「白石!」
夏休みも終わり、廊下で呼び止めたクラスメイトに振り返った白石にその生徒がプリントを伸ばした。
「これ! 俺の分!
頼むわクラス委員。忘れてかんで」
「……?」
白石?と呼ぶクラスメイト。
「…お前、うちのクラス?」
「え? なに言うてん? 班一緒やん!」
「………」
「あ、悪い白石寝ぼけとんやろ! さっきまで寝てたし!
ごめん持ってくわ!」
乱入した謙也が白石の腕を引っ張り、生徒のプリントをひったくって歩き出した。
不思議そうな視線が背後に突き刺さる。
「……」
茫然としたままの白石を、横目で見て耐えろと思った。
怖いのは、自分じゃない。
日に日に、彼は本当に忘れていった。
クラスメイトを、対戦校のチームを。
それでも、まだどうにかなると思っていた。
「ほな、今日はシングルスな。
Aコート、千歳と俺。Bコート、銀と小石川。Cコート、金ちゃんと財前。
以上! ほな…」
「ちょお白石!」
「え?」
小石川に呼ばれて、はたと顔を上げた白石の視界、小春と一氏が所在なさげに彼を見る。
「小春とユウジは!? 謙也は!?」
「……あ、そや。謙也は、その後財前と。
遅刻したから先、罰走」
「ああ…」
謙也を忘れてはいない。そう安堵したも、白石はすぐきょとんと小石川を見上げた。
「どないしたん? もうないやろ?」
「……え? 白石…。小春と、ユウジは?」
「………こはる、…とゆうじ…?」
「だれ?」
声を、顔色を失った部員達を、彼は不思議そうに見遣った。
削れていく。
確実に、確実に一日ごとに。どんどん。
消えていく。
忘れられていく。
彼に。
「最近、白石って変やない?
クラスメイトとかに誰って」
「この前、市倉も言われたよ。市倉って白石と同じ小学校やん。
で、テニス部」
「え? なに、なんか病気?」
テニス部以外の人間も気づき始める。程に鮮やかな異常は大きくなる。
「白石!」
呼び止める声に、白石はびくりと身を震わせた。
「白石?」
傍を歩いていた千歳がいぶかしげに白石を見た。
背後から呼び止めたのは保健医だ。
保健委員の白石とはよく話している。
白石の顔は蒼白だ。
「白石?」
傍まで来て伺った保健医を見上げた白石の顔は、まるで土気色だった。
「……白石?」
「………千歳」
「……なん?」
答えながら、もう彼がなんと思っているか理解出来ていた。痛いほど。
「…この人、…だれ?」
保健医も、渡邊から訊いていたのだろう。
顔を青ざめさせて、そうかとだけ、呟いた。
「白石!」
そろそろ引退も近くなった日。
答案用紙を片手に、彼に体当たりをした一年ルーキーが嬉しそうに彼を見上げる。
「ワイ、今回頑張ったんやで! 先生に褒められた!
白石のおかげやー!」
その跳ねる赤い髪を撫でて、そっかよかったな、と白石は笑う。
そして、呼ぼうとして、茫然とした顔。
同じ部室にいた、小石川たちがまさか、と血の気を失う。
「……名前……なまえ………、……なに………?」
顔を押さえて呟いた白石に、鈍い遠山も見上げて固まった。
「…遠山金太郎、や。白石」
静かに言った遠山に、そうやな、そうやと白石が頷く。
「……遠山、くん?」
金ちゃん
「………ちゃう。そうやない」
思わずそう否定した遠山に、白石は口元を押さえて後ずさった。
「白石!!」
すぐ部室から飛び出した白石の背中に、千歳の声がぶつかる。
わからなくなっていく。
確実に、なくなっていく。
あの子が誰かさっきまで自分は覚えていた。
なのにもうわからない。
「遠山」って名乗ったやないか。
なんになんで違うて言うん?
まさか、それすら間違ってる?
訊いた傍から忘れている?
同じ教室の友だちの名前、教師、部員。
なにもかも、消えていく。
忘れてしまう。
みんなを、千歳を。
「…イヤや。イヤや!」
忘れたない。
だって、みんなとここに入って、一緒にテニスして、全国行って、二年から部長を任されて。
みんなに。
ぴたりと足が止まったのは中庭。
ぺたり、とその場にしゃがみ込んだ白石を、なんだと在校生が見遣る。
『白石ぃ! 頼むわ、謙也貸して! 陸上部苦しいんや!』
『白石! 来年は小石川と頼むな!』
『白石、頼むで。新部長!』
『白石、こいつ、今年からうち入ることになった―――――――――――――』
ここ?
ここって、『どこ』?
背後から、追いかけてきた千歳達がしゃがみ込む白石を見つけて名を呼んだ。
それすら、頭がうるさくて耳に入らない。
ここって、どこ?
俺の通ってる学校やろ?
どこ?
「……や、…イヤや。…や…いや…っ」
頭を押さえて必死に左右に振っても、わからなくなっていく。
違う。もうわからない!
「…イヤっ…イヤや! なんで…!
部長もやって…部長…どこの…。
ここ…なに……。
イヤや! なんで、なんで…っ」
「白石!」
傍にしゃがみ込んだ千歳が身体を抱き込んで覗き込む顔は、無惨に青ざめて涙が頬を伝う。
頭を必死に押さえて、彼は嘆いた。
「…なん…なんで…イヤや!
…なん…っイヤ……ここ……」
「白石! どげんしたと!?
白石…?」
「……千歳……、ここ……どこ……」
「………」
千歳すら、傍に立った謙也たちすら反応が出来ない。
「……わからへんねん。自分で来たはずなんに…ずっと通ってたんに。
部長も…やって…その学校……。
名前……。
わから……ここ…どこ……。
……俺、どこにいるん…っ?」
消えていく。
必死に千歳が抱きしめた腕の中で嘆く身体は、震えていた。
なんでだ。
俺の所為か。
あの日、俺がネットに詰めていればよかった。
彼を前に行かせるんじゃなかった。
厭な予感がしていたのに、何故わからなかったんだ。
なんでだ。
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