楽園に帰れない

第三話−【あなたの見せた夢の終わり】




 ここは、違う世界だろうか。
 俺のいた、世界と違う世界。
「千里くん?」
 呼ぶ声に振り返った。
 此処で迎えることになった大晦日。
 俺の、誕生日。
「ホンマにええん?」
 白石が何度も今日聞いた言葉だ。
 よかです、と答える。
 白石はしょうがない、という風だ。それでもまだ大人ぶりたいのか、千歳が強請らないかとなにか言いたげに笑う。
 誕生日祝いに、プレゼントくらい、という彼に断った。
 悪いし、ずっと大事に出来るかわからないから。
 この世界が、違う世界なら戻れた時、そのプレゼントを持ち帰れるかわからない。
 無理だったら、彼の気持ちを無駄にする。
 ケーキだけでいい、と答えた。
「…ほな、十五歳おめでと」
「…ありがとうございます…」
 ろうそくを吹き消すのも、恥ずかしい。妙に。
 同い年が相手ならふざけた声も合いの手にあるのに、相手が成人済みの大人だとのんびりと見守られるだけだ。羽目を外すと言うことがない。少なくとも、年下の前では。
「せやけど、惜しいなぁ…」
「なにが?」
「プレゼント」
「まだいいますか」
「やって、俺、年下の従兄弟とかおらんもん。妹とは離れとるし。
 こう、年下の男の子…弟とか子供を祝う…っちゅーの、やりたかった」
 元から世話焼きだったから、白石は。
 だから、大人になった彼がまだ見ぬ子供を猫可愛がりしたい気持ちも、わかる。
 だが、理解する前に、胸がずきりと痛んだ。
 痛んだ後、理解した。
「………プレゼント、…俺にあげたいんですか?」
「うん」
 屈託なく、頷く顔は、幼い色はもうどこにもない、大人。
「…俺にプレゼントしたいんは…『年下を誰彼構わず可愛がりたい』からですか」
 我ながら、残酷な言い方をした声は掠れた。
 白石が、きょとりとする。
「いや、千里くんやからやろ? 誰彼構わず…って、俺博愛やないし」
 ああ、違う。
 笑いの混じった彼の否定に、そう思った。
 同い年の彼なら、ここで不快そうになにか言ったのに、彼は受け流す余裕がある。
 笑う、余裕まである。
 少し、大人だなんて嘘で、俺と同い年じゃないか。
 大人でも、白石は白石だ。俺の方が大人じゃないのか。
 なんて、気持ちがあったのに、今、すぐに苛ついてしまうのは自分。
 自分が、彼より子供だと、幼いという徹底的な証。
 彼が、大人だという証。
 彼が、自分の知る『白石蔵ノ介』じゃないという証。
「ばってん、拾ったんが俺じゃなくても、その子にプレゼントしたがったんやなか?」
「千里くん。そない仮定は無意味。
 なんで今おるんはキミなんに、他のヤツだったらって考えんの?」
 大人だ。そういう声にすら、苛立った調子は全くない。
 静かに、優しい諭す声。
「…………」
 論理で、勝てない。
 言葉で、押し切れない。
 それに純粋に苛立った。
『白石』なら、キレさせてなし崩せるのに。
 言葉で、論理で勝てない。彼には、余裕を奪ってペースを奪うこともままならない。
「なら、プレゼントいうなら、…一個欲しか」
「…ん? なに?」
 その余裕を、穏やかな笑顔を崩してやりたい。
 何故か、強くそう思った。
 彼に感謝しているのに、何故だろう。
『いつものように』戸惑って自分を見る、『白石』を見たい。
「キス」
「…、え?」
「キス、して欲しい。
 一回だけでよかから、口に。
 モノはなくしたらって心配やけん、強請れん。
 ばってん、思い出なら有効ばい」
 流石に沈黙した白石に、嗜虐心すら芽生えた。
 次に彼の唇から出る言葉は、どんなに戸惑いに満ちているかと。
「千里くんは、それで嬉しい?」
 けれど、彼の唇から出たのは、矢張り優しい、穏やかな声。
「俺はええけど…向こうの俺に片恋しとったキミは、嬉しい?
 キミが傷つくことにならん?
 …キミが言うたんやろ? 俺は『白石』の代わりに出来ない…って」
 悲しげに微笑む顔。諭す、優しい声。
 崩せない。余裕も、優しさも、なにもかも。
「……っ!」
「せ、千里くん…!?」
 部屋を飛び出した千歳を追った白石が、流石に焦った。玄関をくぐって走り出す千歳に。
 外なんて、知らない筈なのに。





 街はネオンが飾るけれど、クリスマスよりは静かだ。
 雪が降る。あの日と同じに。
 見上げて、千歳は息を吐く。白く染まった。
 崩せないと思った。自分じゃどうやっても。
 余裕も、心も、なにもかも。
 それ以上に、心が軋んだ。

『俺は「白石」の代わりに出来ない…って』

 違う。
 違う。
 違うんだ「白石」!

 俺は、もう。

「……俺にとっての、ほんなこつは…あいつやない。
 お前…あなたで……」

 頬を伝う涙に、視界がぼやける。
「代わり」こそが、俺の知っている同い年の白石だ。
 今の自分の、大事な人は、彼だ。
 あの、大人で、余裕で、静かで優しい。
 彼だ。

「千歳」

 そう、自分を呼ぶあの声は遠い。

「千里くん」

 その声が、欲しい。

 苛立った理由が、やっとわかった。
 実感したかったんだ。
 もっともっと、教えてくれ。
 お前は「白石」じゃないんだって。
 もっともっと違いを見せてくれ。
 あなたは違うんだって。
 もっともっと笑ってくれ。
 あいつと違う、その笑みを。
 もっともっと俺を見て。
 謙也を選んだ、彼のようにならないで。

 そう、願って願って、その通りになったのに。
 その通り彼は静かで有り続けてくれたのに。
 最後の核爆弾スイッチを押したのは、他ならぬ自分。
 自分が、彼に言わせてしまった。

「彼を、代わり」だと。


「千里くん!」
 背後で響いた声と同時に、手を掴まれる。
 びっくりする暇なく、振り向かされて、そこには心配そうな顔があった。
「く」
「帰るで」
 流石に怒っているのか、棘の出た口調で言われ、腕を有無を言わさず引っ張られた。
「…蔵ノ介…さ」
「…」
「あの、…すい…」
「……」
 怒ってる。
 怒らせた。
 いざ怒らせてしまった今は、どうしようもなく怖くて悲しかった。
 失望させたと悲しくて、優しい声が聞きたいと怖くなる。
 前を歩いたまま一度も振り返らない彼に引っ張られて、マンションにたどり着く。
 彼に運ばれてから一度も出たことがなかったから、初めて見た外観。
 相当立派だ。ここに、一人で?
 玄関をくぐってすぐ、手を放された。
「あ…」
「もうええから。今日はもう寝え。おやすみ」
 声は、いつの間にか優しくなっていた。
 けれど、振り返ってはくれなかった。
 背中を向けたまま、白石は今日は違う部屋で寝るのか寝室ではない扉をくぐって見えなくなる。
 寝室に行って寝ようか。その前に、申し訳ないからケーキを食べようか。
 迷って、それから、すぐ、気付いた。

 彼が、本当に大人だと、よくわかっていた。
 余裕があって、穏やかで、静かで優しい。
 大人ぶりたがっていることも知っていた。
 なら、その余裕を崩すだろうか。
 心配したからこそ、かもしれない。
 けれど、こんな時こそ大人ぶってからかうんじゃないのか?
 一度引っかかった疑問は、頭痛のように酷くなる。
 なにかが、頭を殴っているようだ。
 誰か、見えないなにかが、その扉を開けろ、と言っている。
 今の、彼を見ろ、と。


「…っ…」
 扉を開けた先、小さな明かりしか点いていなかった。
 部屋には、ソファと、遠くに客間なのか、小さなベッド。
 ソファに、外出用のコートを脱がないまますがりついてしゃがんだ身体。
 驚いてあげた顔は、嘆きと、涙に濡れていた。
「…蔵…?」
「……っ……なに?」
 すぐ、それでも取り繕って優しい声を出す白石に大股で近寄り、顔を隠す手を掴んで引き離した。
「……どがんしたと」
「…なんでも、」
「なくなか!」
「………」
「俺の所為?」
「ちがう」
「…なら、話して。話してくれんなら、俺は俺が悪かったのかって苦しい」
「……」
 一瞬、非難かなにかを言いかけた白石もすぐ気付いて言うのをやめた。
 自分が、わざと彼の良心を刺激する言い方で話させようとしたと、白石も理解した。
「…………、コップ」
「…?」
「コップとか、歯ブラシとか。……ベッドとか…」
 二つ、ある。と白石。
「…はい」
「…カノジョは嘘」
「……」
 謙也なのか?と胸がざわついた千歳に、濡れた瞳を向けて白石は静かに、微か涙に詰まった声で言った。
「妻。…俺、結婚しとるから」
「……え」
「っても…別居中。もう離婚するやろって感じ」
「………」
 酷い。不謹慎にも、安心した。
「理由をどうこう言いたないけど…、向こうの心変わりで…俺よりええ相手見つけたとか…、俺も怒ったけど、もうそういう女やて諦めたし…コップとかは単純にもったいないから。
 …けど…今日、千里くん探しに外出て…、会って。
 ついでみたいに言われたし。離婚してくれとか。ホンマについでっぽく。
 …」
 千歳が掴んでいない方の手が、床に座った膝に置かれたまま、流れる涙を拭うために持ち上がることもない。
「…しかも、傍にその相手おって。普通、そういう話、二人きりでするやろ。
 いくら気持ち離れてても。
 やのに…。その相手に俺がどう思われたかなんてわかりすぎるほどわかるし。
 …惨めやし…悲しいわで……、……かった」
 その手が初めて持ち上げられて、その顔を覆う。
「……キミにキスするん選んでればよかった……」
 それは、単純に部屋から出なければ良かった、という意味だ。
 なのに、期待した。
 もう片方の手も掴んで、驚けない程に泣く顔を引き寄せて唇を塞いだ。
 涙の味がする。
「…せ…っ」
 いくらなんでも、と焦った様子の声を封じて、両手を掴んだまま見下ろす。
「…忘れさせちゃるばい。
 …忘れたかろ?」
「………………」
 それが、どういう手段かも、意味も、伝わった筈だ。
 泣きはらした目で千歳を見上げた白石は、長い沈黙の後、濡れた瞼を閉じた。
 はっきりと、小さく頷いた。

 許可を得た身体を、横抱きに抱き上げる。
 彼の両手が拒むためでなく、すがるために伸ばされた。
 首にかかったそれを撫でて、そこの寝台に降ろした。
 横たえられて、泣いたまま自分を見上げる身体に覆い被さると、もう一度キスをする。
 宥めるように、何度も何度も、唇に、頬に、額に、瞼にキスを落とした。
 手首にも為されたキスに、白石は千歳の服を掴んで一言謝ろうとした。
 訊きたくないとキスで阻んで、シャツのボタンを引きちぎるように外す。
 それ以上彼が言い募ることはなく、手は素直に背中に回された。

 触れた肌なんか、知らない。
 全然知らない。
 比べようがない。

 比べなくていい。
 それでいい。

 あの肌は、謙也のものでいいから。

 彼を、この身体を、くれ。

 俺に、くれ。

 心を、全てくれ。

 もう、帰りたくない。
 あっちには、彼がいないんだ。
 帰れなくていい。戸籍なんかなくっていい。
 だから、彼をくれ。…ください。



 彼の傍にいたい。

 笑顔を、ずっと、見ていたかった。



 …愛していたんだ。
 いつの間にか。こんなにも。


 楽園に帰れない程に。








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