らびっとでぃあ


 −序章・四天宝寺のウサギさん−




 常に騒がしい大坂、四天宝寺中の校舎。
 春まっただ中の現在、陽気に影響されて、テンションがおかしい人も多々あちこち。
「あ、ホンマ? くれんの?」
 調理実習で作ったというマフィンを渡され、三年二組所属の忍足謙也は嬉しそうに、会話相手の女子を見る。
 彼に他意はない。昼休みまでまだ一時間あって、腹が空いているだけだ。
 笑顔でそれを受け取った謙也の傍に足音もなく立った後輩に気付いて、謙也は顔を引きつらせた。
 その後輩、財前光の頭には、黒い猫の耳が生えている。比喩ではない。本物の、動く猫耳。
 ぴくっぴくっ、と動くのは、彼が怒っている証拠。
「謙也さん」
 にっこり、と可愛く微笑んだ財前に対し、謙也は一歩下がる。
 だめ押しのように笑って財前は手を振り上げた。殴るのではない。
 広げた指の先には、鋭く尖った猫の爪。
 ばりっ、と爪で顔面を下から上に引っかかれ、謙也は声にならないうめきをあげて壁に手をつき、ぷるぷるぷると震える。
 それを見下ろし、財前は肩を叩くと、耳元で囁いた。
「浮気禁止。次やったら、股間に喰らわせます」
「浮気…やない……」
「問答無用。ほな、俺は授業なんで」
 すっきりした、という顔でくるっと踵を返し、財前は階段に向かった。

 途中、所属するテニス部の部長であり、謙也と同じクラス所属の白石と顔を合わせた。
「あ、部長」
「財前。ここの階におるってことは………」
「謙也さん、今頃保健室行ったんやないんですかね?」
 きらり、と光る爪を見せると、白石は謙也に同情するように笑い、「程々にな」と一言。
 そのどこからどう見ても美人、美形、容姿端麗な王子様、といった風情の白石の全身を上から下まで見遣る。
 透き通った銀の跳ねた髪、大抵自覚なく甘い風に細められている翡翠の瞳、通った鼻筋、病的ではない白さの肌、長く細い手と指、バランスのとれた肢体。
 モデル事務所に駆け込みで行ってもすぐデビュー確定するだろう、という誰もが羨むか惚れるかする美貌。
 しかし、その身体のどこにもサインがないことを確認した財前は、心なしか安堵した。
「…? 財前?」
「部長。今日はなったらアカンですよ?」
「……大丈夫や、思う」
 若干、自信なさげに答えた白石だが、すぐ鳴ったチャイムに慌てて階段を駆け上がる。
 今日は、あの狼が珍しく登校している。
 ならないよう祈っておこう、と思いつつ、財前は階段を下りた。その尻から生えて、左右に振る黒く長い尻尾を、今頃気付いて消してから。




 この世界、人間には誰しも、生まれてから成人するまでの二十年間だけ、動物のサインというものが存在する。
 寂しくなったり、怒ったり、嬉しくなったり、各々で違うがそういう感情が浮かんだ時、頭や尻、はたまた手に出現する動物の耳、尻尾、爪。
 触れるし、動く。暖かい。痛みもある。身体の一部だが、どういうわけか気持ちが収まると消えてしまう尻尾や耳を、サインと呼ぶ。
 なかには財前のように、自分で自由自在に出現・消失が出来るヤツもいる。
 当然、各人に相性もある。
 猫の人間は、犬のヤツに弱いし。クマはほとんどのヤツに勝つ。
 そして、四天宝寺の生徒の中に、「なにもよりにもよって」というあるいみ最弱な動物の資質を持つ人間がいた。
 それが先ほど、自信が若干なさそうだった白石蔵ノ介である。




「謙也ー、昼飯やで…食べられるか?」
 椅子を引っ張って、自分の前に座った白石の声に、謙也はなんとか顔を起こす。
 そこには赤い筋が点々と。痛そうだ。恒例行事みたいなものである。
 謙也に他意は、ない。だが、お人好しな彼はついつい女子の誘いを断れない。それに嫉妬した財前は自由自在が可能であり、爪で引っかかれる。―――――――という光景は、今年に入って何回目か。
「消毒液が染みる…。ああ、風呂はもっと染みるんや…」
「その前に、顔洗うだけで痛いと思うで…。朝とか」
「…そうやった」
 弁当箱をのろのろと出し、机に置いたところで、既に蓋を開けている白石の元に(必然的に謙也の傍に)客が来た。
「謙也、白石。ご飯混ざってよか?」
 謙也の背後にでっかく「出た!」の文字が出たのが、見える人ならば見える。
 ちなみに警戒モードで、謙也の頭と尻に犬の耳と尻尾が出現する。柴犬風の色だ。
「…謙也、毎回、俺が来るたびにそれなくなかね?」
「お前は行いを見て傷ついた顔をしろ!」
 顔だけでしおれた風を装う長身は、今月転校して来たばかりの九州男児こと、千歳千里。
 ちなみに、狼。
「て、千歳。弁当は?」
 平常心、平常心。と唱えてから笑顔を向けた白石に、千歳は困った顔のあと、にっこり笑って白石のその手に握った箸に摘まれた卵焼きを、手をしっかり掴んでぱくり、と食べた。
「なか。購買これから行くたい。強いていえば白石がお弁当」
「……………………」
「っ! 白石! しっかり! 堪えるんや!」
「あ、白石、手に滓が零れとう」
 フリーズしている白石の手を、千歳が掴んだまま、口元に運んで指をぺろりと舐めた瞬間、真っ赤になった白石の頭にぴょこ、と生えてしまったのは薄いピンクの長い耳。
「…ああ、アカンかった…………」
「……ほんに、白石はむぞらしかっ!」
「で、お前は食おうとすんな―――――――――――――!」
 狼の尻尾と耳を生やして白石に抱きつこうとした千歳を謙也が体当たりでくい止める。
 最近これも恒例行事になりつつあった。

 白石蔵ノ介は、四天宝寺唯一のウサギの資質を持つ生徒である。
 寂しくなったり、恥ずかしくなったり切なくなったりすると、耳と尻尾が出る。
 そんな彼にうっかり一目惚れしてしまった千歳は狼で、相性は最悪だ。
 本人同士は悪くないのだろうが、動物的には悪い。
 なにしろ、ウサギには牙も爪もない。狼モードの千歳に敵うべくもない。
 かつ、外見の割りに経験はなく、赤くなりやすい=ウサギモードのスイッチの入りやすい白石は、経験豊富で白石を狙う千歳にはどうもいつもの強気な態度を通せない。
 これで唯一の保護動物的なウサギ。テニス部生徒は特に、狼の魔の手から守れ、と必死な日々。
 ただ、誰もが若干恐れているのは、白石が実は、千歳にその気があるのではないか。という可能性である。





「まあ、これは遺伝やしなぁ。猫と猫のヤツの子供なら猫やし。犬と猫ならどっちかや。
 白石は母親がウサギらしかったし。本人の所為ちゃうんやけど。…千歳も、まあ本人の所為やないが」
「あんな悪意たっぷりな確信犯に情けはいらん」
 放課後、今日はそれぞれ文化部参加で、同じ軽音の謙也と小石川は楽譜をにらめっこしながらも心配顔。
 白石は同じ部に石田銀というクマのヤツがいるので、今は安心だ。
「しかしなぁ、あれが狼で狙われとる白石がウサギて」
「相性がなー。食われるしかないやん。ウサギは牙ないし爪ないし、耳弱いし。
 やっぱり守らんとあかん!」
「落ち着け。謙也。まあ、最悪、今は師範がおるし。クマは最強」
「まあそうやけど」
 遠くでギターをいじっていた財前の肩が叩かれる。先輩だ。
「はい?」
「…見た?」
「……まだ誰も」
「そう…」
 聞いてきた女子も、傍の男子も非常に気になって仕方ないという顔。
 白石を守らなければならない(責任感)自分たちだが、若干一名以外は非常に気になっていることがある。
「とりあえず、俺、帰りあっちに顔出すわ」
「うん」
 と、常に冷静沈着な顔。落ち着いた物腰の、いかにもお堅いテニス部副部長。
 小石川健二郎。

(ちなみに、アナタはなんなんですかって…聞けない)

 彼は入学してから未だ、小学校&中学校で動物化したことがない。
 =誰も(白石すら)彼がなんなのかを知らないのだ。

 白石が保護動物ならば、四天宝寺の七不思議その一、小石川。

 もしかしたら、卒業式の日も拝めないかもしれない、と今からそんなことを思う軽音部員だった。






「白石ー」
 そのころ、小石川たちの思惑を裏切って、白石は千歳と二人で中学から離れた公園にいた。
 石田が逃がしてくれたのだが、勘と鼻のよい狼に捕まって今に至る。
「アイス、食べっとだろ?」
 差し出されたアイスを、こくりと頷いて受け取った白石の頭には、へたりと揺れる耳。
 どうやら、途中でおなかが減って切なくなり、ウサギモードになったところ、すぐ感づかれたらしい。五分と間もなく追いつかれた。
(でも、俺は、そない危ないヤツには見えん…)
「応急処置。お好み焼きでも後で食べような」
「……、みんなに見つかったら、…怒られるやん」
「白石、そんなんが怖かと?」
 馬鹿にしたような言葉だが、声音も表情も馬鹿になんかしていなかった。
「…お前が、怒られる」
「………」
 千歳はきょとんとしたあと、すぐ微笑んで白石の頭を優しく撫でた。
「白石は、ほんに人のよかね」
「……」
 そうやって笑う千歳の顔は、夕焼けに照らされていて、正直カッコイイ。
 ああ、悔しいけど、なんか胸がきゅうんとして、ウサギの耳が消えてくれない。
「なら、俺の家にくればよか」
「……え、えぇっ!?」
 ぼうっとして聞いていたが、理解してすぐ白石は大声を上げた。耳と尻尾がびっくりしたあまり、消える。
「やけん、俺ん家」
「い、いや、俺は」
「用事があっと?」
「…ない」
「なら来なっせ」
「……………」
「で、………」
 ああ、しょうがない。行きたいし。と思ったが、千歳がなんだか残念そうにこちらを見ているので、白石は居心地が悪くなって軽く身を退く。
「可愛かったとに…耳が…」
「…、っ! やっぱり行かん!」
 さっきより大きな声で断りを入れ、白石は立ち上がる。
(人がうっかりときめいたところにこの男は…!)
「えー、しーらーいーしー、耳ば出そー? で、来なっせー?」
「伸ばすな! 子供か己は!」
「子供やけんー……………しょんなかねぇ」
 後ろを歩いてきた千歳が、溜息を吐いてから、早足であっという間に白石に追いつき、身体を抱いて人間の耳に囁いた。

「おいでなっせ。な、蔵ノ介(・・・)

 ―――――――――――――沈黙と、フリーズ。
 その後、すぐにウサギ化してしまった白石を抱くように引っ張って、千歳は鼻歌混じりに道を家へと帰る。
「やっぱり白石には名前が聞くっちゃねー」
「……かえる。かえる。もうあかん。かえる。かえる。あかん。かえる」
「…やっぱりむぞらしか。すっかりウサギになっとうね。甘やかしちゃるけん、うちおいで」
「………かえりたい」
 逃げ出しても、きっと追いつかれる。
 以前に、ウサギの耳を離してもらわないと無理。離したりするわけがない、千歳が。
 ウサギの耳はとても弱くて、握られるとくったり力が抜けてしまう。
 逃げたくても、力が入らない。
 ぐすぐすとウサギのように拗ねる白石を抱えて、千歳の方はご機嫌だ。

 そのころ、謙也たちが学校で慌てていたが、やはり小石川は人間のまま、なんの動物か今日もわからなかった。





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