「俺、東京の学校受けるかもしれん」
ことの発端は、謙也のこの一言だった。
「光〜」
困り果てた声で、千歳は自分の椅子に背後からしがみつく後輩を振り返った。
この後輩は本当肝が据わっているので、先輩の教室に堂々来たくらいじゃ驚かない。
だが、ずっと黙りでそうしたままだと、さしものマイペース人間千歳も困る。
「どげんしたとや? ほんに。
昼休み終わるったいよ?」
無返答。
「…はぁ」
本当にどうしたんだ。
そこにタイミングよく小春と一氏がやってきた。
「千歳ー。ってホンマやな」
「なにがね? ユウジ」
「いや、お前に光が張り付いとるって通報受けたんで来たんや」
そこに「あ、ホンマや」と同じ通報を受けたらしい小石川がやってきた。
「ご足労ばい。ばってん助かったと」
「どないしたん光〜? 相談ならウチらにしましょ?」
「小春先輩らは問題大きゅうするんで嫌です」
やっと口を利いた。
「大きくして欲しくない問題なん?」
「はい。つか、相談出来れば…」
「ならなんで俺の質問にずっと黙りやったと?」
「あんたに相談するんは腹立つんですわ」
「やったら最初から小石川んとこ行けばよか…」
つい棘の出た千歳を小石川がまあまあと宥める。
「とりあえず、もう時間ないし、放課後部室で訊こか」
「――――――――――謙也が、そう言うたん?」
放課後の部室。引退した三年生が居座っても文句を唱える後輩がいないのは、ひとえに今の三年が尊敬されている所為だ。
それに、今日は部活はない。
「はい、『東京の学校に行く』て。いや決定事項やないみたいなんですけど…悩んではるみたいで」
「せやけど、謙也が? なんでまた」
すると、財前はずぅん、と沈んだ。
落ち込ませた!と慌てる小石川に、後輩はぽつぽつと死人の口調で語りだした。
それは、今日の昼休みに遡る。
「そういえば、謙也くん」
「ん?」
昼飯はいつも謙也ととっていた。
同級生に合わせられないと断言する財前を、謙也が早くに気付いて飯に誘って、それからもう二年近い。
「謙也くん、少し勉強しはった方がええんやないですか?」
「お前、いきなりなんやねん」
「いえ」
自分のクラスに遊びに来る他のクラスメイトの先輩たちや、自分が話す先輩の会話からも最近よく「受験」というキーワードが増えた。
指定校推薦押さえないと、とか、勉強して少しでも底上げしないと、とか。
謙也はどうせ、四天宝寺附属の高校に行くのだろう。テニス部の先輩も、大抵の先輩もそうだし。
そこは一応礼儀として言っただけだ。謙也が頭が悪くないとは知っている。彼の場合、周囲にいる白石が目立って秀才だから劣っているように見えるだけなのだ。
「受験?」
「はい」
「あー、そやなぁ。
俺の成績やと、推薦受かるかな…。
指定校あいとるとは訊いてるんや…取れるかな〜」
「……? 附属の高校、そない倍率高かったんですか?
指定校使わなアカンのですか?」
詳しいことは知らない。ただ、先輩たちが普通に受かると言っていたからてっきり難易度の低い学校かと。
「いや、ちゃう。俺は附属行かへん……多分」
その瞬間、心臓が嫌な感じに軋んだ。
「…謙也くん、どこ行かはるんですか?」
「ん。東京の学校受けようと思っとるんや」
―――――――――――――東京。
顔が凍り付いた財前に気付かず、謙也は指定校がうちからでもある言うし、と話している。
「なんで…………ですか?」
「え? ああ。侑士がな、高校は同じとこ行かへんかて。
俺としても同じ学校であいつとやるんは楽しいやろし。
他にも理由はあるけど…。まあ。
白石が附属行くんなら俺もそうしたんやけど…」
最後の一言は財前の耳に入っていない。
「従兄弟さん…スか」
「うん」
「氷帝…?」
「まあ」
普通に受け答えた謙也が、ハッとしてそちらを見たときには財前の姿は影も形もなかった。
「…―――――――――――――氷帝志望…。しかも理由が従兄弟か……」
それは光には致命傷や、と小石川がぼやく。
「謙也もなー…なにを思い至ったんやろう」
「いっそ落ちればええんに……」
「おいおいおい光! それは願ったらアカン! 願いたくても受験生に願ったらアカン!
受験生の前で言ったらアカン!」
「あらゆる滑るとこで滑って滑って落ちればええ」
「光! アカン! アカンから!」
完全にネガティブになった財前を慌てて諫める小石川が、はたと沈黙しっぱなしの巨躯に気付く。
「千歳?」
「今ん話ん中の…」
「うん?」
「『白石が附属行かない』ってどげん意味?」
!!!!?
今頃他の全員も気付いたらしく、フリーズした。
「……そっか。白石、どこ行くんやろ……」
「いや、謙也の勘違いの可能性も…!」
ひそひそと言い合うユウジたちの背後で部室の扉が開いた。
白石だ。
「あ、千歳。今、ええか?」
「よか。白石、」
「ん?」
普通に笑顔で近寄ってきた白石の左手首を掴んで千歳はその顔を軽く見下ろした。
左手をがっちり掴んだのは途中で白石を逃がさないためだな、と小石川。
「お前、附属行かんとか?」
「ああ、今まさにその話をお前にしよう思って探してたんや」
ということは、「附属行かない」は謙也の勘違いではないということか。
「あのな、俺、卒業したらドイツ行くことになってん」
「…………………………………………は?」
「「「「…は?」」」」←千歳以外
「俺としては、夢として進路としてプロになるんにいつか海外行くんも視野にいれなあかんて思っとったんやけど、そしたら先生が『アメリカ、ドイツ、イギリスの学校からお前に特待生の話来てるで』って言うんで。
せやったら手塚くんもドイツ行くし、ドイツがええわって。
てことで、俺、卒業式の日にドイツに発つな」
さらっとすかっと笑顔で言われて、千歳も言葉が挟めない。
「て、だけやねんけど。
あ、そや。俺、今日はよ帰らな。
ほな、先帰るな」
ひらひらと白石が振るのは左手で、どうやら千歳があまりのショックに離してしまったらしい。
「…って、白石!? 待つばい!」
はっと我に返った千歳が嵐のように追いかけていく。
それを他のメンバーも追ってしまった。
「白石!」
部室棟の並ぶ中庭で手を再度掴まれて、白石はきょとんとした。
「ど、ドイツ行くって…なんかなかの!?」
「へ……?」
「お、…俺は……」
ここで、笑顔で「お前が理由になるんか?」とか言われたら死ぬ。
しかし白石はしばらく考えたあと、手をぽん、と打った。
「ああ!」
「……『ああ』?」
「そっか。なんか準備が順調に進む中なんか大事なこと忘れてる思たわ。
…お前のことや」
千歳も、追ってきた小石川たちもずっこけそうになった。
学校の『太閤祭』で披露出来るような見事なずっこけだったと思う。
白石はどうやら、今の今まで『ドイツに行く』=『千歳と離れる』ということがリンクしていなかったらしい。
頭いいわりに変なところで抜ける。本当に。
「白石、俺は常に一緒じゃなかよ…?」
「あ、そうやな。ごめん」
気付いて、白石はしゅんと肩を落とす。
だが、これで勝率は若干見えた。白石がこれで進路を日本国内に思い直してくれれば。
そんな千歳の希望を砕くように、白石は真面目な顔で、
「千歳、ごめん。
俺、今更ドイツ行くんやめられへんわ。
周りに申し訳ないんもあるけど、俺の夢と進路として一番やねん。
やから、千歳と離れても行く。
ほら、今、ボイスチャットとかあるやんか。
声で我慢してくれ。
……どうしても無理やったら」
そこで初めて白石が伏し目がちに言った。今度こそ希望かと顔を上げた千歳の肩を叩き、白石はやけに男前に言う。
「俺と、別れよか」
「…………………………」
茫然となる千歳を余所に、白石は淡々とした態度だ。
「やって遠距離恋愛が嫌なら、行くんやめるか別れるかしかあらへんやん。
せやけど俺は千歳が代償でもドイツ行くんやめる気あらへん。
せやったら、別れよか。
選んでくれるか?
俺と別れるか、笑って見送ってくれるか」
「………………………(フリーズ)」
「千歳? んー…ほな、三日以内に決めてな?
決まらんかったら自動的に俺が決めるから。あ、じゃ、もう帰らな。ほな!」
ぱっぱっと部活を仕切る調子で言って白石はさっさとその場を去る。
残された千歳が砂と化すのを、誰もフォロー出来なかった。
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