾も痛いトコつくよなー」
流石乾、といない人間を茶化してもう決定とばかりの態度で三人を覗き込む。
「…手塚、諦めなよ」
「………………」
「な、笑い話になる事でいいから」
「…暇なんだろ、英二」
「まな」
「…………」
また、眉間に皺増えてるよなんて言ったのが不二でなかったら、教室にバックしていたかもしれないと、手塚は本気で思った。
「――――――――――――――で? 落ちたの? 手塚が?」
変な沈黙。
そんな空気に支配されるのは嫌だったが、話したのは自分。
仕方なく肯定の意を示せば、身体を折って爆笑する不二と菊丸、大石でさえ悪いと謝りながら肩を震わせている。
此処に乾がいたならきっと、
「ま、その体勢で釣り堀に落ちてしまうのは仕方ない。
子供は頭が重いからね。更に質が悪いのはそれを判ってないからだけど、それは極普通のことだよ手塚」
と口の端を上げて宣ってくれるだろう。
…誰のリアクションよりもそれが一番腹立つ気がした。
「……っあー…今日笑ってばっかもー……………君のせーいー……」
「五月蠅い」
「威厳ないぞー手塚ー……。
ね、不二は?」
笑い転げていたかと思えばすぐに矛先を変える。菊丸らしさが今は目に付く。
「僕? ――――――――――――――――そーだねぇ。
一番はパス。でいい?」
「いーよ。笑い話で済む事でいいって♪」
「そ。じゃあ三日前の事ね」
楽しげに覗き込む菊丸に、さらっとした不二の声が浸透する。
ソレはヤケに最近のことじゃありませんなんて、視線を不二はにこにこと受け止める。
「駄目?」
「…いいけど」
随分新しい話なのな…。
菊丸、少し脱力。
「三日前っていうと、振り替え休日だったよな」
「そ、部活もなかったから出掛けたんだけど。
途中で乾にばったり会ったんだよね」
やあ、やあなんて変わり映えない挨拶をした。
道の端で、何処行ってたのとかそんな事を訊いて。
「君、休日くらいノート手放さない?」
「嫌だよ。何が在るか判らないのに」
地上から立ち上る熱気。熱いアスファルト。揺れる蜃気楼は低い。
道路が、揺れているようだ。
それでも人の群は容赦なく、容赦なく、今を生き急ぐ。
「君って、ずっとストーカーで行きそうだよ」
「え? なに――――――――――――――…?」
僕の言葉を遮り、乾に声を届かせることなく。響いた騒音。
身体が浮きそうな程の衝撃を、直でなく、間近で感じた。
生暖かい突風も。人の誘発的に広がる悲鳴も。
瞬間、眼鏡越しにも凍ったと判る、乾の顔も。
最初、は訳のわからない時間の間。
振り返ってみたら、本当に僕の真後ろの壁にトラックが、衝突してめり込んでいた。
はっきり言って、間が十p程度であった。
御陰でコートが挟まれて身動きできない。
「………高かった、んですけど」
ぽつりと呟いたら、我に返った乾に。
「…っ……そういう問題じゃないだろ!」
と怒鳴られた。
「…あれ? いや今思い返しても怖くないな…。うーん。
あ、でも乾が叫んだのは相当久々に見た気がするけど」
呟く言葉を聞き咎めて、その日の乾のように。
「だからそういう問題じゃないって!」
ばんと机を叩いた菊丸に怒鳴られた。
見れば大石も、手塚も柔らかさのない瞳で見ている。
睨むような強ささえ混ざる手塚のソレから逸らすように菊丸を見て、不二は表情は殊勝に謝った。
「乾は全然言わなかったじゃん!」
「うん、口止めしたもの」
「なんでだよ!」
もう一度叩かれる机。誰も止めない。
説明したってわかんないよなと思って、不二は緩く口元を和らげた。
「だって、皆怒ったり心配するでしょ?
過ぎたことで僕は無事だったのに。
―――――――――――――我が儘?」
「…って…!」
叫び欠けた菊丸。不二は生徒会室の入り口に視線を合わせて微笑んだ。
ドアががたんと鳴る。
弾かれたように見たのは、ドアに手を掛けて佇む女の子。
黒の背中辺りまで伸びた直毛の髪と、小柄で細い四肢。
「………ぇっと……美波、ちゃん」
もうとっくに昼休みだったらしい。生徒会会計職の二年の少女は、持ち前の強かさでにこりと笑った。
「お邪魔してすいません」
「…いや、お邪魔していたのはこっちだし」
「乾先輩と、下宮先輩来てないんですか?」
「…ああ」
そういえば、そうだ。時間にルーズではないから、授業が遅れているのかも知れない。
「…あまり、時間の幅はないんだがな」
「じゃ私、見に行って来ますよ」
え? という大石や菊丸の反応を余所に、手塚は止めないから美波はさっさと生徒会室を出て行ってしまう。足取りが軽いのは気のせいか。
「あれ、珍しいね手塚が気付いてるなんて」
急に場違いな事を言ったのは不二。手塚は先程の会話を引きずってか軽く見据える。
「…気付く?」
「美波ちゃん。乾の事好きなんだよ」
「え!?」
「…そこまで驚く?」
乾に失礼だと思うなー僕。
でも分かり易いよ、本当。
「さってと、僕等はお暇しなくちゃね」
「…不二」
「手塚、生徒会長が引き止めちゃ駄目でしょ?」
ちちっと指を振る、それがいっそう苛立った。
迷った一瞬に、廊下へ出てしまった不二を咄嗟に追って。
立った手塚がドアに手を掛ける。
「…うわ〜………すごい事になってるよ」
壁と窓、隔てた向こうの外界で荒れ狂う風と千切れた緑の欠片。
いよいよ雨も強まって、普段ならあれ程鮮明な校門さえ霧の中のよう。
昼休みの五分も経過した頃、遅れていた授業がようやく終わって、十一組の生徒も思い思いに腕を伸ばす。三年十組、十一組、十二組の三クラスしか“学級”と呼べる教室がない四階西のフロアは、一階下のフロアよりも生徒の行き来は少なく、がらりとしている。
貸し借りは必然的に三クラスだけで行われるし、一階下の三年生もわざわざ四階まで借りには来ない。階が違うだけでなく、位置も両極端だからだ。こちらが校舎の西の端なら一組から九組は東側に近い方にある。その上、この通称“上三組”は特殊学科だ。
十組は商業専攻科(河村はギリギリまで高校からと決めていなかったのでこの科ではない)、十二組は工業専攻科。そして乾の十一組は特別進学科だ。
特進科は特に、年によっては“友達ってなに?”というクラスになるが、乾のいた年は運が良かったのか、難しい程燃えるが人付き合いの良い奴らが集まって近年まれにみる団結力を誇る。その上何故かノリの良い奴ばかり集まったため、実際頭がいいぶん、馬鹿をやらかすクラスである。乾はそのクラスの中で成績が20分の6。つまり二十人中の六位。
運動部にいる生徒の中での、最たる成績を誇っている。普通科と一緒に成績が乗るのは運動部に在籍している生徒のみなので、それで乾は普通科の順位では首席なのだ。
「うっわ本当だ……。購買行くのさむそー…。
あ―――――――――――――佐古下の奴十分も延長しやがって……」
「でも、十組で更に五分延長したらしいぞ」
「うわ有り得る奴なら………」
「でも、階下のクラスも同じだろうから購買は普段より空いてそうだよ」
「あ、乾」
ひょいと顔を十一組に戻せば、丁度出て来た長身のクラスメートが見えた。
眼鏡の奥の表情を読み取るのは難しいが、こうやって急に話に入ってきても不思議と不快感の芽生えない人間だ。概ねクラスの中でも頼りにされている。クラス委員でないのはただ単に生徒会だからだ。
「だと良いけど…、寒いってか風強いのは嫌だな」
「そのうち硝子とか割れんじゃねぇ?」
「割れたとしても一階だね。物が当たらなきゃ割れないよ今のところ」
風で割れるようならとっくに俺達帰されてるか、放送でもあるよ。
「あーそっか……。
…、乾購買?」
「や。弁当だけど、生徒会室行くから」
言いながら見せた彼の手に、布に包まれたそれらしいものが吊されている。
「あー下宮待ってんのか」
「そゆこと」
「じゃ、俺等購買行ってくるわ…覚悟決めて」
「はいよ」
「じゃな」
重たい足取りで廊下を靴裏で踏みしめていくクラスメートを見送って、乾は窓辺に背を軽く預ける。がたがたと鳴るが、怖いという感情は全くない。
「乾」
声が掛かって顔を上げると、教室から待ち人が慌てて出てくるところだった。
あまりに焦っているから途中弁当箱を一度床に落としていた。
「下宮、慌てすぎ」
「悪い悪い…、遅れると会長こぇえから…」
それは言わずもがな手塚であるが。
「手塚はそこまで容赦なくないよ。…多分ね」
彼の慌てようがあまりにおかしくて、乾はつい口の端を上げながらそんな事を付け足してしまう。
下宮順。乾の友人で、特進科で乾を含め唯一運動部に在籍する三人のうちの一人。
順位は20分の8。生徒会副会長。
もう一人は今はいない。名前といえば狩野駆。乾を越す長身と特進科にあり得ない金髪のバスケ部在籍で、順位は20分の20。つまり、クラスの最下位。そのため狩野は部を辞めるよう何度も言われている。狩野と親しい下宮と乾は、特に助力をしない。
他人からの、それも同じ特進科の人間が教えて成績が上がったのでは意味がないからだ。
「多分って…お前はテニス部だから…」
「そういうことじゃないと思うけど」
とんと窓枠に手を付いて、寄りかかっていた身体を窓から離す。
相変わらず五月蠅い窓の外を一瞥すらせず、ふと左手にした腕時計を乾が目に止めた時だ。
耳元で鋭い、何か硬い物をパイプで殴ったような音を、乾は捕らえた。
首筋が、チリと寒さで総毛立った気がする。
ふと、気付けば目の側を飛ぶ硝子の破片。
何が起こったのか理解する暇もない、振り返ったままの下宮の顔が張り付いた笑顔のまま切り替わらずにいた。
えらく冷静に、状況判断をする自分を乾は傍観していた。
一瞬切り替わったような錯覚の視界。
辺りで女子の悲鳴が上がったのは、本当にすぐで。それで我に返った下宮が駆け寄ってきたのも。
「乾!!」
男なのに、悲鳴じみた声は普段より高く聞こえた。
ほぼ中心から一枚割れてしまった窓、風が我が物顔で流れ込んで、雨水が身体に打ち付けてきた。硝子の破片が散る。自分の足下に出来た硝子片と水の溜まり。自分がその場にへたり込んでいると、気付くのに乾はしばらく掛かった。制服も濡れている。
足下の、膝を付いた周辺の水に、紛れもない赤が増えていっている。
おかしいくらい、痛みがない。
「乾! おい!」
下宮の声を聞くより早く、無意識に右の手首を強く押さえ込んでいた。
「………下宮、タオルかハンカチない?」
流れ出たのも、随分冷静で平坦な自分の声。
何処を怪我したのか判らないが、とりあえず自分の目に付く箇所で、やばいと思えるのは一つ。
「…手首、ざっくりやった感触があるんだ」
そう告げると、目の前で数秒掛けて青ざめた、彼の顔があった。
言う側から、押さえ込んだ手首から伝わるどくんという脈の異様な感覚と、流れ出てきた赤い血が、制服や廊下を汚していく。心臓より上に手首を持ち上げながら、明らかに他の場所より出血が酷い事も判っていた。
女子の悲鳴は、何処かで泣き声に変わっていた。
→[さみしい感染]
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