楽園に帰れない

第四話−【生まれ落ちた罪】


 目が覚めると、天井が見えた。
 なんの変わりもない自分の部屋の天井。
 けれど、自分の身体を抱く身体が、それは違うのだと教えた。

「蔵ノ介さん?」

 目を覚ました俺をそっと離して、彼はベッドから起きあがった。
 その大きな身体は、十歳近く違うのに、敵わない。
「………、……」
「なに、なにかあるなら、言うて」
 なにかを言いかけ、ただ迷う俺に彼はそう言う。優しい。
「……り?」
「え?」
「やっぱり…代わり?」
 『彼』の代わりだから、抱いたのか。
 口にしてすぐ、なにを言っているんだと自分を責めた。嘘だ冗談だと言おうとしたけれど唇がひっついたように声が出ない。
 なんで、こんな女みたいなこと。馬鹿みたいに。
「……違うばい」
 けれど、慌てる俺を見下ろし、優しく、悲しく笑って彼は言う。
「…俺は、代わりなんか抱けなか」
「……」
「…俺は『白石』なんかもうよかよ」
 胸がずきりと痛んだ。けれどすぐ彼が言う。
「俺は、あんたがいればよか。俺の知る『白石』は、よか…」
 お前が、大事なのだと伝えるような言葉。胸の痛みがすっと消える。
「なぁ、蔵ノ介さん。…あんたはこげん、わけわからん男とずっとおるんはイヤかもしれんばってん、…俺はおりたか。ここに、いたか」
「…」
 違う、と言えない。言いたいのに。
「あんたが、好き。あんたを好いとう。
 …だけん、…ここにいさせて欲しい…。
 お願い。帰りたくない。帰りたくなか。向こうになんか、帰りたくなか。
 向こうにはあんたがおらん。あんたがおらん。
 そげん場所は、ただの地獄ばい。
 だけんここにいさせて。他になにもいらん。一生、なんもなくてよか。
 ……あんたと、離れたくなか」
 手を掴んで、優しく俺を抱きしめた腕の中に抱き寄せられたまま、答えることも出来ず。
 それでも、その温もりはひどく、俺を安心させた。





「…蔵ノ介さん?」
 あれから数日。表面上なにごともなく振る舞う彼に合わせて千歳もそう振る舞った。
 いくら彼が大人でも、男に抱かれたことを平然と振る舞えはしないから。
 ソファの前でテレビを見ていた白石が、何度も咳をしている。
「風邪?」
 そういえば、まだ冬。自分はここから出ないから兎も角、白石は仕事がある。
「かも…」
「…クスリ、持ってくったい。どこ?」
「ああ…ありがとう」
 自分を気遣って微笑む顔。その中に、子供に対する愛情以外が混ざっているなんて、俺の錯覚なのだろうか。

 けれど、日が経っても白石の咳は収まらず、同じ寝室で夜中中響く咳の音に不安になって眠れない。彼はごめん、と謝るけれど。

「やっぱり、病院行った方がよかよ」
「…そやな。そうする」
 心配でついていった近所の病院、風邪だと診断された彼が待合室に戻ってきたのを見つけて駆け寄った。
「どうでした?」
「うん。ただの風邪。大丈夫や」
「…そう」
 よかった、と呟いてふとその首筋に目がいった。
 寒そうだ。
「蔵ノ介さん、これ、」
 自分のかけていたマフラーをその首に巻く。
 気付いてありがとうと笑った顔が、すぐぐらっと傾いだ。
「え、…蔵ノ介さん!?」
 支えて、覗き込むと先ほどまでの笑顔が嘘のような青ざめた顔。
 口元を押さえる白石を抱いて洗面所まで運ぶ。
 数度吐いた彼は、その日は病院で様子を見ることになった。

「肺炎になってなくてよかった。少し危ない様子でしたから」

 医師は言う。
 一緒に泊まりこんだ千歳が、ふと外を見て明るくなっているのに気付いた。
 朝だ。寝台で眠る白石も随分楽そうだし、熱も下がっているのだろう。
 なにか飲み物を買ってこよう、と立ち上がった時、少し寒そうに身じろいだ彼に笑って、自分の羽織っていたコートを身体にかけた。

 けれど、自分がほんの数分、ジュースを買って離れ、戻った時には医師たちが彼を囲んでいた。
 熱が急激に上がって、肺炎に悪化している。何故かもわからない。
 そう医師は言った。

 しばらく白石の家と病院を行ったり来たりして、白石の様子が落ち着いたある日。
 まだ、空は寒く、雪が降っている。

「ごめんな」
「いえ…それより、よかった…」
 無事で。泣きそうな顔になってしまったのだろう。
 白石は優しそうな顔で笑って見せた。
「明日には帰れるて」
「はい」
「なにか、困ったことは…」
「ないです。…でも」
「?」
「あんたがおらんと…寂しか」
 そう告げた俺に、白石は子供のように微笑んだ。

 熱はまだあるのだろうかと、額に触れた。
 気持ちよさそうにしていた白石が、不意にせき込みだした。
「蔵…っ?」
「ごめ…ちょ……」
 なんでもない、そう言おうとした唇が大きくせき込んだ拍子になにかを吐き出した。
 口元を覆っていた白石の手の平に落ちて、服を汚したのは、赤い彼の血。
「……」
「……な、……んで」
 声を失った自分。茫然とした白石は、また何度もせき込んだ。
 すぐ、会えなくなった。
 面会謝絶だ。



 なんで、どうして。

 病気だなんて、医師も言っていなかった。
 なんで急に悪化した?
 …あれ?

 思い返して、背筋は寒くなった。青ざめた。

 彼の調子に異変が出たのは、いつから?

 まだ熱しかなかった時。自分がマフラーを彼に巻いた直後、彼の状態は悪化した。
 熱が下がって帰れるという朝。コートを彼にかけた。その後たった数分で。
 そして、自分が触れた直後に、彼は血を。

「…お、れ……」

 彼が、調子に異変を出したのは、自分が抱いたから? 抱いた後から。


 その場に座り込むと、病院の壁と背中がこすれて音を立てた。
 そんな馬鹿な話。

 けれど、視線をそらせなくなった。
 自分の座る位置の反対側。そこに設置された姿見。
 そこに映る、自分の姿は、骸骨の顔だ。

 まるで―――――――――――――。



「…っっ!」





 自分の所為だ。

 自分がこの世界に来たから、この世界にいるから。

 代償に、奪っていっていたんだ。気付かぬ間に。

 彼の命。

 存在がない。

 俺は多分、この世界では死神なんだ。存在がなくて当たり前だ。

 彼を死なせたくない。どうしたらいい。

 簡単だ。この世界から消えればいい。

 そうすれば、彼は助かる。

 蔵ノ介は、



 そう決めて、決意して足を踏み入れた廃ビルの屋上。
 柵を乗り越え、地上に飛び降りようと足を踏み出して、すぐ千歳は柵に寄りかかった。

 出来ない。

 帰る方法がわからないなら、死ぬしかなくて。

 彼より自分が重いはずはなくて。だからいいと決めたのに。

「…出来なか……」

 ごめん。出来ないんだ。


 あの人を苦しめるだけの存在だと気付いて、去ろうとして。

 けれど、俺は、俺が一番大事なんだ。

 あんたより、俺が大事なんだ。

「……なか」

 だって、死にたくないんだ。

 生きていたいんだ。

 死にたくないんだ。

 …死にたくなくて、生きていたくて。

「…なれたくなか」

 …いたくて。

 あなたを、見ていたくて。

 傍で、笑うあなたを見ていたくて。離れたくなくて。離したくなくて。

 死にたくない。生きていたい。

 生きるあなたの傍に寄り添って、笑うあなたを見ていたくて。

「……死ねなか………、ごめん………」

 死にたく、ないんだ。

「…ごめん、ごめん、ごめんなさい……………」

 あなたを殺すとわかっているのに、自分から命を絶つことも出来ない、馬鹿だ。





 あなたのために、死ねないような、意気地なしで、ごめん。









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