櫻心中

前編−【それは幸せな最後のキス】






「千歳」
 試合前に、自分を呼んだ部長が、いぶかしげに見上げてきた。
「どないしたん?」
 全国大会二回戦、対戦校は兵庫岡蔵。
 千歳はこの試合、白石とダブルスで出ることになっていた。
 その試合開始前だ。
「…あ、いや、なんでんなか」
「しっかりせえや」
 背中を叩いて笑う彼が、コートに一歩踏み出す背中。
 いつも見慣れて、その筈の背中がこの一瞬ひどく遠かった。
「千歳。ええか。
 1ゲームも落とすな。即席ダブルスやなんて言わせる隙は作んな。
 わかったな?」
 そんなことは言われなくてもわかっている。言われずとも余裕で0ゲームで勝てる相手。
 ダブルスに不慣れな自分たちも、努力家の白石なだけあって連日何度も練習した。
 流石に固定ダブルスの謙也・財前や小春・一氏に勝てるレベルではないが準レギュラークラスの部員の固定ダブルスにはワケもなく勝てるようになっている。
 千歳としても、白石とのダブルスは楽で、心地もよかった。
 言葉を交わさず動ける程手慣れていないのはお互い様だが、それなのにいてほしいと思った場所にお互いが自然と動いている奇跡がたまにあって、指摘されるたび白石と顔を見合わせて笑った。
 負ける展望はなかった。欠片も。
 だから、不安などない。
「…千歳?」
 それなのに。不思議そうに自分を見上げる白石の前、審判の声が響いた。




 千歳の不安を余所になんなくあと2ポイントで勝ちというカウントまで来た。
 時間は未だ二十分も経っていないだろう。
「あと二つ!」という自チームの応援の声。二人の勝利を、それを疑っていないチームメイト。
 カウントは5−0。それも当たり前の結果。
 ドロップショットを狙ってネットに詰めた白石のラケットがボールを絶妙の加減で叩く。
 それに追いつかないとわかった岡蔵のレギュラーがそれでもやくたいもないようにラケットを振った。意地だったのかもしれない。
 だが、そのラケットは汗で手から吹っ飛び、ネット前に屈む姿勢でハッと顔を上げた白石の顔面を叩いた。

 一瞬の静寂と、ラケットの零れる音。人間の身体がコートに倒れた音に、静寂は呆気なく破られる。

「白石!」
 急いで駆け寄った千歳を、渡邊が「頭打ってるかもしれん!」と動かすなと怒鳴る。
 千歳も理解して呼ぶに留め、審判が審判台から降りて運営本部に呼びに駆け出した。
 周囲から「部長!」という部員の悲鳴のような声が響く中、コートに倒れたまま微動だにしなかった白石の瞼がぴくり、と動いた。
 そのままぱちぱちと瞬きをして、頭上の千歳を認識する。
「白石! …大丈夫とや…!?」
 まるで白石が致命傷を負ったように青ざめる顔を見上げて、彼は小さく笑った。
「…大丈夫。…っ…」
「おい白石、起きあがるな!」
「平気です…。試合…」
 渡邊の声を無視して立ち上がった白石はよろけてもいなかったが、咄嗟に千歳は肩を支えてしまう。
「千歳、大丈夫や」
「…ばってん…!」
「平気。
 そない心配なら、最後1ポイント、お前が決めろ。
 俺は立ってるだけ。なんもせん」
「……」
 止めても、棄権を促しても彼はすぐ頷かないことは理解している。
 ならさっさと自分がゲームを終わらせた方がずっと早い。
「ほんなこつ、動くんじゃなかよ?」
「ああ、一歩も動かんわ」
 笑んで約束した白石が構えだけとった。
 今のサーブ権はこちらだ。千歳はベースラインより下がってボールを投げると、コーナーを狙ってラケットを振り抜く。
 もとより、わざとでないとはいえ白石を負傷させたことで後込み状態の岡蔵に取れる筈もなく、その瞬間「ゲームセット」の声が響いた。



 その後、白石は念のため検査を受けたも、目立った外傷はなく擦り傷のみ。
 安堵する部員たちに囲まれたまま、笑う姿に心底千歳も安心した。
 なのに、何故だろう。

 試合開始前より、不安が強い。



「……白石」
 ホテルで呼んだ声が、それを如実に表していたのか白石は笑ってすっと傍に近寄った。
 ぎゅ、と千歳の巨躯にすがりつくと、自然屈んだ千歳の右目にそっとキス。
「お前が心配するんはわかるけど、目は大丈夫や」
 一瞬、なにを言っているかわからなかった。
 ああ、彼は自分が「自分のようにコートの事故で目を怪我するんじゃないか」と案じていたと勘違いしている。
「…いや、そうじゃなかばってん」
「違うんか?」
 不思議そうな白石の跳ねた髪を撫でて、くるくると指で絡める。
「…そうな気もしてきたばい」
「アホ。鈍いやろ」
 くすくす笑う白石を抱き寄せ、口付けを落とす。
「今日は抱けんばってん、終わったら…」
「わかっとる。手ぇ抜くなや」
「ん」
 その時交わしたキス。
 思いも寄らなかった。

 それが、彼と交わせた、最後の幸せなキスになるなんて。





 準決勝、青学戦。
 終了後、着替え終わった更衣室に残るのは白石と千歳のみだ。
「…なんやねん」
 着替えはしたが、ずっと黙り込んでいる千歳を白石がいぶかしがった。
「…白石、あの」
「退部届けのことならお前が思うほど気にしとらん」
 ばっさり言われた。
「そら、こいつホンマにいてもうたろか、とか、こいつここまで来てこのチーム否定するんか、なんのために一緒にここまで来たん? 橘のために利用しただけか?
 …とか思わんわけやないけど、言ってもしゃーないからいわへん」
 立派に言っているし気にしている。
 しかし、今の自分は反論出来る立場ではない。
 事実そう思われたってしかたないのだ。
「…俺、ほんなこつ、みんなと、白石と戦うつもりやったばい。
 ただ、桔平と試合出来て、なんか…つい勢いで」
 こんなことを言ったら更に怒られると理解していたが、それが本当なのだ。
 袂を分かつつもりなどなかった。受け取る側はそう思っても。
 嘘を、つきたくなかった。
 目の前に、こつりと音を立てて立った白石が、沈黙の後名を呼ぶ。
 許されるならなにをしてもいい。彼が高校もこちらで通えというなら勘当されてもそうする。言われずとも既に親の許可はもらっている。セックスはしばらくなし、というなら……正直それは辛いが、一週間なら我慢できる。
 だから許して欲しい。白石に嫌い、もう顔見たくないと言われたら死ぬほど悲しい。
「……お前、そこまで赤裸々にいわんでもええやろ」
 呆れたような声の中に少し、照れ隠し故のぶっきらぼうが入った声。
「…へ?」
「大体、…セックスなしが耐えれて一週間なん?
 この場合、一ヶ月くらいはって男見せろや」
「…え、俺、声ば出しとった?」
「出してたな」
「……っっっっっっ!」
 すぐ土下座のいきおいでしゃがもうとした千歳の額が押しとどめる白石の手に当たってぺちんと音を立てた。
「もうええ。わかった」
「それは困るばい!」

「もうええ。わかった。お前はいらん」

 そう言われると焦って顔を上げた千歳の視界には、いつも通り微笑む恋人の綺麗な顔。
「わかった。お前が、ちゃんと俺達と最後まで一緒に走ってくれたんは、ようわかった。
 やから、もうええて」
「……白石」
「ほら、もう行くで。みんなが待ちくたびれる」
「……うん」
 すぐ嬉しげに頷いた千歳が後を追うのを白石がくすくすと笑う。
「ただし、セックスもキスも大会終わるまで禁止」
「え!? 決勝延期されたばい! それまで!?」
「当たり前や」
「……う、」

 なのに、それなのに。


 その後から、胸を浸食していくのは、紛れもない不安。

 不安というには過ぎた、それは最早恐怖だった。





 決勝が終わったその日。
 いいようのない不安に、流石に気持ち悪いと首をひねりながら千歳は呼び止める声に素直に返事をした。
 まだ会場の中で、試合をしたチーム同士の会話もよく見える。
 千歳を呼び止めたのは準決勝の相手の手塚。
「ああ、手塚」
「急にすまないな」
「いや、よか。ああ、優勝、おめでとう」
「ありがとう」
 素直に返事をした手塚と話しながら、ふと視界に過ぎったのは観客席とを隔てる手すりに手を置いたまま、固まったような部長。
「…?」



 ただの眩暈かと思った。
 じっとしていればおさまる。そう思った。

 けれど、頭を走るツキン、という鋭い痛みは更に酷くなり、徐々に間隔も短くなって頭を苛む。
 咄嗟に額を片手で押さえたが、なんの足しにもならない。
 ツキン、という痛みはズキンという重いものに変わっていく。
「…白石? どないしたん?」
 その時、背後で不思議そうに自分を呼んだ小石川に反射で振り返った瞬間。

 ―――――――――――ズキンッ!

 頭をなにかで殴ったような強烈な痛みが走り、咄嗟に暗くなる視界の中で手すりを掴もうと手を伸ばしたが、それは空を切る。
 やばい、そう思う暇もなく身体は地面に叩き付けられた。


「白石!!?」


 その場を千歳や、小石川の絶叫が響いた。
 一斉に駆け寄った四天宝寺の部員たちの中央で白石を抱きかかえ上げた千歳が医務室の場所を訊く。血相を変えた口調を受けて渡邊が案内するように走り出す。
 手塚は傍の大石と顔を見合わせた後、それを追った。





 再度受けた検査は、全員が耳を疑うものだった。
 意識を取り戻した白石は、すぐ大丈夫と笑った。
 だが、安堵する部員を凍り付かせたのは心配して見に来た手塚を見た彼の一言。

「…てづか? 誰?」
「…白石?」
 思わず呼び返した手塚を見て、白石は首を傾げた。
「青学? そんなところとうち、試合したか?」と。

 あの一撃が原因だった。
 岡蔵との試合の最中、頭を強打したラケット。
 白石本人には医師は軽い記憶障害だ、と説明した。
 だが白石のいる部屋から出て、渡邊に医師が説明したことに耳を疑った。

 それは、なんの映画の話だ。

 確か、あった。
 そういう映画。記憶が徐々に消えていく女性の話。
 消しゴムとかタイトルについた映画。
 それに似ている。

 徐々に、彼の脳は記憶を消していくという。
 一日ごとに、徐々に忘れていく。
 頭に消しゴムがあって、記憶を真っ白に消していくように。映画のように。

「彼はやがて、自分自身すらわからなくなる」

 ここにいる、あなたたちのことも。



「…千歳?」
 白石が病室で、ふと呼んだのは自分があまりに悲壮な顔をしていたからだ。
「…なに?」
 見上げる白石の顔、瞳は脅えていた。
 自分が訊いた以上のなにかがあるのではないか、と。
「千歳……なんも、ないやんな?
 これ以上、俺、忘れたりせえへんよな?」
 脅えた瞳ですがって訊く身体を必死に抱きしめた。
「なか。絶対、なかよ」
「…ホンマに?
 俺、忘れたりせえへんよな?
 親も、師範も健二郎も、小春もユウジも金ちゃんも財前も、謙也も、先生も」
「……絶対」
「…千歳がわからなくなったりせえへんよな……?」
 腕の中の身体は震えていた。
 全身で脅えていた白石を、ただ抱きしめて「忘れない」と繰り返すしかない。

 よく言うじゃないか。

 震えて、脅える身体を抱き寄せ、唇を重ねた。
 深く貪ったそれは、あまりに悲しい味がした。

 死を宣告された重病人は、「自分の身体は自分がよくわかる」と言うと。
 本人に内緒にしていた遺族が、本人が亡くなった後、日記で本人が知っていたことを知って泣く話を。



 白石は、もう気づき始めている。



 自分の中から消えていく、記憶の気配を。








→NEXT