楽園に帰れない

第二話−【重ならない笑顔】




 その白石と暮らして、知ったこと。

 年、24歳。府内のマンションに一人暮らし。
 仕事は営業マン。出身中学校、四天宝寺中。
 当時のチームメイト、俺の記憶と狂いなし。俺がいないことを除いて。
 身長、187センチ。俺と結構身長が近い。体格差がそれでも結構あって、安心した。
 身長高い割に、痩せているというか、華奢。
 料理上手。家事全般こなす。
 面倒見の良さは相変わらず。
 料理くらいやると言っても、中学生こき使えるか、と譲らない頑固さも相変わらず。

「ただいま、千里くん。なんか変わりあった?」

 玄関で靴を脱いで、ほほえみかける顔に、複雑そうに微笑み返した。

 相変わらず、じゃないところ、俺を名前で呼ぶところ。

「なにも、なかですよ」

 俺も、敬語を使うこと。

「それもそやけど…、遅くなってごめんな?
 あ、俺が遅くて先食べたい時は勝手に飯作って食べてええんやで?」
「そうやったとですか?」
「当たり前やろ。カミさんでもないんに」
「…それはそうばってん、…料理するなって」
「それは俺の分まで作るなって、意味」
「そげん嫌ですか?」
「…厭なわけちゃうけど、料理自体は」
 一回だけ、怒られる前に作ったことがあって、怒りながら白石も食べたことがあった。
 美味かったし、好きやけど、と彼は言う。
「せやけど、意地やから」
「…?」
「…あー、悔しいやろ。一人暮らししとる24の男が、14の中学生に料理で負けるやなんて」
 本当に悔しそうな白石に、ついくすりと笑ってしまう。
「蔵ノ介さん、料理うまかのに」
「千里くんのがうまい」
「俺、一人暮らしばしとりますよ?」
「何年?」
「一年、くらい…」
「年季、俺が上やんか」

 変な意地は、初めて知った。

「あ、そや。飲み物、買ってきたんやけど、銘柄これでええ?」
 渡された珈琲に、はいと頷く。
「ホンマ? 無理しとらん?」
「してなか」
「そか」

 笑顔、少し違う。

 俺の知る彼は、もっと俺を一杯気遣って優しかった笑顔。

 彼は、どこか意地悪に、からかうように、笑う。
 大人びた、柔らかい、独特の笑顔。

「今日ごめんな。もう、うわ、十二時過ぎとる…」
「なんかあった?」
「いや、女子社員と打ち上げ。早くに抜けたんやけど」
「あれ、女の子、平気なんですか?」
「? 普通やと思うけど」
「逆ナンとか」
「ああー…そうかなぁ。愛想よく来るからそこそこ気持ちええけど」
「そうですか…」

 女嫌い、ない。

 白石は、モテることを自分のステータスにしていなかったし、役立てていなかった。
 彼はステータスにはしていないが、利用していないとは言わないだろう。

 洗面所に歯磨きに行った時、気付く。
 歯ブラシと、コップが二つある。一人暮らしなのに。
「…どないしたん? 固まって」

 千里くん、と呼ぶ声。
 全然、違う。

 もっと、しっかりしろと強く呼んだ声。

 彼の声は、しょうがないな、と、子供やから、と甘やかすように呼ぶ。

「これ…」
 本来、聞ける権利もない。けれど、突き動かす不安があった。
 この彼も、謙也を愛していたら。
「…それ? ああ、…別れた彼女のそのまんまやった」
「…今は、付き合うてなか?」
「うん」
「誰とも」
「うん」
「…謙也は?」
「…忍足謙也?」
「…」
 頷いた千歳を、酷く可笑しそうに見つめて、からかうな、と千歳の髪を引っかき回した。

 頭を撫でる手、全然知らない。

 白石は背が低かったから、そもそもしなかった。

「んなわけないやろ。この部屋に入れた男自体、千里くんが初めて」
「……、」
「おい、なんで声も出んほど安堵すんねん…」
 俺、そんな謙也を話題に出したか?と不思議そうな白石の話題に、実際謙也はほとんど出ない。部屋にある写真に、謙也は特別多くない。
「も、寝よか?」
 ご飯食べたし。
 甘えさせる態度も、知らない。



 寝台に横になって、隣の寝台を見遣る。
 寝息が、ここまで届く。

 寝顔なんか、もっと、



 知らない。






 ある日、帰宅した白石は少し酔っていた。
 会社の付き合いだ、と。
 酔いつぶれる程飲む気はなかったが、油断したと言って、ふらつく足で歩くので肩を貸した。
 ごめんと謝る声は、もう聞き慣れた白石の大人ぶった声。


 ライトで照らした寝台に横になった身体にシーツをかける。
 のどが渇くかと、水を持ってきて呼ぶと、うっすらと瞳を開けた。
「…ん」
 酔っていて思考がはっきりしないのか、白石が伸ばした手は千歳の手ごとコップを掴んだ。
 そのままこくこくと水を飲む唇。伝って首まで流れた水。
「…、せん…っ…冷た…」
 それは、多分落として服を濡らした水。
 寝台の上に乗り上げて、片手を掴んでシーツに押しつける。
「せん…っ」
 なにか言う唇を深く貪った。

 キスも、知らない。

 突っぱねようとする手を掴んで押さえつけて、緩められていたネクタイをそのまま引き抜く。
 はだけたシャツの合間から覗いた鎖骨にチリ、と痛みが走って白石が顔を歪める。
「く…」
 そのまま下肢に降りてベルトを掴んだ手に、白石が強く叫んだ。
「千里くん…っ」

 そこで、ハッとした。
 千歳の動きが止まって、茫然とした顔で下にいる白石を見下ろす。
 彼は詰るでもなく、固まる千歳を見上げて「離して」と静かに言った。
 おとなしく手を放した千歳を退かして起きあがると、白石は少し酔いの醒めた顔で千歳を見た。
「…理由、訊いてええか」
「……っ」
 一瞬瞳を揺らがせた千歳も、すぐうつむき、口を開いた。
「…俺は、俺の知っとう白石を…好き…いえ、愛してましたから…」
「……代わり?」
「違う。俺は受け入れてもらえんかった。俺の知っとう白石が好いとうは謙也で、俺やなか。
 俺は、…選ばれんかった。
 受け入れられなくて、道路に飛び出して、赤信号だって気付かんくて…トラックに」
「…それで死んだなんて言うてたんか…」
「…気付いたら、蔵ノ介さんと会ったあそこに」
 白石は、静かにそうか、と言った。
「すみません…」
「もう、ええ。代わりなら、まだ危ないけどな。
 ちゃうんやろ?」
 千歳も、それに頷く意味で首を左右に振った。
「あんたは…俺の知っとう白石と違いすぎる。…代わりにするには。
 …出来ませんし、…したくなか」
「…そらそうやな」
 思わずその、それでも自分より細い手首を掴んだ。驚く白石に言う。
「そういう意味やなか。あっちの白石を蔑ろにしたくなかって意味やなか。
 ……あんたを、…傷付けたくなか…って、」
「……、」
 信じてもらえないかと、顔を背けかけた千歳に、白石は嬉しそうに微笑んだ。
「そか」と、優しく。
「…千里くん、それ、嬉しいわ」
「……蔵…?」
「…俺は、キミ、好きやしな」
 恋愛やないけど。



 だから、どうしてそう、嬉しいことを言うのだろう。




 あまりに、違う面が多すぎて、重ねられない。
 代わりになんか出来ない。
 違いすぎて、似てなさすぎて。

 重ねたくない。







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