臆病なのは俺





逢魔が時
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サイレン/[乾貞治−凍雲]
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 犬を抱いた記憶がある。
 とても小さな子犬だった。
 雨の日に捨てられていた。
 幼心に惹かれて立ち止まったけれど、家はマンションであったから飼えないことは予め判っていた。自分はそういう子供だった。
 雨の中、傘も差さずに抱き上げたのは、僅かな子供らしさという奴であったのかもしれない。
 脆弱に、腕の中で呼吸を繰り返す生物。
 軽く力を込めたなら、殺してしまえそうな体温。
 親は放任だった。
 仕事で留守にすることが多く、遅くでないと帰ってこない。
 一日やそこら、里親を見付けるまで位、飼ってやれるだろうと思った。
 だけど、一度抱いたきり、自分は犬を置き去りにした。
 翌日、犬は何処にも居なかった。





「―――――――――――――…なんか場違いな事やってるねぇ」
 早朝。
 部室のドアを開けるなりそう発言した乾を、室内にいた全員がほぼ同時に振り返る。
 手の平の中に、白い紙。
 理由は思いつく。この天候。
「おはよーっす乾先輩」
「おはよ乾ー」
「乾も混ざれ」
「はいはい。というか手塚がやってるのって凄いね」
 今にも降り出しそうな悪天候の空。嵐の前触れのような黒い雲の群と強い風の吹く外界とを隔てるようにドアを閉め、乾は自分のロッカーに些か雑に鞄を放る。
「一度だけっていう条件でね」
「それにしたって珍しい物見たな」
 嵐も捨てたもんじゃないね。
 そんな発言をしながら机の周りに歩み寄った乾に、手塚は一瞬だけ睨みを利かせたが、それだけだ。乾も気にする質ではないので、小さく口の端を上げるだけ。
「んじゃ、乾も来たので仕切直し」
 言い出しっぺらしい菊丸が周りから紙を集め、手の平に一纏めに握り込む。
 それから一人ずつ掴んでせーので引いた。

「…王様誰?」
「あ、俺っス」
「………何度目だよてめぇ」
「あ、何か文句あんのかマムシ」
「だぁれがマムシだ誰が」
「ほらそこの名産コンビ。嵐の日に喧嘩すんじゃないの」
『……名産?』
「福島名産品コンビ」
「…………なんスかそれ」
「乾先輩…?」
「…あ、何か俺判った」
「僕も」

「んじゃー命令行きます。
 っと、五番と二番の人……そーっすね……。
 『怖かった思い出』、話してください」
 桃城が考え込んで言った言葉に、メンバーはその番号は誰かと視線を彷徨わせる。
 眉根を寄せた越前が。
「俺、五番っス」
 と言い、横手で。
「俺が二番」
 と乾が答えた。
「どっちが先言う?」
「…………どのみちなんで俺が」
「じゃどうぞ」
 促されて、越前は軽く考え込みながら、周りの視線を受ける。
「…たって大した事じゃないっスよ今から考えれば」
「いーっていって」
「……、ほら、俺アメリカいたじゃないっスか。
 銃、結構ぶっ放されてんるんスよ」
「あー…」
「一回目の前で見た事があって、それがそーといえばそーっスかね」
「……越前、大した事だぞそれは」
 誰でも怖いって。
 ぱたぱたと手を振りつつ菊丸が苦い笑いを浮かべる。ソレは周りも同感らしい。
 乾は平然と自分の番を待っていたが。
「……で、乾は?」
「あ、うん。
 でも越前に比べたら笑い事かな」
「…まーさっきの聞いたらな。とりあえず言ってみ?」
「うん。
 小学校、二年くらいの話なんだけど」
 話す間にも風は強まって、窓硝子をがたがたと容赦なく揺らす。
 これで雷でも落ちれば彼の眼鏡が異様に怖い様になるんだろうなあと桃城は思ったが口にはしなかった。
「越前とかはパッとしないだろうけど。俺昔はチビでね。
 小学二年生頃なんて百二十くらいしかなかったんだよ」
「あー一年時低かったよな」
「……本当なに食って伸びたんスか」
「牛乳だってだから」
 始業時間にはまだ早い。テニスをするには風が強い。
 部室は一種の密室空間。
「で、その頃家の近くに工場があったんだ。潰れたのが」
「あれ? あったっけ?」
「昔だよ。その頃は今のマンションじゃなかったし」
「ああ」
「近所の子と廃工場でよく遊んでたんだけど。
 その日は隠れんぼをしようって事になって。身体は小さかったから、積まれてあったダンボール箱に隠れたんだよ」
「うん」
「そしたら、しばらくして何だか五月蠅い音がしたの。何だろうと考えて。
 ふと、前に何処かで聞いた音だなって」
「…何の音なんスか?」
「少し前までその工場稼働してたんだけど。その頃よく聞こえた音でさ。
 ベルトコンベアの」
「ああ……――――――――――――――――え?」
 普通に納得しかけて、菊丸は思わず語尾を跳ね上げた。
 乾は全く構わない。
「それで、誰かが間違えて動かしたのかなと思ったわけよ。
 実際本当にそうだったんだけど。
 でもよく考えたら俺が入ってたダンボール箱ってベルトコンベアの上でさ。
 もしかしてと思ってたらがこんとか揺れて」
「ってまさか…?」
「うん、後一歩で焼却炉で燃える所だったよ」
 顔出したら目の前が火だったんだ、なんて笑い混じりに話す先輩に、そっちの方が怖いんじゃないか? とか越前は思う。
「……乾、笑い事違うそれ……」
「過ぎれば笑い話なんだけど俺は」
「親に言ったら怒られっぞ」
「そ? 言ったけど“今度から気を付けなさい”で終わったぞ」
「……………なぜ?」
 不審げな視線を向ける桃城や菊丸を余所に、手塚や不二はひっそりと息を吐く。
 乾の家が如何に放任主義かを知っているだけに、容易に予想できる二人だった。

 いよいよ風が強くなる。
 これは完全に不可能と悟って、始業前には皆教室へと向かった。














→5[手塚国光]

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