櫻心中

中編U−【知らないあなたの腕の中】






「…千歳、千歳」
 身体にすがりつく身体をそっと抱きしめた。
「ぎゅってして。もっとして」
 すぐ泣き出す身体を、きつく抱いた。
 寝台の上、なにもまとっていない裸体を抱いて、額にキスをした。
「…もっと、して」
「今日は、もう…。お前が辛か」
「して…!
 明日んなってお前のこと忘れたら、俺拒んでまう…!
 ええから抱いて…もっと犯して、滅茶苦茶にしたって…!」
 必死に泣いて願う身体を掻き抱いて、唇を塞ぐ。涙の味がした。

 白石はあの日から、学校を休んでいる。
 学校の場所も、名前も忘れた彼がこれ以上普通に通うのは不可能だった。

 彼はもう、一氏や小春だけでなく、渡邊も、石田も、小石川もわからなくなっていた。

 彼が覚えている人間は、親と、謙也と、自分だけ。



 それでも、自分は微かに驕っていたのだ。


 彼は忘れない。

 親を忘れても、謙也を忘れても。


 俺だけは忘れない。




 それが、驕り以外のなにものでもないと、気付かなかった愚かな自分。





 千歳が帰った後、部屋で膝を抱えていると闇が覆い被さってきた。
 部屋に立てかけてあるラケット。
 あれが、なにに使うものか、今まさに消えていくと自覚した。
 急激に恐ろしくなった。

 待って。
 待って。
 テニスや。テニスに。テニスってなに?
 謙也と、千歳と一緒にやってる部活の。
 部活って?
 謙也と一緒に入った、謙也って誰?

 覚えていることを手掛かりに思いだそうと足掻く傍から、その手掛かりを忘れていく。
 消えていく。見失う。
 誰かが自分を嘲笑うように、闇が増えていく。

「―――――――――――――っ…」

 イヤや。
 待って。消えないで。
 忘れたない。

 咄嗟に携帯を握った。
 携帯。どう使うもの?
 それすらわからなくなる中、必死にボタンを押す。
『千歳』の名前が表示される。

 お願い。
 お願い。忘れたない。
 千歳だけは。

 千歳だけは忘れたない。

「千歳!!」



『白石!?』



 気遣ってか、白石の元へは見舞いに来ないようにしていたメンバーが駅で待っていた。
 彼らに白石の様子を話すのが今の日課だった。
 彼らが乗り込んだ電車に乗ろうとした時に、鳴った携帯。
「白石!? どげんしたとや…!?」
 謙也たちが顔を見合わせ、電車の中から伺う。

『千歳…っ…千歳! 来て。今すぐ来て!』

「白石!?」

『早く…早く来て…!
 一秒で来て!』

 そんな出来もしない、不可能な無茶を、あの理論屋な彼が言葉にした。
 それがどれだけ、彼が追いつめられているかを思い知らせた。
「千歳!」
 謙也が叫んだ瞬間、電車のドアが閉まる。
 走り出した電車の中で千歳を追うように中を走る謙也たちを見もせず、千歳は駅の出口に走り出した。
 すぐタクシーを捕まえて乗り込む。
 携帯は既に、切れていた。



 消えていく。
 わからなくなっていく。
 千歳は九州から来て、今年会った。
 ? 千歳はいつうちに来た?
 何年からうちにいた?
 一年から一緒にいた?
 なんでうちに来た?
 なんで大坂に来た?
 怪我が、なんの怪我?
 誰と試合をして負った怪我で、誰と?
 千歳は、どんな顔で笑っていた?

 なんて、俺を呼んだ?




 ちとせ って どんな字?




「白石!」
 玄関から物音がして、部屋に飛び込んできた千歳の視界。
 携帯を床に落としたまま、茫然と宙を見て涙を流す身体。
 駆け寄って、何度も呼ぶと、ぼうっと千歳を見た。
 その瞳が、詰るように見上げる。
「なんで、もっとはよ来ない」
「…、ごめん。白石、」
「…なんで、…なんではよ来て欲しかったんやろ…」
「…白石?」
 翡翠の瞳が、もう詰る色をなくしてただ揺れる。
「やって、忘れたなかった。
 お前だけは忘れたなかった。
 呼びたかった。お前の…なまえ」
「…しらいし?」
 まさか。
「……のに…なんで間に合わなかったん…」
 頬を、新しい涙が流れる。
「なんで俺が忘れる前に来てくれなかったん…?」
 言った傍から、自分の言っていることがわからないと呟く唇が青い。
「…なに言うて…俺。
 やって…呼びたかった。…お前だけ…お前を……。
 …ごめんなさい」
「…しらいし」
「…もう、わからんねん。
 ……もう、なんもない。お前の顔も声も…頭に…ない」


「おまえ……誰なん…?」


 俺のなに?


 必死に、悲しんで、慟哭に震える身体と裏腹に、彼はそう言った。


 何故、間に合わなかったんだろう。
 自分自身、本当にそう思った。
 なにに遅れてもいいから、これには間に合わなきゃいけないんじゃないのか。
 なにがなんでも、間に合うべきじゃないのか。
 待っているべきじゃないのか。

 間に合わなかったタクシーに、あの時駅にいた自分に、帰ってしまった自分に、忘れた彼の記憶に、そう責める言葉が浮かぶ。


 ああ。


 千歳の頬にも、涙が伝って、震えて立つことも出来ない身体を抱きしめた。
 もう、彼の中に俺はいない。
 俺を好きな、彼はいない。



 コレは、ドラマじゃない。

 そんな都合のよいタイミングも、シーンも、感動もない。


 これは、ドラマじゃない。映画じゃない。




 ただの、…現実だ。









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