らびっとでぃあ


 −三話・ウサギのお留守番−







 白石と付き合いだして、早半月。
 まだ白石に手は出せていない。あまりに無防備に自分の傍にいるので、逆にこんな可愛い生き物に手をつけて良いのか、と罪悪感に見舞われる千歳は、まだキス以上をしていなかった。
 そんなある日、いつものように自分の家に遊びに来た白石を、自分の膝に招くと、首を傾げながら本を読んでいた床から立ち上がり、ぽすり、と自分の膝に乗っかった。
 躊躇いもないあまりに無防備で、信じ切った態度。恥じらいはあるから、乗る前に少し、赤い顔で自分を見る。
 最初の頃は恥ずかしがって、しばらく自分を真っ赤な顔で伺っていたが、自分が絶対、座るまで譲らないと理解したらしく、最近は一瞬見るだけで座る。
 その頭に、ひょこり、と生えたウサギの耳を撫でると、心を許しきった顔で千歳を見上げた。
「あんな白石」
「うん」
「俺、明日からな」
「うん」
 ほわほわと花が飛ぶような顔で笑うウサギに、千歳は良心が痛んだ。これを言いたくない。だが、言わない方が傷付くはずだ。
「明日から、九州ば帰るこつになって」
「………ッ!!!!!!」
 背後に雷が降ったんじゃないか、というくらいびっくりしたウサギは、千歳の服をきゅ、と握ってきた。
「…きゅうしゅう? あしたから? ずっと?」
「い、いや一週間だけばい! 明日帰って進路のこと話すだけったい。そんあとはずっと帰らんと!」
「……ほんま?」
 ウサギの耳はふるふると揺れていて、自分を見上げる瞳は涙で一杯だ。
 ああ可愛すぎる。だから、本当は置いていきたくない。離れたくない。
 千歳は白石をぎゅうっと、力の限り抱きしめて頷いた。
「うん。これから、ずっと離れんけん。ずっと白石の傍おる。やけん、一週間だけ…待ってて欲しか」
「………」
 白石は震える手を、千歳の首に伸ばした。きつくすがりつく。
 それに応えるように、千歳はそっと頬を手で包むと、優しくキスをした。
 涙で赤くなった目尻にも、瞼にもキスを落として、また唇にキス。
「…すぐ、帰ってくる」
「……うん。待っとる…」
 健気に頷く白石の髪を何度も撫でて、それから、柔らかく微笑んだ。
「耳、キスばしてよか?」
「へっ…?」
 か細い声で聞き返す白石に、「ウサギの耳に」と再度言う。
「キスマーク。そっちに残したらいけん?」
「…………」
 白石は顔から火が出たんじゃないかというくらい真っ赤になって、千歳の服を掴んだまま千歳の胸元にぽすり、と顔を埋める。
「しらいしー?」
「……」
「答えて? よか?」
「……はずかしい。かおみたあかん」
「…見なければよか?」
「……したらええ」
 余程恥ずかしいのか、千歳の胸元に顔を埋めたまま答える白石の身体をぽんぽんと撫でて、千歳はわかった、と笑う。
 そのまま耳を撫でるだけで、なにもしない千歳に白石は胸元で、顔をこすりつける。
「……しないと泣くもん。して」
「……はいはい」
 実は、待ってたらそうお強請りしてくれるんじゃないかなと思って焦らしたので、千歳は自分の顔がにやけるのを感じた。
 あまりに可愛すぎるウサギ。以上に触れるのは罪悪感で、でも触れていたい。
 なんてジレンマ。
 片耳を優しく手に取って、痣になるまで唇で吸い付くと、感じるのか腕の中で白石は小さく声を漏らした。千歳の唇が耳から離れると、小さく息を吐く。
 それに千歳は笑みを漏らして、もう片方の耳を優しく掴んで唇を押しつけた。
「っ…ぁ…!」
 もう終わったと油断していたため、白石の唇から可愛らしい声が零れる。跡の残った耳を満足そうに撫でてから、千歳は意地悪に笑って白石の顔を覗き込んだ。両手で頬を包んであげさせて。
「白石があんまりむぞらしかけん、悪かよ」
「……っ……ちとせのせいやもん」
「俺?」
 白石はこれ以上ないほど真っ赤な顔で千歳を睨む。が、涙で揺れて染まった目では、怖くない。
「ちとせ、ふれると、…切ない」
「切なかと?」
「もっと、…てなって切ない。し…むずむずしよる…し、もうしないんやろうかって思ったら、きゅうってなる…からせつない」
「…………」
 今度は千歳が真っ赤になる番だった。拙い口調で、なんてことを言うのだ、彼は。
「蔵……そがん殺し文句は卑怯ったい…」
「……???」
「あーもう…!」
 意味の分からない顔で千歳の腕の中にいる白石を抱きしめて、千歳は誓った。
 帰ったら、抱く。帰ったら本当に抱く。今、ここで我慢出来る自分はすごいんじゃないか。
 だって、今抱いたら、自分はともかく、彼にあんまりだ。抱いてすぐ離れるなんて、最低じゃないか。
「……むぞか……」
「……ちとせ? はよ、帰ってきてな」
「うん。早く、帰るったい…」
 自分をぎゅうぎゅうと抱きしめる狼の腕の中、ウサギは跡の付いた耳を揺らして何度も頷いた。






 その翌日は学校と部活が休みだった。その更に翌日、定時に始まった部活では、普通に白石は部を取り仕切っていたので、まだ大丈夫か、と小石川は思った。ウサギの耳は既に生えていたのだが、千歳がいなければそうなるだろう、とあまり気にしなかった。千歳の不在は訊いたし。
 他の部員は、時折ちらちらと白石を見遣る。
 白石に「余所見すんな!」と怒られるが、余所見させてんのはお前や、と言いたげな謙也の視線を見つけて、小石川はひっそり頷いた。
「? あれ、白石」
 丁度休憩が言い渡された時だったので、小石川は遠慮なく近寄って、白石の頭に生えた耳を軽く掴む。
「……おまえ、とうとう千歳に喰われた?」
 そう訊いた瞬間だ。

『なんやて!!!?』

 という詰問的な大声は、部員全員の声だった。かなり響いたので、小石川もびっくりした顔で固まった。
「…」
 部員全員、こっちを見ている。
 小石川はフリーズから我に返ると、白石の肩を抱いて、小声で問いかけた。
「喰われたん? 耳にキスマークあるやん」
 これを聞こえる声で言ったらまずいと判断し、そう小声で耳元で囁いた。
 すると、白石は小石川を見上げて、瞳を潤ませた。涙目。
 アレ?まずい?と思った時には遅かった。
 瞬間、腕の中の白石は小さい、ウサギの耳の生えた八歳くらいの幼子になっていた。
 うるうる潤んだ目で小石川を見上げてくる。
「……お、まえ……千歳がおらんと生きてかれんの……」
 ユニフォームの下が脱げてしまっているが、上着で隠れているからそれはいい。
 縮んだ瞬間、部員全員から「部長――――――!!?」って声も飛んだが、まあいい。
「あ、悪い。事情話して服借りてくるわ。その間頼んだオサムちゃん」
 白石をひょい、と抱え上げると、小石川は謙也と渡邊にそう言って背中を向けた。

「…ちゅうか、あいつは動じとらんのか」
「そこそこ動じとるはずなんやけど」
 小石川の頭にもどこにも、動物のサインはない。
 相変わらず、隙がない。





 動物のサインは、普段は耳や尻尾だけだ。
 だが、あまりにその状態―――――ウサギなら寂しさが極まると、虚弱化する。
 虚弱と言っても身体が弱くなるわけじゃない。
 みんなそれぞれ、産まれてから一番最初に動物のサインが出た日、というものがある。
 動物のサインは赤子の時は出ないのだ。
 だから大体、二歳〜十歳の間くらい。
 極まった状態になると、その「最初の日」の姿になってしまう、という。
 小石川も、いくらなんでも見たことはあった。あくまで、他のヤツで。
 白石のその状態を見たのは、初めてだ。

 保健室で、事情を話すとたまにそういう生徒は出るらしく、幼い子供の服の予備があった。
 白石がもそもそ、と時折よろめきながら着替え終わるのを待って、引いていたカーテンを退かした。
「大丈夫か?」
「…………………」
 着替えは終わっていたが、白石は寝台の上で、耳をへにょり、と垂らして泣き出した。
 この状態になると、余計泣きやすくなるし、寂しさも増すらしい。極まった時ほど、その感情は倍増すると訊いた。精神年齢は、そのままだから、十五歳だが。
「あー、泣くな泣くな。一週間で帰ってくるんやから」
「…ちとせ……おらんの……あと五日おらんの」
 寝台に座った小石川の胸元にしがみつき、ふるふる震えながら涙声がそう綴る。
 可哀想だが、どうしようもない。
 泣きじゃくる顔を手で持ち上げて、涙を拭ってやるが、後から後から溢れた。
「お前、ほんま千歳がおらんと生きてかれんようになって…」
「ちとせおらんといきてけんもん…おらんの…いきてたないもん」
「…ああ、はいはい」
 完全にひらがな発音。これはダメだ。と小石川はひたすら宥めることにした。
 胸元に抱きしめて頭を撫でてやっていたが、不意にはた、となって小石川は泣くウサギを少し離した。
「ちょお待ってな。えーと…」
 携帯をポケットから取り出すと、カメラをムービーモードにして、白石の姿を撮影する。
「白石。今、千歳に送るムービー撮っとるから、なんか千歳に言え」
「ちとせの?」
「うん」
「……千歳、あいたい…。おらんと、さみしなってしぬ…」
 耳を垂らし切って、泣きながらそう言ったウサギの頭をよしよしと撫でると、また膝に乗っけてから保存したムービーをメールに添付する。本人はおそらく、今自分がなに言ったかもわかっていないだろう。それだけ参っている。
 千歳に送信すると、ものの数分で携帯に電話がかかった。
「早いな。お前」

『白石はっ!?』

 かなり声が揺れている。かなり動揺しまくっているらしい。
「今の通りの状態や。お前が帰るまであの状態ちゃうん?」

『………小石川、借り作ってよか』

「ええぞ」

『今すぐ家に白石連れ帰ってくれ。明日にはそっちば帰る!』

「はいはい。了解。てか、大丈夫なん」

『白石より大事なもんばなか!』

 進路の相談で帰ったんじゃないのか、と訊く前に電話が切れた。
 多分、今ならまだ飛行機もあるし、電車もバスもある。
「…明日には本気で帰って来るな…」
 しかし、千歳はろくに向こうにいなかったことになるが。
 小石川は、自分を「かえってくんの? ちとせかえってくんの?」と言う目で見ている白石の頭を撫でて、「まあええか」と呟いた。
 極論、これより大事なものはなさそうだ。その方が、白石を託す自分としては、安心する。






 あのあと、小石川に家まで送られて、家族には「あらめずらしい」と言われた。
 部活を休むのは嫌だったが、千歳が帰ってくると訊いて、余計切なくなって堪らない。
 夜の十時になると、切なさも手伝って眠くなった。
 子供の身体は、元々早く眠りが襲う。
 だが、携帯がいきなり鳴って、白石はびっくりして寝台から飛び起きた。
 この着メロは一人だ。千歳。
「ちとせ?」
 いつもより小さい手で、一生懸命携帯のフリップを開くと耳に当てた。

『白石!? 今、入ってよか!?』

 余裕のない千歳の声がする。どういう意味だろう。
 そこでハッとする。今、部屋の外で聞こえたトラックの音が、電話の向こうからもした。
「いま会える!」
 千歳が家の前にいるのだとわかって、そう答えた。家族はまだ起きているし、大丈夫だ。千歳のことは話してある。
 家族にあげてもらったのだろう。すぐ部屋の扉を開けてきたのは、千歳だ。
 汗だくで、必死な顔がある。
 それだけで胸が甘く切なくなる。
「千歳!」
 寝台から慌てて降りようとして、足がうまく動かなくて床にころん、と転がってしまった。
「蔵!」
 千歳が相当慌てた声で駆け寄って、いつもよりかなり小さな自分を起こして抱きしめた。
「怪我なか?」
「大丈夫」
「ごめんな! 今度帰る時は白石連れて行くったい! そもそももう帰らんけん…。
 …淋しか思いばさせてごめん」
 ぎゅうと、抱きしめられて、額に、それから目尻にキスが降りてくる。
「…わがままいうてごめんなさい」
「蔵が謝る必要なか」
「やって…」
 白石は千歳の腕の中で瞳を潤ませた。千歳だって家族に会いたいのに、千歳の家族もそうなのに。邪魔してしまった。
「…気にするなら、今度は俺と一緒に熊本ば来て? 家族が白石に会いたがっとう」
「…行ってええの?」
「うん」
「…、行く」
 千歳と一緒なら、どこでも行く。
 そう告げると、千歳はとても嬉しそうに微笑んで、唇にキスをしてくれた。






「……あんな、こん状態、いつ戻ったい?」
 再会後、一時間。白石が未だ幼い姿なので、千歳は小石川に電話で聞いてみた。千歳はこんな状態になったヤツをあまり見たことがない。元の戻り方なんて知らない。
 小石川は眠そうな声で、「個人差はあるけど、気持ちが満たされたなら五時間くらいで」と答える。すぐ身体は適応しないらしい。
 ということは、少なくとも今日は抱くの我慢か、と千歳は思った。
 小石川に見抜かれて、「そこ白石の家やろ。家族おるとこでハジメテか。殺すぞ」と凄まれた。


 千歳の膝の上で眠そうな白石は、幸せそうで、ならいいかと思う。
 でも、ちょっと、この姿は、いろいろやばくなる。
 小石川が送ったあの映像は、保護をかけて保存している。
 しばらく、あれ見て飢えを凌ごうと思った。いや、本人は常に傍にいるんだが。
 まだしばらく、抱けそうにないから。







「千歳はん帰ったんか?」
「らしいな」
 一方のそのころの小石川さん。寮の自室は、石田と同室だ。
 石田は寝台の上で本を読んでいる小石川を見遣って内心思う。
 その頭と尻には、誰でもわかる動物のサインがある。


(儂はかなり前から、こいつがなんなのか知っとるんやが、…言わない方がええな)


「師範?」
「いや、なんでもない」

 小石川がなんなのか、現在は、石田一人の秘密。
 それを、まだ誰も知らない。











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