逢魔が時
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サイレン/[向日岳人−泣き声はきこえない]
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明日出来ることを今日やろうとは思わなかった。
耳障りな鉄道の音も、その日だけは騒がしく感じなかったのだ。
暮れかかった空の模様は高いマンションのベランダからは雲筋までが見えて。
汚れた都会の空だというのに、あぁ綺麗だなぁと思った。
一瞬で霧散してしまった思考は、また別の形を作り始める。
暇になると、幻聴のように耳の側で唸る音が喚いた。
手の平が物足りなそうに疼くのを無視して、上着を羽織ると階下のコンビニへと歩を向けた。
今日引っ越してきたばかりのマンションだったが、一階のコンビニに期間限定のチョコがあることは朝にチェック済みで。とっととソレを幾つか手に取ると、ついでに夕飯でも買っておこうと店の端に眼を走らせた。なんせ引っ越してきたばかりというのに親は揃いも揃って仕事ときた。
(あ、ファ○マなら卵チャーハンあるよな)
それにしようと返しかけた足を方向転換させ、背中側にあったレジの方へと振り返る。
だが自分より先に、先客がレジに並んでしまった。
もう片方のレジは休止中。
大人しく並ぶ事にして、ふと、前の客を観察する形になった。
(……背ぇ高)
中三にしては高いわけではないが、低いわけでもない自分の背丈でも確実に見上げる形になる長身。肩幅も広いし、足も長い。
(……大学生くらいかな)
大ざっぱに見当を付けていると、会計を済ませた先客が帰ろうと振り返る。
そこで丁度視線が噛み合う形になった。
「…………………………………………」
二人分の沈黙。
掠れた声は、先に自分の喉から這い出た。
「……あんた、青学の」
「…氷帝の、向日君?」
驚いたのはお互い様。
けれど反応は、やはり自分の方が顕著だった。
「何処かでね、見た名前だと思ったけど」
まさか君だったとは。
がこんと振動して登っていくエレベーター。
四角い狭い密室。
束の間の会話と、ふと外の朽ちかけた空を思い出す。
「…………部屋は移動出来ないもんか」
「無理でしょ。君が世帯主じゃないんだから」
「でもな、いくら隣人とはいえ俺は嫌だぞお前と家族ぐるみでお付き合いとかいうのは」
「あ、それ有り得ないから安心して」
「なんでだよ」
言い切る。余裕で、率直な言葉。
分厚い眼鏡の奥の表情は、ずっと読みにくい。
「うちの親滅多に帰ってこないから」
しれっと、告げられた台詞に。
なんの感情も込められていない。
「…――――――――――――――――うちも帰ってこねぇわ」
「へぇそう」
がたんと停止する。ドアがレールを滑る。
「でも、こっからだと遠くない?」
「青学も似たようなもんだろ? 前だって似た距離だったし」
「ふぅん」
袋を提げた手。がさりと揺れる。
五階の一番端まで、意味もなく並んで向かう。
端から二番目に『乾』の表札があって、一番端に『向日』の表札が真新しくあった。
「うわ本当にある…」
「心底嫌そうに言わなくても」
「心底嬉しそうに言って欲しいのか?」
「どっちでもいいよ」
「…これだからさー無駄に冷静な奴は」
溶けるよアイス。と指さされて更にムッとくる。
がそれはそれで急がなくてはならない。
部屋も片づけていない。
「つぅことでじゃあな」
「うん。…あぁそうだ。向日君」
「は?」
「明日、雨降るから気を付けて」
捨て置きみたいな、台詞をぽんと投げられた。
何ソレと問う前に、扉の閉まる音がする。鍵の、回る音。
通路から覗ける、空は酷く赤い。
がらんとした、片づけ切らない室内。
ぐるりと見渡して、それだけ。
両親は夜には帰ってくる。けれどそれからしばらく、仕事続きで出張だと訊いた。
時計の音が煩わしいとか、普段思わないことを想った。
天井の染みが、不気味だった。
「なんで?」
夕暮れはまだ遠かった。
教室。高い位置からの展望。
廊下の騒ぎ声は、徐々に沈下していく。
「? 引っ越しやろ?
俺が手伝う必要あらへんやろ」
至極、当たり前のことのように返された声は。
ちゃんと耳に届いた。
聞こえない振りも、聞かなかった振りもしなかったけれど。
こういう時、少し諦めたくなる自分が居る。
高い天井。
身近の騒音。
(ああ、どうしてこんなに頭が痛いんだろう)
冷たい床を。闇に食われるだけの空を。開かない扉を。動かない体を。時計を。
睨んでも、何も出来ない。
(それでも)
携帯に映る彼の着信に無邪気に喜ぶ、救いのない自分がそれでも好きだった。
→4[乾貞治]
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