「白石」
毎日のように、部屋に訪れる千歳を見上げて、白石は一瞬瞳を揺らがした。
「…誰、?」
「ちとせ、ばい」
「…ちとせ」
もう、きっとなにも覚えていない。
今の彼は、親も、俺達も、誰も覚えていない。
彼が呼ぶ、名前はない。
完全に真っ白な彼の記憶。
自分自身を忘れる日すら、きっと遠くない。
ここは、彼の家だけど、来週には彼は病院の施設に移る。
「…なんでここおるん?」
「会いに来た」
「なんで?」
「…白石を、好いとうし」
それが、自分への免罪符だとよく知っていた。
痛いほど、知っていた。
自分が忘れないことで、白石の中に残っていると俺だけが信じている愛情を失うまいとした。
本当は理解している。
そんなもの、残っていやしない。
彼はもう、俺を知らないまま、愛さないまま。
千歳千里を、一生覚えない。
「…すき…て?」
「一緒にいたかってこつ」
「…い…?」
それすらわからないのだ。もう。
「なんでおるん?」
同じ事を訊かれるのも、何回目か。
すぐ訊いたことすら忘れる彼の記憶は、なにを言っても覚えた傍から忘れる。
言っても無駄と、いい加減学習してもいいのに、自分はそれを繰り返した。
「…お前、誰?」
今、名乗ってから五分も経っていないのに。
そう笑った。
「…ちとせ、ばい」
「…ちとせ?」
ただ、綺麗なだけの人。
もう、俺の好きな白石じゃない。
俺を好きな、白石じゃない。
それなのに、好きで仕方ない。
「…?」
白石が虚ろな瞳で、伸ばした手で千歳の頬を撫でた。
その手についた涙を、舌で舐め取る。
「…白石?」
「……味、する」
もう、「涙」もわからない。
それでも手放せない。
俺が忘れたら、本当に終わってしまうんだ。
「…白石」
そっと身体を抱きしめた。
もとより、男同士ということすらわからない彼が抵抗することはない。
「…白石、白石……白石」
「……」
「…好いとう。ほんなこつ、好いとう。
……愛しとう」
「……お前、誰やっけ?」
「……好いとう」
最早、たぐる手掛かりすら失った白石を、こちらに連れ戻すことなんて不可能で。
なんて滑稽なのかと己を思う。
「……愛してる」
それでも、繰り返した。
自己満足でもいい。それが一生続いたっていい。
離したくない。放せない。忘れたくない。俺まで忘れたくない。
白石がいた証を、テニスをした証を、俺を愛した証を。
忘れてなるものか。
俺まで、忘れたら終わってしまう。
本当に全部、白石の全てが、白石と俺の全てが終わってしまう。
「……白石、…愛してるばい」
絶対に、離さない。離れない。忘れない。
自己満足でもいい。ただの馬鹿で構わない。人生が狂うなら、彼と出会った瞬間に余さず全て狂っていた。
だから、いい。
狂ったと言われたっていい。
俺は最初から狂っている。
白石を知った瞬間に、全て余すところなく狂っているんだ。
だから、いいんだ。
「愛しとうよ…白石」
「千歳、お前、すごいな」
謙也がある日、溜息と共に言った。
「俺は、もう、怖い」
「…あいつが?」
「誰、て言われるんが…」
あいつは今でも好きで、やから怖い。
その気持ちを、よく理解できる。
「誰?」と言われるたびに死んでいく心。
もう愛してるなんて告げないと思い知っても期待して、絶望した。
死んでいくようで、イヤだった。
あの部屋に、行くこと。
それでも、彼の顔が見たかった。
もしかしたら、今日は一分は覚えていてくれるかもしれない。
もしかしたら、笑ってくれるかもしれない。
もしかしたら、問いかけじゃなく俺を呼んでくれるかも。
もしかしたらもしかしたらもしかしたら。
そんな、あまりにちっぽけな期待にすがって、望んで。
生きたいから、彼の元に通い続けた。
彼を本当に失ったら、死んでしまうから。
床に広げたままの、アルバムを撫でた。
この名前も、わからない。
それに一杯あるのが、人の顔というのは、かろうじてわかる。
『 』
今日、来た人は俺になんて言った?
なんて名前だった?
わからない。
でも、なにかが目から流れていた。
胸が痛かった。
見たくないのに、会いたいと思う。
どうすればみんな悲しまない?
悲しむってなに?
視界に触れる、壁に立てかけたなにか。
あれは、なにに使うものやった?
これに写るみんなが持ってる。
なんでわからない。
いつ、なにが狂った?
どうしたら、あの人はもう泣かない?
どうしたら、「千歳」はもう泣かないで済む?
枕元で鳴った携帯に、千歳は浮上した意識で大きくなる心臓の音に痛みすら覚えた。
自分のアパートの部屋。布団の中。
時間は、夜の二時。
携帯が、鳴っている。
なんだ。この感じ。
プルルルルルルル…
嫌な、厭な感じ。
あの時とは、比べモノにならないような。
震える手で、泣き出したい気持ちで通話ボタンを押した。
なにに泣きたいのかもわからない。
『…夜…く……千歳くん?』
震えた女性の声。確か、白石の母親。
『蔵ノ介、そっちに行ってない……?』
部屋を見たらいないんや。
あの子、もう車も道も、家の場所もどこもわからへんのに。
いなくなって、帰って来ない。
「謙也!」
裸足で部屋から飛び出して、すぐ携帯で別の番号にかける。
『白石のおかんに訊いた! もう探しとる!』
「小石川たちは!?」
『あいつらからも連絡あった!』
謙也の声も、機械越し、荒い呼吸が混ざってた。
多分、きっと謙也も感じている。
小石川も、他のみんなも。
この、どうしようもない厭な感触を。
「白石!」
どこに、いるんだ。
「千歳! やっぱり、お前もここ…っ」
四天宝寺の校門で、走ってきた謙也と小石川に出くわす。
二人も同じことを考えたのだろう。
「心当たりは全部回った! もうここしか…」
「あ、謙也くん! 副部長!」
後ろから財前や小春たちが姿を現す。
考えることはやはり同じだ。
門をよじ登り、校庭で一度散る。
その時、ふと小石川が足を止めた。
「小石川?」
「……おい」
掠れた声で彼は、遥か上を見上げて目を見開いた。
まさかと習うように見上げた、屋上の淵。フェンスの外。
「白石!?」
そこに立つ姿は間違いなく彼で、声も聞こえないように一歩踏み出す。
「白石! やめろっ…よせ―――――――――――――!」
小石川の絶叫の横で、謙也が口を押さえて喉から悲鳴を上げた。
もう一度白石が踏み出した足の先は、もうなにもない。
傾いた身体は、一瞬。
すぐ、そこから見えなくなる。
人一人が確実に落下した、という音がその場の静寂を破った。
「……………ぁ……っ」
凍り付いたその場で、初めに行動を起こしたのは遠山だった。
すぐ財前もその後を追って、白石が落下しただろう場所に急ぐ。
中庭を抜けて、花壇を越えた裏庭。
途中、白石の身体がぶつかったのか、折れた木の枝と。
白石の意識のない身体を受け止めた姿勢で、倒れている千歳の姿。
荒く呼吸を吐く千歳の手は、それでも白石の身体をきつく抱いていた。
「はやく…救急車…」
「あ、は、はい!」
千歳の声に返事をして、財前が携帯を取り出す。
遅蒔きにやってきた小石川たちが、千歳の腕の中で確かに息をする白石を見て、その場に糸が切れたように座り込んだ。
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