楽園に帰れない

第一話−【雪に陰る空】





 樹氷が街を覆うように、空を覆う雪。

 ひらひらと舞って、肌を刺し、キミの心を隠した。

 空から降って、耳を閉ざし、キミの声を塞ぐ。

 瞳に映る、一面の雪のように。

 解けたら溶ける雪ならいいのに。

 髪を刺す雪のように、指先を凍らせる雪のように。

 解けたら、なくなる雪ならいいのに。

 この現こそが、夢ならいいのに。

 これが、―――――――――――――夢ならいいのに。


 雪のように、溶けて消えてなくなって欲しかった。



 キミの、彼への気持ちなんか。




「千歳!!!」




 耳を刺す、キミの声に蓋をした。



 視界を覆うのは、雪ではなく、トラックのライトだった。





「千歳、ごめん」
 冬の、重い雲の覆う日、俺にそう言った。
「蔵んこつ、好いとう」と告げた。白石は、「ごめん」と返した。
「なんで…?」
 茫然と聞き返す千歳に、白石が首を左右に振る。
「千歳は好きや。けど、あくまで仲間や。
 …俺が好きなんは」
「……っ、なら、なして…」
「…ちとせ?」
「なして、…許したとや…」
 名前で呼んでいいかと、前に訊いた。彼はいい、と笑った。
「なして…?」
「……」
 彼にすら許さない名前を、何故俺に許した。
 気持ちが彼にあるというなら、何故。
「……千歳の願いは、叶えたりたかった」
「なして?」
「……お前の欲しいもん、なんでもやりたかった。
 こんな早く右目なくして、独り大坂に来て…お前に会った最初に、俺はお前になんでもしてやらなって…」
「……」

 愛情には、違いない。
 けれど、それは。

 言葉さえ、失った。
 彼が、どこまでも誠実だと、優しいと知っていた。
 だから、偽善のような生ぬるい気持ちじゃない。
 本当に、想われていたんだ。
 けれど、俺の欲しい愛情じゃない。
 覚悟も、罪を負う責任も彼にはきっとあって。
 もし、身体だけが欲しいと言えば、許すだろう。
 ただ、気持ちだけは渡せなかった。



 それは、…謙也のものだったから。







 頬を刺す雪の冷たさに目が覚めた。
 瞼を押し上げた千歳の視界には、駅を行き急ぐ人の群。
「キミ、こないなとこでどないした?」
 自分を覗き込むのは、交番の駐在だ。
 千歳は駅のホームの入り口の階段に、背を壁に預けて眠っていたらしい。
 前後がわからない。
「いえ、すんません…」
「いや、…キミ、幾つ?」
「…十四」
 この体格で早々歳は訊かれないのだが。
「じゃ、こんな時間に外に出てたらアカンやろ。
 家どこや」
「…自分で帰れますし」
「名前、」
 しつこく名前、と訊かれる。
 うるさそうに目を細めて、渋々答えた。
 訊いた名前と住所をメモして、駐在は携帯を手に取る。
「あ、もしもし? そちらに…」
 ふと気付く。自分はなにも手に持っていない。鞄もなにも。
 携帯もない。
「…え? はい」
 電話を切った駐在が、疑わしいように千歳を見た。
「嘘は言ってない?」
「は?」
「やって、かけた場所、『千歳って人に部屋は貸しとらん』って」
「…は?」
「キミ、どこの生徒?」
「…四天宝寺中」
 答えた千歳自身、嫌な予感がしてきた。
 その後、駐在がかけた四天宝寺の名簿にも、あろうことか九州の実家にも。

 自分という、存在がなくて。






 冷たい雪が降る。
 ああ、そうだ。トラックに撥ねられたんだ。
 死んだからか?
 俺は、今は幽霊?
 だから?
 なら、何故雪の冷たさを感じる?
 何故、寒いんだ?

 瞼が重い。

 願ったからか?
 雪のように消えればいい。
 違う。消えて欲しかったのは恋心。
 白石の、謙也を思う気持ち。

 俺じゃない。

 眠りに落ちかけた千歳の耳に、声が触れた。
 民家の道の端、立ち止まった誰かが頭上で話す。

「おい、やばくあらへん?」
「そやなぁ…死んで、へんかな? 喧嘩?」
 やられた後?
「怪我しとらんみたいやけど。…ただ、何も持ってないみたいや」
 ふと、麻痺した脳に届いた。声。
 白石の、あのテノール。

「おい、お前…」

 伸ばした千歳の手は、彼の手を掴んだ。
 見上げて、そこにあった彼の愛しい顔に、思わず笑みが零れる。
 けれど、隣にいた彼の思い人の姿に、涙も零れる。

「…蔵ノ介」

 そう呼んだ。それが記憶の最後。





 浮上した意識は、徐々に自分の身体が柔らかいシーツに包まれていると理解させる。
 頭を起こすと、大きな寝台と、傍を照らす小さなライト。
「……ここ」
「あ、やっと起きたか?」
 自分、三日も寝とったんやで?と安堵を響かせた声が耳に触れる。
 扉を開けて、入ってきたトレーナー姿の青年が部屋の照明をつけてから、千歳のいるベッドサイドに座った。
「ん、熱はもうないな。なんか食べるやろ」
「……蔵?」
 白石だ。間違いない。
 彼は目を瞬くと、肩をすくめた。
「自己紹介が欲しいんやけどな?」
「…え?」
「俺は、キミを知らないし、キミがなんで俺を知っとるか、親しく呼ぶかもわからん」
「………、」
「ダレや?」
 あ、そうだ。自分は、存在がないんだ。
「………俺、……多分、死んで」
「は?」
「いや、死んで…やけん存在がない…」
「あのな、死人が熱出るか!? 暖かいか!? 生きとるわ」
「…ばってん」
 家にも、住んでるアパートにも、存在がないと告げた。
「なにより、蔵が俺を知らない」
「…?」
 眉を寄せた白石に、千歳が言い募る。
「俺は、白石蔵ノ介の同級生ばい。中学の。
 ばってん、あんた、俺を知らん。
 …わからん」
「…………」
「……」
 信じてない。そう悲しくなる。俯いた千歳の耳に、わかったという彼の声が届いた。
「キミの言い分はわかったわ。
 そんなら、事情がちゃんとわかるまで、取り敢えずここに居りや」
 顔を上げた千歳の眼に、白石の顔は疑っていないように見えた。
「…え」
「わかった、って言ったやろ? 身分わからんなら、しばらく居り」
「…やって、俺、…信じられなかろ…?」
「そやな。やけど、お前の存在が無い、正確には戸籍がないっちゅーんは確認済みやしな」
「…?」
 千歳が眠っている間、医者に見せようとしてその辺りを彼も理解したという。
「まだ、ここらの地区の住人に当たっただけやけどな」
「……」
「ええか?」
「…あ、うん。ばってん、親御さん…」
「俺は一人暮らしや。…ちょお、待て。お前の知っとる俺、て幾つ?」
「え、じゅうよ…いや、蔵は十五歳。四月生まれやけん…」
「てことは、お前中学生か? 見えへんけど」
「…うん」
「俺は二十四歳や。独立しとるし、働いてる。お前一人少しの間養うんは無理やない。
 丁度、ベッドも二つあるし、ええやろ」
 そういえば、この寝室には何故か寝台が二つ。
「あと、俺は年上。敬語と、さん付けくらいせえ」
「……蔵ノ介、さん」
「結局名前か…ま、ええわ」
 白石は笑んで肩をすくめると、立ち上がって千歳の髪を撫でる。
「お前、名前は?」
「…千歳」
「なまえ?」
「名字。千歳、千里」
「…、千里くんか」

 その声に、初めて呼ばれた名前。泣きそうになった。それだけで。






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